9.解放
雛果の肩は黒く濡れ、熱っぽく上下している。人形を握る手は、血の気がなく震えている。ある程度は祓っていたはずだけど、降り続く穢れに濡れ続けているんだ。押しつぶされるのも時間の問題だ。
「雛果」
「だい、じょうぶ」
彼女は僕の言葉を先回りして、息を吸う。僕よりも冷えた指が、僕の手に触れた。温められるほど温かくないけど、その指を握りしめる。
「掛け、まくも。
細く。小さく。けれども、重苦しい空気を静かに斬るような声で、雛果は言葉を紡ぎ始めた。
人形を差し出すように掲げ。綾日へ。その先の空へ向けて言葉が溶けていく。
言葉に触れた泥は、その生暖かさを失い、冷たく清涼な雨粒となる。
その雨粒に、綾日が苦しげな声をあげる。
真っ黒な天に目が開く。無感情なのに圧倒的な力を持つ視線が。僕達を見下ろす。目の前で崩れていく綾日に、並んで立つ僕達がダブって見える。
ああ、あれが僕の本体なんだと否応なしに分かる。
本当なら穢れが溢れかえってもおかしくない状況なのに、それは雨のまま降り注ぐ。それだけの力が出せないのだろう。ぬかるむ足元から支配権を奪って抑えようとするけど、気を抜くと押されそうだ。雛果の声と指の存在が、僕をなんとか繋ぎ止めている。
僕と雛果くらいならなんとか守れてるのが、せめてもの救いだろう。
「世のため、人のために。
小さく息を吸った雛果の指が、僕の手の中からするりと抜けた。
人形が僕へ差し出すように、地面へ置かれる。
「捧げる、名は――
シンプルな一言と共に、人形に火が点けられた。
儀式としては手順も準備も無茶苦茶だろうけど、人形は白く細く燃え上がる。僕の胸元辺りまで立ち上がった炎は、そこで小さくまとまり、光の球のようになっていく。
雛果はその光に向けて恭しく頭を下げ――そのまま崩れ落ちた。
「雛果!」
僕の声に、彼女は蹲ったまま首を振る。その指が、光の球を指す。
綾日の方が先だ。自分がやるべき事をしなくてはいけない。思い直して視線を移す。
炎が凝縮された光は、降り続く泥を蒸発させながら、僕を待つように佇んでいる。
手のひらで触れる。熱くはないけど、傷が焼けるように痛む。無視して、綾日の前に膝をつく。
「――
彼の右目が僕を見る。僕が差し出した光に、右手を差し出す。
指が触れた瞬間、ばちん、と大きな火花が散った。筆で書かれた文字が、黒い煤になって雨に溶けたのが見えた。
「ああ、そうか」
名前を解放するだけじゃダメなんだ。その名前を、この場所に縛り付ける封印が残っている。
解放するためには、楔を壊す必要がある。どこにある。見える限りには何もない。ならば、彼のどこかに刻まれている可能性が高いけど、どこかに記されてる様子もない。
「あと、り」
掠れた声と共に、綾日の指が動く。差し出されたままの右手首に、ブレスレットが見えた。
それは、僕がしていた物と形が似ている。あのブレスレットが僕自身の封印であったのなら、これも同様である可能性は高い。手を掴んで引き寄せ、引っ張る。びくともしない。これだ。
さっきの小刀をブレスレットにくぐらせる。切れる気配がない。彼に施された封印の強固さを知る。一部とはいえ、僕を封じ込めることができるくらいだ。彼らが命を賭けた最後の仕事だったんだろう。そうやって、村を、娘を守ったのだ。
でも、それは限界に近い。もう少し負荷をかけたら壊せる。
綾日の手を強く握る。小刀に力を流し込む。こんこんと湧き、降りしきる穢れの流れを、この一点に集中させる。この封印の許容量を越える力は、小刀を伝ってブレスレットにも滲み――。
するり、とブレスレットは小さな白い蛇へと変化し、小刀に巻き付きながら僕の手へ牙を突き立てた。
「痛っ!?」
痛みに思わず手を離す。蛇の口は僕の血に塗れた手に噛み付いている。そこから力を流し込むと、蛇は小刀に巻き付きながら黒い液体になって溶けた。
