8.もう一度あの村へ

 二人で夕飯を囲んで、この後どうするのかという話を続けた。


 綾日あやかを解放して、残った自分を還さないといけない。

 これが、あとりとして最低限やるべきことだ。

 とはいえ。綾日は村の奥で厄災と融合し、封印されている。

 そんな彼をどうやって解放するかを考える。


「綾ちゃんは、あの場所にいるの?」

 雛果の質問に、「多分そうだね」と曖昧ながらも返事をする。

「彼の気配が1番強かったのはあの広場だし、状況的にもそうだと思う」

 何かが居るような暖かさと視線を思い出す。正直心地良い物ではない。

「綾日はあそこに、残った穢れと僕の一部を抱えて封じられてる」

「そっか。何か方法あるかな……」

 ただそこに居るだけじゃないだろう。あの広場だけが黒く濡れたようだった。あの中で、僕の一部が吐き出し続ける穢れを抑えている。そうでなかったら、きっと広場から溢れて村へ侵食してたはずだ。

「綾日は自分の名前を捧げるといいって言ってた」

「綾ちゃんの名前を? ああ」

 名贄めいしの儀、と雛果が呟いた。

「そう。綾日はその儀式をやってない。だから、名前だけが身体を離れた」

「そっか。その状態で封印されたから」

 本来ならそれでいい。たとえ神に見つかっても、その名前が身代わりになってくれる。

 問題は、今回彼が巻き込まれた儀式は身体も捧げているところだ。

 名前は引き剥がされて封印され、身体は僕が乗っ取った。それ故に。

「綾日は完全に死ぬこともできないでいる。身体を返すにも、綾日はマガツヒと同化しつつあるからね。それが一番正しい判断ではある……」

 うん。と雛果も頷く。

「他に手段が見つかればいいけど、最終的にはその儀式を行うことになると思う。手順とか残ってるのかな」

 雛果はすぐ首を横に振った。

「見たことはあるけど、小学校入る前とかだったから覚えてないな」

 あ、でも。と気付いたように顔を上げた。

「綾ちゃんは一度見つかってるし、捧げる先があとりくんなら、もっと簡略化できるかもしれない?」

 なるほど。儀式は神を降ろして名前を捧げる手続きのようなものだ。

 捧げる対象が目の前に居て、すでに名前を知られているなら。僕がその名前を拾い上げて解放すれば良いのかもしれない。

「そうか。試してみる価値はあるかも」

「うん。でも、綾ちゃんの身体代わりになる人形は必要じゃないかな」

「身代わり……人形だっけ」

「うん」

 儀式には生まれた時に用意したものを使うと言っていた。10年寄り添った物だから、名前を移すことも容易なのだろう。しかし、彼の一家は随分昔に引っ越してしまったはずだ。古い人形なんて、とっくに捨ててるに違いない。運が良くて家の押し入れ――いや。祖父母の家が残っているか。

「ねえ、綾日が住んでた家はまだ残ってるよね」

「え。うん。一番最後まで人が居た家だから」

「よし、そこを探してみよう」


 綾ちゃん――綾日が「村に死体がある」と言っていたのを思い出した。

 あの時は、単に都市伝説として語った他愛のない作り話だと思っていたけど。

 それは、綾日の身体、つまり「人形みがわり」が残ってるという話なのでは、という気がした。


「今度の休み……ああ、春休みか。もう一度現地に行こう」

「うん」


 □ ■ □


 そうして僕達は、再び兆蛇ときだ村へとやってきた。 

 前回より寒さは緩んでいるけど、とろりと淀む気配が強まっている。

 それは、綾日が穢れを抑えられなくなったからか、僕が感じ取れるようになったからか。

 どちらにせよ、いいものではない。薄暗い何かを軽く払うと、動きの悪い煙のように散っていく。穢れを操る力が戻ってきているのは確かだ。気分が悪くならない程度に散らしながら、2人で村を歩く。


