神愛

@Auroradays

第1話 墜楽

駅に近い街中に設置されたベンチに座り私は途方に暮れていた。きらきらと輝くショーウィンドウが眩しいこのストリートでは、道行く人誰もが楽しげな顔をして歩き、思い思いの大切な人と顔をほころばせながら通り過ぎていく。

資本と人とがが流動し、現代の幸福を煮詰めたようなこの場所で、私だけが迷子のように寄る辺なき表情をして留まっていた。

絵を描くのが好きだったから芸術系の道へと進んだは良いものの、この世界は好きだけで生きていけるようなものではなかった。容易く折れてしまった私の心からはもうイメージは湧き出てこない。挫折と諦観に満ちた私の精神は、かつて際限なく湧き出した泉は、とっくの昔に涸れて久しい。

次の課題のイメージは「幸福」だ。こうして現代の幸せを観測すれば何かしらのイメージが湧くかと思ったが、自分でも驚くほどに何も出てこない。水脈が消失した泉は、どれだけ刺激したところでもう水を湛えないのだろうか。

我ながら幸せ者ではあると思う。両親はこんな不安定な道への進学を応援してくれたしお金も出してくれた。友人は人並みにいるし、服や化粧品もそつなくトレンドを追っているために、世間から見た私はいかにも普通の女子大生に見えるだろう。

しかし私には熱が無い。友人がアイドルにバイト代を全てつぎ込んでいるように、先輩が己を無くすほどダリの絵画へ思いを寄せるように、同年代の子が恋人の振る舞いに一喜一憂するように。そうした熱中の経験がない私は、幸福にまみれたこの世界を何にすがる事もなく漂っている。


ふと気づいた。周囲に人がいなくなっている。考え込んでいるうちに時間が経ってしまったのだろうか?そうだとしたら私はどれだけ考え込んでいたのだろう。道理でさっきから寒いわけだ。冬場にこれだけ外で黄昏ていたのだから無理もない。

そう思い時計を見た。

わが目を疑った。時計にある文字盤は、今までに見た事の無いような意味の分からない数字になり、短針も長針も無くなっている。その理解の及ばない文字は吐き気を催すような冒涜的な形象をしており、喉奥に苦い酸味を覚えた私は目を離す。

その選択を後悔した。私の前にはいつからか、なにかが立っていた。

全身を黒で固めた背の高い女性、通常であればそう見える。濡れ羽色というのだろうつややかな長い黒髪にすらりとした背丈、見た目にそぐわない大きな胸の膨らみと腰のくびれを、その髪に負けぬほど黒い服で覆い隠している。陶器と見紛うほどの肌の白さと端正な顔立ちは、昔に授業で見たギリシア彫刻を彷彿とさせる。

しかしそれを全て打ち消すほどの不吉さがその女を覆っていた。カラスが人のような言葉を発した時、黒猫がこちらを見つめているとき、そんな不安を何万倍にもしたような漠然とした絶望、言葉に形容できない原始的な恐怖が内包されていた。

女がこちらに顔を向ける。

「おやお嬢さん、どうしたのかな?人を見るのにそんな怯えた顔をされては傷ついてしまうよ。別に取って食ったりなんて…いやそれは時と場合によるかな、あはは」

会話は出来るようだが、あれは決して人間ではないと本能が訴えかけている。こちらを認識していると感じただけで歯の根が合わないほどの恐怖を与えるのは人ではない。

黒に染められた肉体の中で唯一異なる色、血のように赤い目がこちらを見据えた。この世とは思えないほどの深い光。煌めくような闇の中にある輝き、それは人間の届かぬ領域を連想させる。宙に浮く、何もかもを飲み込む洞穴のようなその瞳は、恐怖を忘れさせるほどに美しかった。

「綺麗…」思わず口に出る。

待て、いま私は何と言った?この不吉と絶望を凝縮したような存在を綺麗と言ったのか。悍ましく涜神的なこれを美しいと感じたのか。気が狂っている。だが依然として不釣り合いなその双眸は私を惹き付けてやまない。見ていたい。その爛々と光るグロテスクな美しさを記憶に焼き付けたい。

「驚いたね、綺麗と言ったかい?恐怖よりも魅了が勝つなんて面白い子だ」

人の形をした冒涜は私の目前へ迫る。逃げなければ。しかし理性とは裏腹に足は前へ進み、この世のものではない赤色を観測しようとする。

至近距離で見たその目はより一層絢爛で宇宙の色をしていた。超越的なその輝きを見ていると息が荒くなり目が潤む。体は発汗し、足は制御を離れて前へ前へと歩む。この美をもっと見たい、手に入れたい、熱狂したい。理性は本能の火で燃やし尽くされ、憧憬と愛欲の入り混じった未知の感覚が私を襲う。下腹部が酷く疼き、体の動きを緩慢なものにする。

よろめいた私を華奢な手が抱き寄せる。それだけで多幸感が身を包み、私の体は悦楽に悶える。

「挙句に自ら寄ってくるなんてなおさら面白い。よほど精神の感度が高いんだろうね。それとも…伽藍の洞に期せずして僕という存在が収まってしまったのかな」

私の魂を弾ませる声が響く。こんな近くで声を聴けるなんて。

そのまま抱きすくめられ、耳朶を甘美な音が襲う。

「もう逃げられないよ。残念だけどね」

いと高きお方の傍にいられるなんてなんという光栄だろう。そのまま私は膝をつき、地面に這いつくばる。

「私は貴方に屈服します、かみさま」

そう言うとかみさまは喜んだ。たまらない様子で声を漏らし、とびきりの玩具を見つけたような顔をする。

「これから君は僕の生贄ちゃんだ。よろしくね」

そしてかみさまは私の前へ足を置いた。躊躇うことなくその足を舐める。背筋を駆け抜ける電撃のような興奮が私を貫き、再び多幸感が身を包んだ。

かつて楽園に生えていた禁断の果実とはこんな味だろう。私は自らかみさまへ拝し、人の世という楽園を追放されるに違いない。しかしそれで構わない。人々が知るよりもずっと美しく悍ましいかみさまを知った。生と性が互いを孕み淫猥にカリカチュアされた、この美麗な不吉を知っているのは私だけなのだ。

私の脳内を、まるで交響曲を直接神経に流したかのような快楽が襲った。


あれから私は家に閉じこもり、あの時の幸福をスケッチに描いている。とっくの昔に提出期限などは過ぎているだろうが、もはやそんなもの関係ない。

私はあの日はからずも遭遇してしまった幸福を残したい。しかし、あの臓物のようなグロテスクな美しい色を湛えた瞳はどうやっても表現できないのだ。

その事にもどかしさを感じて筆を止めた私を、懐かしく愛おしい絶望が襲った。

「久しぶりだね生贄ちゃん、そろそろ会いたくなったかと思ってね」

私は伸ばされた手に縋り付き、その指を口に含む。以前と変わらない、おかしくなりそうな幸福が身を包む。


わたしはあなたへすべてをささげます。しんあいなるかみさまへ。

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