「――びっくりしたあ」
噛まれたところから、じりじりとした痛みが広がる。何度か握り直して硬直をほぐし、改めて、隣に浮いていた光を綾日へ差し出した。
「綾日。その名前、解いてあげる」
「ん」
綾日の指が光に触れると、指先に小さな火が灯った。それはあっという間に彼の身体を伝い広がる。薄く広がる火に、黒く固まった箇所が溶け固まる。鉱物のような断面を見せていた部分も滑らかな曲線へと変化し、欠けた部分を再構築する。
「ぐ……う……」
痛みがあるのだろう。綾日の口がぎゅっと結ばれる。声を押し殺し、その変化に耐えている。
綾日の身体が形のほとんどを取り戻し、そのまま消えると思った火が、左目で大きく燃え上あがった。
「―― 、――!!」
僕の左目にもずきりと痛みが走り抜けると同時に、綾日が大きく仰反る。悲鳴をあげたのだろうが、声は掠れて出てこなかった。
左目を焼いた炎は文字の破片を散らしながら、天上の目へ鋭い軌道を描いて消えた。
「綾、日」
肩で苦しげに息をしている綾日に呼びかける。
左目が痛むのか、手で押さえている。服もいつの間にか袴姿へと変化していて、綾日自身の自由は取り戻したようだ。けど、その一部は黒く変色したままだ。同化した部分は直せないらしい。綾日の一部として定着してしまっているのだろう。
「大丈夫?」
「なんとか……いや、痛みはもう、ないんだ。痛かった気は、するんだけど」
「うん……」
確かに、私の目にも痛みが走ったはずだが、今はあったことすら思い出せない。
支えを探すように浮いた綾日の手を引いて立たせる。まだ黒く濡れているし、左目は失われていたけど、その表情はいくらか穏やかに見えた。
「多分、あっちに逃げたんだ」
天上の目は私達を見下ろし続けている。あれがある限り、この地は穢れから逃げられない。
「気分は?」
「あんまり良くないけど……君がアレをなんとかしてる間、穢れを払うくらいならできる、かな」
「そう。それじゃあ――しばらく雛果のこと、お願い」
「なるべく早くね」
「うん」
もう少し。あとは、この泥とあの目をなんとかすればいい。
あれを還すのは、私の役目だ。
黒くべたつく小刀を拾い、降り続ける泥を見上げる。
認めないと言いたげに降るそれを。天上の視線を、受け止める。
濡れた髪が邪魔で、掻き上げると手が濡れた。血と一緒に振り払う。
「――」
細く息を吐く。
目の前に溜まった泥へ、つま先をあげて、叩く。
かつん、という硬い音が波紋になって広がる。降っていた雨が止まり、天へと昇っていく。
逆さに降る雨は、地面の泥も吸い上げていく。
「この地に楔はもうない。穢す必要もない。私は――」
役目を終えたのだ、というより先に、胸がグッと苦しくなった。
一瞬詰まった呼吸と眩んだ意識をなんとか取り戻そうとするけど、うまくいかない。何年もこの土地に溜まっていたものが、一気に逆流して私を埋めていく。これまで同調しないよう遮断していた感情が足元から喉元まで一気に駆け上ってきて、思わず膝をつく。
天上の目が、笑ったような気がした。
背筋を寒気が走ると同時に。
ぱこん、と。
木箱が割れる軽い音がした。
暗闇。寒さ。恐怖。悲鳴。
痛み。恨み。鈴の音。
虚しく響く声。小さく揺れる炎。
あの夜が溢れてくる。
意識が、飲まれる。
「――」
雨が降ってない。天井が見える。
薄暗い。揺れる灯りは蝋燭のようだ。
手足が痛い。腱を切られている。うまく動けない。
空気はキンと冷えてるのに、床は生暖かく濡れている。
痛い。寒い。気持ち悪い。
そんな僕を覗き込む影があった。
頭上に座り込んで覗き込む顔は真っ黒に濡れていて、その滴が頬にぽたぽたと落ちる。
右目はなく、禍々しくも魅入る色をした左目だけが輝いている。