 残っていた綾日の実家を探すと、神棚に小さな箱が残っていた。

 お弁当箱ほどの木箱。小さな石と人形が、お札に包まれている。

 お札は僕が触れると、黒ずんでほろほろと崩れ去ってしまったが、人形は綺麗な状態で、丁寧な文字で名前が記されていた。おじいちゃんの字かも、と雛果は懐かしそうにしていた。

 この家に住んでいたのは綾日の祖母だった。村の最期を見届けた彼女は、これも村と共に朽ちるべき物として置いていったのだろうか。今となっては聞く術もないけど。

 そんな箱を抱えて、広場へ繋がる石段の前に立つ。

 木に渡されたロープを超えて、中へ。石段が湿っている。上の方を見ると、何段か黒い液体に濡れているのが見えた。心なしか、周りの影も色濃く見える。

 あの上は絶望と穢れで満ちている。そんな、生理的な拒否感のようなものを感じる。

 これはきっと、人間の感覚。僕だからこの程度で済んでいるけど、雛果は。

 隣を見ると、険しい顔で階段の上を見つめていた。薄暗さを加味しても、顔色が悪い。


「雛果。具合が悪いならここで――」

「ううん。行くよ」

 その声は小さかったし震えていたけど、彼女ははっきりと首を横に振った。

「私は大丈夫。――行かなきゃ」

「そうか。そうだね。綾日もきっと待ってる」


 綾日は言っていた。奥底の希望を拾って見せろと。

 だからきっと、あの場所で待ってるはずだ。

 絶望の底にある小さな希望を。

 湧き出る穢れの楔として過ごした日々からの解放を。


 石段を登り切る。

 最後の数段は泥のような何かで汚れていて、踏むとスニーカーやズボンの裾に跳ねた。

 そうしてたどり着いた先にあったのは、前回よりも水気の多い、水たまりのようなものが点在する広場だった。

 空気が重苦しい。木々で切り取られた空はすっきりと晴れているのに、沼の底のようだ。

 重たく絡みつくものを散らしながら、広場の中央へと進む。

  

「――綾日あやか

 呼ぶ。鳥の声すらしない広場に、僕の声が響いて消える。

 呼ぶだけじゃダメか。箱から人形を取り出そうとしたが――蓋が開かなかった。

「?」

 見つけた時に中は確認した。密閉性の高い箱ではあったけど、こんなにぴったり張り付いた感じはなかった。

 どうして、と思った瞬間、箱が急に重みを増した。木箱が急に鉄の塊になったような変化に対応できなくて取り落とす。

 僕の手を離れた箱が、濡れた地面へ落ち。


 ぱこん。と、固い床に落ちたような軽快な音を立てて、蓋が割れた。

 

 その瞬間、地面が大きく揺れた。

 慌てて雛果を抱き寄せる。箱の中から黒い泥のようなものが溢れ出るのが見えた。泥と一緒に箱から飛び出した人形と石を掴み取る。それらが手の中で朽ちるより先に、雛果の腕の中へ突っ込む。

