第9話屋上
屋上に上がったユウヤと柏木の目に貼ったのは夕焼けの空だった。
茜色に染まった空に煌々と輝く夕日。かつて見ていたのであろうその景色にユウヤはどこか懐かしさを感じていた。
ユウヤは屋上から中庭や校舎を見下ろす。彼女を、アテナの姿を懸命に探すが、求めているその姿は見当たらない。ユウヤは近くのベンチへと腰を下ろした。
しばらくして柏木がユウヤの隣へと座る。
「パートナー、いた?」
「…いなかったっす」
「そっか。私のパートナーも見つからなかったよ」
そう言った柏木の表情は沈んでいた。自分の生き残れる唯一の可能性とも言えるパートナーとはぐれてしまっているのだから無理もないだろう。
ユウヤの中の不安も拭えきれないものだった。記憶を失っている彼の唯一の頼みの綱であったアテナとは離れ離れ。どこを探し回っても彼女の姿は見当たらなかった。既に万策は尽きている。
絶対にこの校舎にいるはずなのに手が届かない。不思議かつもどかしい感覚にユウヤは悶える。もはや運命が邪魔をしているとしか思えなかった。
「お互い見つからず、ですか…」
「みたいだね〜…もし見つかってたら私のこと殺してた?」
問われたユウヤは少しの間思考する。もしアテナと合流できていたら自分は彼女を殺していたのだろうか。
パートナーのいない彼女はきっと弱い。なんせ、生身の人間なのだから。ユウヤのように能力が使えるわけでもない。なんならユウヤだけでも殺せてしまうだろう。
だが、ユウヤはそれをしようとしなかった。それは彼の中に眠る『優しさ』なのだろう。
「多分、殺さなかったと思います」
「へー…絶好のチャンスなのに?なんで?」
柏木は首をかしげてそう問いかける。ユウヤは肩をすくめて答えた。
「なんででしょうね。自分でも分かんないっす」
「…やっぱり、ユウヤ君は優しいね」
そう言うと、柏木はユウヤの肩に頭を預けてきた。予想外の出来事にユウヤは思わず驚く。
「ちょ…柏木さん?」
「…ねぇ、ユウヤ君。このまま二人っきりだったらどうする?」
少し声のトーンを下げて柏木が言った。その言葉には目の前の現実から来る不安と焦りが含まれていたように思えた。
ユウヤは彼女の横顔を見つめて言った。
「…どうしようもないですね」
「ふふ、そうだよね。ユウヤくんは私のこと殺せないもんね…」
鼻をかすめる花のような香りにユウヤの胸の高鳴りは加速していく。ユウヤは無意識に柏木を異性として意識してしまっていた。
「…ユウヤ君」
ふと柏木の顔がユウヤに近づく。思わず体勢を崩してしまったユウヤは柏木に押し倒された。
上に覆いかぶさった柏木の髪がユウヤの視界を狭める。彼の視界に映るのは柏木の整った顔だけだ。
ユウヤの視線は彼女の吸い込まれそうな瞳に奪われる。
歳の近い異性とこの距離なら、多少は心が弾むものだろう。だが、ユウヤの心は違う感情を感じていた。
「柏木さん…?」
「…ユウヤ君覚えてる?前に屋上でこうやって私がユウヤ君のことを押し倒した時のこと」
柏木の言葉でユウヤの脳内に記憶が蘇る。以前に見た屋上の景色。茜色に染まった空を仰いだユウヤの視界を奪ったのはあの時も彼女だった。
その時、ユウヤの中で生じていたズレが一斉にうなりを上げて動き出した。
何かがおかしい。目の前の笑顔の彼女を見たユウヤは強い拒絶反応を示す。
今まで形容できなかったその違和感の正体がユウヤの中で姿を現した。
そして、霧がかっていたユウヤの中の柏木という人間像が浮かび上がってくる。
「あの時もこんな夕焼けが綺麗な日だったよね」
(あぁ、そうか)
「二人で何気ない話で笑ってさ」
(そんなんじゃないだろう)
次第に沈んでいく柏木の瞳を見てユウヤの記憶は浮かび上がってくる。手を伸ばしても届かないところまで沈んでしまったその瞳は見るもおぞましい狂気に満ちあふれている。
柏木美奈という存在をユウヤは思い出した。
「いつもユウヤ君は私の話聞いてくれてさ。落ち込んでるときも優しく励ましてくれて…」
(貴方はそんな人じゃない)
「私、嬉しかった。…ユウヤ君は私のこと全部わかってくれる。ユウヤ君は、私に寄り添ってくれる。…だから、他の人に渡したりしない。ユウヤ君は私のもの」
(貴方は、)
「だから、私のために死んで」
「ッ…」
ユウヤの喉元にナイフが突き立てられる。どこから取り出したものだっただろうか。スカートの下だったか、それとも制服の内側に隠していたのか。なんにしろ不注意であったことに変わりはなかった。
ユウヤは両手両足を動かせる状態だったが、少しでも動けばナイフが喉を掻っ切る様が容易に想像できたため、下手に動くことはしなかった。
完全に動きを封じられたユウヤはただ柏木を睨みつけることしかできない。
「会いたかったよユウヤ君♡まさかこんなところで会えるなんて…」
目の前で奇怪に笑う彼女はユウヤの記憶の中にいた彼女だった。猟奇的な笑みを浮かべて、自分に溢れた感情を意のままに押し付けてくる。その姿を見たユウヤは、彼中のピースが一つハマったような感覚だった。
少しでも時間稼ぎをとユウヤは柏木に問いかけた。
「…俺を殺して上の階に上がるつもりですか」
「う〜ん、しばらくはユウヤ君と一緒にいようかな。久しぶりのユウヤ君のぬくもりを感じていたいからね」
柏木の瞳の奥に潜んでいたなにか。その正体にユウヤはようやく気づいた。
それは彼女の闇。誰も触れなかったがために黒く塗り固められた逃れることのできない闇。溢れてくる彼女の闇はユウヤを飲み込もうとしてくる。
「ここで殺しちゃえばユウヤ君は永遠に私のもの…あぁ、ついに叶うのね」
(どうにかしなくちゃいけないのに体が動かない…)
ユウヤの喉元に据えられたナイフが少しずつ首に食い込んでくる。鋭い痛みが彼の意識を蝕みつつあった。
下手に動けば殺されかねない。かと言って動かなければこのまま殺される。どうすることもできないユウヤはもはや祈るだけだった。
もはやこの際なんでもいい。アテナでも、他のプレイヤーでも、あるいはあの理由の分からない生命体でもいい。誰でもいいから助けてくれ。
そう祈った瞬間だった。鋭い破壊音が屋上に響き渡る。まるでガラスが割れたかのように空が悲鳴を上げた。
バラバラに散った破片は花を描き、床に飛散する。割れた空間から飛び出してきたのは他でもない、ユウヤが待ちわびていた彼女だった。
「ユウヤ!」
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