「
影が名前を呼ぶ。文字になった影の声が、バラバラに分解されて降ってくる。
「私を。呼んだ」
頷くにも声は胸をひやりとさせるばかりで音にならなかった。落ちる雫と文字の欠片が、涙を代弁するように頬を流れ落ちていく。
影は、それに応えるようにぺたりと頬に触れた。
部屋はこんなにも冷えているのに、吸い付くように触れたそれには心地よさすら感じる。慣れ親しんだ冷たさが。胸を埋める重苦しい感情を撫でるような安心感が。指先まで染み渡る。
覗き込む目が、にたり、と笑った。
心の底にあるものを浚うような視線が近付く。安心感に混ざる昏い感情すら心地よく感じる。このまま身を委ねたら、きっと、楽になれる。全てを終えることができる。
もう少しで、全部楽になれる気がした瞬間。
「――!」
影の目が大き競合く見開いた。音にならない悲鳴をあげ、仰反るように離れていく。
狭い部屋だ。あっという間にその背は壁へとぶつかる。がたん、と揺れた灯台が倒れた。
「残念、だったね」
身体を起こす。胸は苦しいし傷は痛い。手足は冷え切っているけど、その傷はじわじわと治りつつある。多少動くくらいならなんとかなりそうだ。
「き、さま」
影の目が歪む。その首には小刀が刺さっている。
それは小さな白い蛇になって僕の元へ戻ってきた。
「私が私を取り込もうとしても、意味ないでしょ」
手首に巻き付いた蛇をひと撫ですると、それは再び小刀へと変化する。軽く投げてキャッチする。
それを隙と見た影が飛びかかる。片手で受け止め、一瞥する。
「私は――私をこれ以上ここに置いておくわけにはいかないんだよ」
村はなくなった。
彼を捧げた者達は全て居なくなった。
穢し、消し去るべきものはもうない。
今はただ、穢れが溢れ続ける広場があるだけ。その地に縛り付けられ、行き場のない力をこぼし続けているだけ。
これ以上、私がすべきことはないのだ。
縛り付けられていたとはいえ、感情に同調したままだった影を、これ以上放っておく理由なんて、ひとつもない。
「だから」
小刀の先を影へ向ける。
床を濡らしていた泥の一部が、剥がれて浮き上がる。それらは鋭い鉱石となって影を向く。
「その目を閉じて、還れ」
小刀の先をつい、と上げて手を離すと。
床に落ちた影を追うように、鉱石が降り注いだ。
水の塊を貫くような音を立てて影を貫通し、床へ刺さっていく。ダメージはないだろうけど身体のあちこちを貫かれた影は分散して小さな水溜まりになった。再生できないらしく、水溜りはふるふると震えるように蝋燭の灯りを反射させるだけだ。
そんな中に落ちていた目を拾い上げる。何か言いたげな色をした目は、そのまま見ていると心の底をざわつかせる。軽く放り投げて小刀で貫くと、黒い泥になって溶けていった。
「……」
終わったのだろうか。
なんだかあっけない気もするけど、この部屋に影の気配はない。残った感情も穢れも、時間が経てば乾いて消えるだろう。
「戻らないと」
外から固く閉ざされた戸の前に立つ。白い蛇が音もなく隙間に消えると、ごとん、と鍵の落ちる音がした。
戸の外には、いくつかの建物と満点の星空があった。
冷たい風が頬を刺す。早く戻らないと。と踏み出し。
その一歩が沈んだ。
「! しまっ……!」
気付いた時には黒い沼へと落ちていた。口から空気が溢れ、代わりに黒く生温かいものが流れ込んでくる。
視線を感じる。あの目だ。油断したのだと気付く。
本体は消えたんじゃない。この泥の底へ逃げたんだ。
くそ、こんな悪足掻きに引っ掛かるなんて。
目印もない真っ暗な空間で、穢れを握りしめる。
指をすり抜ける泥のどこかから刺さる視線が、にたりと笑った。
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