カフェで死にかけた話
白夏緑自
第1話
今日がその日だと、予感めいたものを感じながらベッドから這い出る。大事件が起きて、今日という日が有耶無耶になればいいと思う。
私と慶介が付き合って丸五年。付き合いはじめたころの大火の情熱は蝋燭の灯ほどまで小さくなり、太陽のように輝いていた日々は線香花火みたく微かな煌めきへと変化していた。
悪くはない。大火は近づきすぎれば身を焦がすし、太陽を直視すれば目が焼かれる。
蝋燭の灯は近づいて二人一緒に囲める。線香花火はずっと眺めていられる。派手ではないが、長期的に恋の熱を浴びるには蝋燭や線香花火程度の火力がちょうど良いのかもしれない。
蝋燭も線香花火も微かすぎるほど微かだ。風吹けば消えてしまう。まさに風前の灯。それが、私たちの恋の現状だった。
家を出て、待ち合わせのカフェまで向かう。付き合い始めたころは一分一秒でも早く会って、一分一秒まで長くいたかったから駅に集合していたのが、今や効率重視の目的地集合だ。
歩きながら、どうして私たちが付き合いだしたのかを思い出す。
恋に落ちた瞬間もすぐに思いだせる。
ゼミのフィールドワークで私と慶介は山の中の崖に架けられた吊り橋を渡っていた。わかりやすく不安定で、私の後ろに彼が歩いていると、突如大きな風が吹いた。
驚いてよろめいた私の肩を慶介が抑えてくれた。お礼を言うために、私が振り返る。目が合う。吊り橋効果の教科書に載せるには最適すぎるほど、わかりやすい吊り橋効果。カチリ、とハマった音も聞こえた。今でも、瞼を閉じればその音を思い出すことができる。
私たちの恋の始まりは命に関わるほどの危険(と私含めた本人たちは認識している)からだった。
ただ、普通に生活していて、そうそう命を危ぶむ場面など発生しない。これまでの三年間、一般人らしく大学生活を謳歌し、就活の時期に疎遠になりかけて、私はなんとか蝋燭の前で線香花火の火種を落とさないよう、じっと膝を抱えていた。
慶介も、何も言わず眺めてくれていた。
それも、今日で終わりなのだろう。目的地が最初からカフェだなんて、話がしたいだけなことが透けて見える。
私は何と返そうか。別れたくない、が率直な感想。小さくても揺らめく日は嫌いじゃない。ずっと、一緒に近くに置いておきたい。
否、違うかも。認めよう。私は慶介と一緒に点けた火ならなんでも良いのだ。彼の顔も性格も、手の形もまだ失いたくなかった。
また、二人で吊り橋に揺られたら、彼の手は私の肩を掴んでくれるのだろうか。
待ち合わせの場所に着く。
カフェには慶介が先に入っていた。
店内には席が空いていなかったのか、それともあまり周囲に聞かれたくなかったのか。寒空の下、彼以外誰もいないテラス席に彼は座っていた。
私も向かいに座り、注文したホットコーヒーが届く。
「それで、どうしたの今日は?」
他愛ない会話で時間を稼げばいいのに、私は単刀直入に切り出す。
「ああ、うん。実は──」
いよいよ、と私が身構えると悲鳴のような叫びが響く──
そちらを向けば、制御を失った車がこっちに向かって突っ込んでくる。
このままだと、慶介を巻き込む。
「──!」
直後、轟音と風が私たちの前髪を揺らす。
ひしゃげる音。砕ける音。悲鳴。木とガソリンの匂い。
「いてて……」
奇跡的に私と慶介は無傷だった。
衝撃に押されて、私たちは床に転がっている。
私の下に慶介がいる。
瞬間を思い出す。私は慶介の腕を掴み、机を挟んでいることも忘れて、彼を引っ張ったのだ。
その結果が、目の前だ。私の影を浴びて、大きく開いた目と私の目と合う。
カチリ、と何かがハマる音がした。
ガスコンロのつまみを捻った音に似ていた。直視できぬほどの輝きが二人の間に灯る。そんな予感めいたものを感じながら、私は彼の肩を掴んだ。
カフェで死にかけた話 白夏緑自 @kinpatu-osi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます