7.私は、嫌だ

 学校が終わって携帯を見ると、綾ちゃんからメッセージがきていた。

「あとりの具合が悪そうだから見てやって」

「あとりくんの? なんで綾ちゃんから……」

 どういうこと、と返しても返事はない。

 あとりくんにもメッセージを送る。開封のマークがつかない。これは本当かもしれない。急いで帰って荷物を部屋に放り込んで、隣へ行く。

 部屋は静かだった。電気も点いてない。

 誰もいないのかと思ったけど、玄関に靴はある。

「あとりくん?」

 声をかけながら探すと、奥の部屋であとりくんが座り込んでいた。薄暗くて分からないけど、綾ちゃんの言う通り、顔色が悪そうにしている。

「どうしたの? 具合悪い?」

「ひな、か」

 どうしてここに私が居るのか、みたいな顔をしている。

 目も虚ろだ。あとりくんは気を抜くと表情が消えるから、普段から人一倍気をつけているはずなのに。それを取り繕おうともしない。

 多分、何かあったんだ。

「綾ちゃんから早く帰ったほうがいいって、連絡があって」

「綾……ああ。綾、ちゃん……」

 少しずつ目の焦点が合ってきた。

「そう。綾ちゃん来てたの?」

「いや……でも。うん。そう、かな」

 ぼんやりした返事。なんか要領を得ない。

「どうしたの? 具合悪いなら寝た方がいいよ?」

 立てる? と肩を支える。

 うん、と頷いて。少し待って。はあ、と大きく息をついた。 

「ごめん。ちょっと、色々思い出して。いっぱいいっぱいって言うか……」

 思い出したっていうのは、多分あの日のことだ。

「本当? どのくらい?」

 ベッドに座らせたあとりくんの前に座り込んで、見上げる。

「全部、だと思う」

 苦しそうに呟いて、何かを差し出された。

 リビングからの明かりだけじゃちょっと暗いけど、古い写真だ。小さな私と、少し年上の男の子が、学校の正門に並んで立っている。

 この写真は知っている。家のアルバムか何かにあっのたのを見たことがある。

 上級生の男の子は、あとりくんとよく似ている。けど。

「綾ちゃん……?」

 そうだ。思い出した。この男の子は綾ちゃんだ。

 この後すぐに引っ越してしまって、それきり会うことがなかった上級生。

 それにしても、あとりくんとよく似てる。写真と彼を見比べる。

 二人が兄弟だと言ったら、大半の人が信じるだろう。

 むしろ、あとりくんの小さい頃だと――小さい頃?

