10.最後の足掻き

 雛果ちゃんは、雨に打たれて蹲っていた。

 大丈夫かと声をかけたら小さく頷いたけど、消耗が激しいのは見ただけで分かった。

 濡れないようにしてやりたいけど、僕が触れて大丈夫なのか分からない。変色してない方の手で、髪から滴る雫を払ってやるくらいしかできない。

 あとは。

「あとりがなんとかしてくれると思うから、もう少し頑張って」

 そう言って励ますくらいだ。


 あとりは僕達を背にして立っている。

 立ってるだけなのに、空を見上げて立つ背中にはぴんとした緊張感がある。名前を預けた僕は、彼を畏れ敬うべきなのだと、否応なく感じる。


 あとりが靴を鳴らす。スニーカーが水を跳ねる音じゃなく、硬い靴底でホールの床を叩いたような音がした。

 それは辺りをならすように広がり、静けさを生む。

 降っていた雨の粒がふわりと止まり、天へと昇っていく。

 時間を巻き戻すように、地面から剥がれた黒い水が空へ降る。

 たったあれだけの動きで、この土地に染み込んでいた穢れが収まっていく。

 圧倒的な力だ。

 空に穢れが戻っていく。天に開いた目の周りに集まっていく。空の端に色が戻り始める。

 このままあの目が閉じて、全てが解決すると思った瞬間。

 ぱこん、と小さな音がして。あとりが崩れ落ちた。


「――っ!」

 駆け寄って抱き止める。

「あとり、あとり!」

 揺すってみるけど返事はない。代わりに、苦しげな吐息と一緒に黒い液体が口から溢れた。

 空にはもうあの目はなく、夕方近い色に戻りつつある。

 こっち側に穢れはほとんどない。割れた木箱が転がっているだけだ。

 けど、あとりは。

 顔色が悪い。指先は冷たい。全体的に生気がなく、人形のようだ。

「諦めてないって訳か……」


 この土地に溜まっていた穢れは、ただ全てを消し去ることが目的になっている。それを阻止された今、最も邪魔なあとりを乗っ取る、あるいは消そうとしているのだろう。このままではこの身体が危ない。

 そもそも神の力に人間の身体が耐えられるもんじゃない。僕を切り離して残った力を押さえ込んで、「あとり」として封をしていたからなんとかなったんだ。あの封印を壊した後だって、あとりが自分で力を押さえ込んでいたけど、ギリギリだったはずだ。

 なのにそれが決壊したら。意思のない穢れが溢れてしまう。

 いや、それは絶対に阻止しないといけない。

 最悪の想像を振り払う。


 何か。何か手立てはないか。見渡す限りには、嫌になる程何もない。穢れと、気を失った神様と、その支配下にいる僕と――。

「雛果ちゃん」

 声を掛ける。苦しげだけど、彼女は顔を上げた。

「あと、……綾日あやか、くん」

「綾ちゃんで良いよ」

 そう言うと雛果ちゃんは頷いて、苦しげに息を吐いた。

「あとりくん、どうしたの……?」

「僕が抱えてた穢れに飲まれた。このままじゃ……この身体もダメになる」

「え……」

 彼女の顔がぱっと上がる。

「あとり、くんが」

 彼を凝視する目から、ぽろ、と涙が溢れた。それを振り払うように首を横に振る。ふらつきながらも立ち上がって、僕の横に膝をつく。

「どうしたら、いい?」

 彼女はぽつりと呟く。その声には彼を失いたくないと言う感情が見える。

「あとりがこの身体を手放して、本来の力を取り戻すか。壊した封印をもう一度施すかだろうね」

「封印」

 うん。と頷く。

「どちらかといえば、後者がオススメ」

 僕はもう、この身体には戻れない。「綾日」は「あとり」を守るために居た仮の存在だ。本来なら10歳の日に消えていたか、あの夜の儀式で死んでいた。それがなんの因果か、こうして彼の支配下で今も存在している。けど、この身体から剥がされてしまった存在なのは確かだ。