「持ってて」

「う、うんっ」

 強く吹いた風は、広場の黒い泥を巻き上げる。空から色が消え、太陽が隠れ、広場が影で満たされる。

 雛果が何かを呟いているのが聞こえる。小さくてよく聞こえないけど、清めの言葉なのだろう。その声は、まとわりつく泥から染み込んでくる重たいものをいくらか軽くする。

 僕も身体にまとわりつく穢れを弾いて、吹きすぎるのを待つ。


 風が吹きすぎても、雨のように泥が降る。

 寒くはないけど、生温かさが逆に気持ち悪い。

 濡れた所から、身体や思考が蝕まれるような感覚がある。

 そんな中。

「――やあ。あとり」

 掛けられた声に顔を上げる。そこに立っていたのは、僕と同じ姿をした少年だった。

 挨拶をするように掲げられた左手は、あの時と同じように真っ黒だ。しかし、その侵食はだいぶ進んでいて、顔の左半分にまで及んでいる。瞳もありえない色に変わっている。

綾日あやか

 向き合うと、彼は頷いた。笑ったようだったけど、目が細められただけでよくわからない。代わりのように、ぱき、と小さな音がした。

「遅くなった。ごめん」

「いいよ。僕は君を信じてるから」

 その声は掠れている。言葉の合間につく息も、何か苦しげだ。

「ちゃんと、僕の容れ物からだも見つけてきてくれたみたいだし」

 でさ。と綾日は地面に視線を落とした。その先には、蓋が割れ飛んだ箱がある。

「その箱の底、……何か、見つけられた?」

 箱の底。こんこんと黒い泥が湧き出ているその奥。

「……いや。わからない。けど」

「うん」

「僕はこの底に、普通の未来があるって、信じることにした」

「はは、そうか」

 綾日が笑った。ぱきん。と一際大きな音がした。

 足元で泥が小さく跳ねる。それは、一瞬だけ細く画一的な文字を形作り、泥へと戻っていく。

「普通の、っていうのが君らしい。うん。それが聞けたら――」

 そう言いながら彼はこっちへ一歩を踏み出す。

 少しずつその歩幅が大きくなる。速度が上がる。

 綾日の変色した目が尾を引く。あっという間に僕に迫るその手に、鋭い刃物が握られてると気付いた時には遅かった。咄嗟に雛果を突き飛ばす。体当たりのように綾日が肉薄する。

「――っ!」

 刃が差し出される一瞬、彼の目が何かに気付いたように見開き、刃先がブレた。

「あとりくん!?」

「ったぁ……」

 小刀をなんとか躱し、左手で受け止めた。握りしめる手のひらが痛い。流れる血は、身を打つ雨に似て温かい。直前で綾日が我に返らなかったら、受け止めきれなかったかもしれない。

 綾日の息が荒い。何かを飲み込むように、詰めるように。息を止めては、それが耐えられず吐き出している。

 呼吸に混じって、ごめん、と声が零れた。黒い指からぱきん、と音がする。

「お前達が、僕をこんな風にした。痛い。返して……」

 俯いたまま吐露されるのは、さっきまでとは違う、昏く怨嗟の籠った声。耳の奥によく馴染む。その願いを拾い上げそうになる。小刀を強く握りしめて、痛みで誤魔化す。

 流れる血が、黒く変色して服に染み込む。僕の手も黒く染まっていく。

「この村なんて。――あんな。最期なんて。いや、そうじゃ」

 声が震えている。ばきん、と小さな音をたてて崩れていく。綾日という器を失いつつある泥が、僕の手に伝い流れる。血に混じって彼の感情が流れてくる。

 そのほとんどは、マガツヒとしての衝動が増幅させた感情だと言い聞かせる。綾日の本心もあるに違いないけど、受け入れたら飲み込まれる。同調しちゃいけない。頷いちゃいけない。絡め取られそうな彼の感情を、受け取る片っ端から分解して、否定する。

「ごめん、綾日」

「薄っぺらい言葉で、取り繕うな。お前は、本当にそう」

「思ってる」

 綾日を見て言い切る。人間らしさがまだ残ってる方の目が、僅かに反応した。

「だから、僕はここに来た。君を解放して、あの夜を終わらせるために」

 刃を強く握りしめる。

「君に同意はできない。しない。君が穢すべき物は、恨むものは。ここには何も残ってない」

「恨むべきは、残ってるだろ。兆蛇ときだの血は。巫女は。まだ――」

「彼女は何もしてない。この村は。君がやるべきことはもう終わったんだよ。綾日」

「――」

 綾日の吐息が零れた。

 刃を握る手から感情を押し戻すと、彼の腕が澄んだ音を立てて割れた。

 小刀を僕の手に残して、黒い欠片が地面へ落ちる。

 綾日は一歩後ろへくずおれる。割れた腕を抑えて、僕達を見上げる。底の見えない目が、苦しそうに歪んだように見えた。

「――雛果、ちゃん」

 早く。と一瞬光を取り戻した目が訴える。

 うん。と応える声がして、僕の隣に雛果が立った。

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