「僕もできる限り抑えるけど、その間になにかできることを探さないと」

「なにか……」

 あとりに視線を落としたまま、雛果は考えている。時折何かを呟いては、首を横に振る。

 僕もその間にあとりの様子を探る。浅いけど息はある。喉に何かが詰まったように咳き込むから、身体を起こして吐き出させる。背中に手を当て、彼から溢れそうな穢れを押さえ込む。大部分は還されたのだろうが、まだ核が残っているようだ。いや、だいぶ厳しい。僕の力じゃ長くは保たない。

「綾ちゃん」

 声をかけてきた雛果ちゃんに視線を向けると、彼女は手のひらを差し出してきた。

「これ。使える、かな」

 指先ほどの小さな石。勾玉だ。赤茶色く艶やかなそれは、ほんのりと暖かな光を放っている。

「これは?」

「綾ちゃんの匣に、一緒に入ってたの」

「匣に?」

 少し離れたところに転がっている木箱を見る。あれには僕の名前が記された人形が入っていたはずだ。中を見たことはなかったけど、石が入ってるなんて話も聞いたことはなかった。

「この石って儀式に使うの?」

「ううん。使ってるところは見たことない。けど、魂を名前に守らせる、という意味で一緒に入れることはあったと思う」

 だから、と彼女は言葉を繋ぐ。

「この場合。人形が絢ちゃんで、これがあとりくんってことになる」

「ははあ、なるほど?」

 思わず笑った。その解釈を面白いと思ったのか、打開策を思い付いてしまった楽しさからかは分からない。

 でも、これならなんとかできそうな気がした。

「これをあとりに取り込ませたら、内側から鍵をかけることはできそうだ」

「でもどうやって」

「そりゃあ――」

 こう。と、彼女の手からその石を摘み上げようとしたけど、触れた瞬間に灼けるような痛みが走って指を離した。僕はもう、本体に触れることも許されないらしい。

「ったく。匣の中で長いこと一緒に居た仲じゃないか。ちょっとくらい協力的になれたっていいのに」

 そう言いながら、あとりを寝かせる。

「雛果ちゃん。それ、あとりに食べさせて」

「えっ」

 これを? と言いたげな顔をしている。

 それを。と頷く。

「内側から鍵をかけるなら、きっとそれが最短だ」

「う、うん」

 雛果ちゃんは薄く開いた口に石を押し込む。反射的に吐き出そうとしたそれを塞ぎ、口の中の穢れを逆流させるように押し込む。飲み下したのを確認して、一息つく。

「で……これにどうにかしてトドメを刺せるといいんだけど」

「だ、大丈夫かな……」

「僕ができるの、はあとりが壊れないようにここで頑張ることだけだね」

「え。それじゃあ」

「でも、それは僕ができること、だ。雛果ちゃん。君はまだやれることがある」

 彼女はぱちり、と瞬きをした。

「君はね、巫女としての性質を受け継いでる。神を降ろす力はあるし、言霊も強い。だから」

 手を差し出す。

「目印は中に押し込んだ。僕を媒体ふみだいにしていいから、あとりを呼んで」

「え……?」

 彼女はどうしていいか分からないのか、僕の手をじっと見ている。

「そうだな。中に居る彼の前に降り立つイメージかな。携帯で話す感じでもいい。僕と連絡を取る時と同じように、彼に繋ぐんだ」

 彼女は、人間じゃない僕とメッセージのやりとりができている。無意識でやっていたことだろうけど、同じやり方が通用するはずだし、応用すればそれ以上だって可能だろう。

「う。うん」

「あとりのことだから、僕に身体を返すとか寝言言ってると思うけど。彼にこれまで積み上げてきた「普通」をぶつけておいで。それが、あいつにとって一番効く言葉だろうから」

 彼女は目を閉じる。感覚を掴もうとしているのかもしれない。数秒で目を開き、頷いた。

「わかった。やってみる」

「よろしく」

 彼女の手が僕の手に乗る。冷え切っているけど柔らかいそれを軽く握る。

「綾ちゃん」

「うん?」

「ありがとう」

「いーえ。あいつをなんとかできるのは雛果ちゃんだけだから、頼りにしてるよ」


 □ ■ □


 暗闇の中、できる限りの穢れを支配下に置いて、視線の位置を探る。

 あの目は、私が切り離した部分の核だ。あれを潰してしまえば、残りは還すことができる。

 それにしても。

「量が多すぎる……」

 思わず舌打ちをする。支配する穢れの量が増えるにつれ、感情が薄くなっていくのが分かる。これ以上無理をしたら、私はこの身体に居られなくなる。それを無視して無理を重ねると、あとりの身体は壊れ、穢れが外に溢れる。

 どっちかを取るとするなら、前者しかない。空になった身体は綾日に返そう。

 彼も人間の器に耐えられないかもしれないが、雛果が居る。彼女がしっかり封をしてくれるなら大丈夫だろう。

「……」

 そっと胸を押さえる。今の私には、核になった少年の名がある。彼をなぞって得ようとした「普通」がある。そう、元々私には何もなかった。全部、彼のものだった。

 ただ禍いと穢れを降らせるだけの存在、それが当たり前だったのに。今、私はこの状況に寂しさを覚えている。

 この感情が、私の人間らしさ。たった数年の生活で手に入れた「普通」なのだろうか。

 はあ、と溜め息が零れた。輪郭すら見えない手のひらを握りしめる。


 これからも普通でありたい、という望みはもう叶わない。

 でも。身体を綾日に返せる可能性があって。

 これが、雛果と綾日、二人が安心して過ごせる未来に繋がるのなら。普通の日々に戻れるのなら。それでいい。うん。

 私がこのくらい人間らしい決断が下せるチャンスは、きっとこれが最後だ。

 マガツヒとしては、だいぶ壊れた感情と判断だろう。でもきっと、それでいい。

 きっと私が人間らしく在れた証だ。


 自分から名前を取り出す。小さく温かい小鳥が手の中で丸くなっている。

 そのふわふわとした温かさと対照的に、指先から背中までぎしりと軋むような感覚がする。名前を切り離した事による不整合だろうか。不快だが、これを否定したらきっと空間ごと壊れてしまう。

「今までありがとう」

 手のひらの小鳥を放つ。ちち、と小さな鳴き声を残して闇に消えるのを見送る。

 うん。実に楽しいひとときの夢だった。

 名残は尽きないけど、しんみりと別れを惜しんでる場合じゃない。早くしないとこの身体の限界が来る。

 ひとり残された空間は相変わらず真っ暗だが、いくらか心地良い。解放感というのだろうか。自分がいかに力を押さえていたかを実感する。

 身体が軋む。思考が鈍る。いや、まだ動ける。この空間程度なら、すぐに掌握できる。

 人間という枠を捨てた今、視界にも変化が現れた。真っ暗な中に、建物や木々を縁取る線が見える。その中で唯一、あの社だけは仄かに明るく見える。

 外へ開かれた戸。落ちた錠前。その奥。中央にぽつんと転がる丸いものがあった。

 まだあそこに居た。

「――見つけた」

 周りの穢れを全部まとめて支配下に置く。転がっている目が逃げないよう固定する。


 社へ一歩踏み出す。

 辺りの視界が一気に開け、雲が風に散るように満天の星空が広がる。

 足元一面に散らばっていた写真が風に乗って舞い上がり、光の粒に分解されて消えていく。

 その中をくぐるように社へ入り、転がる目と向き合う。

 まだ穢れが滲み出ている。明るい社の中で、そこだけが淀んでいる。

 私と関係ない意思が。これまでに凝縮されていた穢れと感情が、ここにある。

 触れようとすると、小さな黒い粒が頬をかすめた。

「無駄な抵抗だというのに」

 ここにある穢れは全て私の支配下だ。逃げ場などない。潰そうとした瞬間、左目に痛みが走ったが、そのまま圧縮するように握りつぶした。

「――」

 音のない、静謐な空間だけが残った。

 あの夜と同じ、凛と冷えた空気が忍び寄る。

 蝋燭の灯りが照らすこの部屋は、私にはいささか眩しく、居心地が悪い。


 うん。もう限界だ。

 帰らなきゃ。


 奥の小さな神棚に向き合う。

 これで私の役目は終わりだ。

 目を瞑ると、今日も普通だよ、と玄関で笑う少女の顔を思い出した。

 その姿を見れなくなるのは名残惜しい、なんて感情もすぐさま掻き消える。

 そう。この日々が。この感情が私のイレギュラーで――。


「あとりくん!」

 急にかけられた声に、意識を引きずり戻された。

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