「え。もしかして、これ……あとりくんなの?」

 あとりくんの返事は、弱々しい笑みだった。

 その目は光が無くて。奥底まで続く闇みたいに見えた。

「そう。そこに写ってるのは君と綾日あやか畢ヶ間ひつがま綾日あやか

綾日あやかって、綾ちゃん? え。じゃあ、あとりくんは」

「あとりは、綾日の真名だよ」

「あ……」


 村の風習だ。

 10歳まで使って、神様に捧げる名前。

 私とあとりくんの年の差は4歳。私が小学校に上がった時。あとりくんは、綾ちゃんで。


「あれ。ということは。あとりくんは……」

 私の予想を読み取ったのだろう。あとりくんはゆっくり肯定した。

「あとりは、兆蛇ときだ村の子供だ。あの儀式の日に、死んだ」

「えっ? でも、あとりくんは」

 今こうして、目の前にいる。なのに、どうして死んだなんて言うのだろう。その疑問を口にするより先に、答えが落ちてきた。

「そして僕は、彼の身体を奪った厄災だ」

「……厄、災?」

「そう。マガツヒ。大綾津おおあやつ、いや。こう名乗った方が分かりやすいよね」

 あとりくんが私を見る。やっぱり奥は真っ暗だけど、優しく目を細める。

大屋毘古神おおやびこのかみ

「……」

 それは、私の家で祀っていた神様の名前だ。それがあとりくんの本当の名前だなんて。厄災だなんて。そんなこと。

 言葉を見失った私から視線が外れる。床に落ちてる何かを探すように視線を迷わせて、目を伏せた。

「綾日はね、あの日、たまたま村に帰ってきただけなんだ」

 沈んでいるけど優しい声で、ぽつぽつと話してくれた。


 綾ちゃんが生贄にされた夜のこと。

 あとりくんが目覚めた時のこと。

 綾ちゃんと話をしたこと。

 そして、綾ちゃんがマガツヒを抱えてあの村にまだ居ること。


 全部を話し終えても、あとりくんはしばらく顔を上げなかった。

 部屋はもう暗い。でも、二人とも黙ったまま向き合っていた。


「僕に昔の記憶がないのは当たり前だよ」

 ぽつり、と零すように言う。

「僕はこの身体の持ち主じゃないんだ。記憶だってそう。あの日、彼の全てを奪って。村を滅ぼした。君の両親も僕のせいで。――それを全部忘れて過ごしてた」

 ごめん。という声は小さい。写真に落ちたままの目にあるのは、深い後悔と葛藤に見えた。泣きそうで苦しそうで、そのままどこかに沈んでいってしまいそうな気がした。


「綾ちゃんを、解放することはできるの?」

「解放だけなら、できる」

「解放したら、どうなるの?」

 分からない、と首が横に振れた。

「彼に身体を返せるかもしれないし、二人とも消えてしまうかもしれない」

 でも、と言葉が続く。

「これは元々僕の身体じゃない。こうなったのも、彼の意思じゃない。綾日あやかは無理だって言ったけど、返せるよう、力を尽くしたい」

 その言葉はしっかりしてるのに、あとりくんが今にも消えてしまいそうに感じた。

「身体を返すって。そしたら、あとりくんは」

「僕は元居たところに還るだけ。上手くいくかはわからな――」

「やだ」

「え」

 あとりくんの手に触れる。反射的に引こうとした手を捕まえる。

 思わず出た言葉に、私も少し驚く。でも、嫌だ。あとりくんが居なくなるなんて。同じ顔の誰かになってしまうなんて、嫌だった。

「あとりくん」

 声をかける。返事はない。でも、手を振りほどいたりはしない。

 私より大きくて、ちょっと固くて、冷たい手。ぎゅっと握る。

「私は、やだ」

「雛果?」

「あとりくんが居なくなるなんて、嫌だ。私は、あとりくんが居るからこうして居られるの。都会の学校で、普通の高校生として、毎日楽しく過ごせてる」

「……うん」

「綾ちゃんが帰ってきても。同じ顔で。同じ声でも……それは、あとりくんじゃ、ないでしょ」

 いけない。涙がこぼれそうだ。でも、手を離したくない。瞬きで誤魔化す。

「綾ちゃんじゃなくて。あとりくんがいい。私のお隣さんは、あとりくんなの」

「――」

 息を呑む音がした。指先が少し温かくなる。

「綾ちゃんじゃないの。綾ちゃんが身体を取り戻しても。あとりくんが居なくなったら。きっと私は……同じことをする。誰かを使って、同じ神様を降ろしてしまうかもしれない」

「いや、雛果。それは」

「そのくらい!」

「――っ」

「そのくらい、私は神様のあとりくんに居てほしいの!」

 

 一際大きな声が、薄暗い部屋に響いて消えた。

 勢いに任せて、なんかとんでもないことを言ってしまった気がした。

 でも、嫌だったんだ。一緒に居てほしい。それくらいやってしまってもいいって思っちゃうくらい、嫌だった。

 頬がすごく熱い気がする。力一杯握ってしまってた事に気付いて、そろそろと力を緩める。


「えっと……ごめんね。なんか、勢いで色々言った……」

「え。いや。うん……」


 無言。なんか。なんかこう。すごく落ち着かない。

 心臓が熱い。顔が上げられない。あとりくんがどんな顔をしてるか、見るのがちょっと怖い。


「あ、あとりくんは。どう思ってるの?」

 でも、私は諦めが悪いらしい。それでもあとりくんがここに残るための理由を作ろうとしている。

「どう、って……」

「私は、あとりくんが毎日なんとかして普通で居ようって思ってるの知ってる」

「……ああ。うん」

「毎日自分が普通かどうか確かめて、学校行って。楽しかったって話してくれるのは嘘なの?」

「嘘なんかじゃ……!」

「じゃあ、このまま居られるように頑張ってよ!」

「だって、この身体は」

 本気で戸惑ってるのが分かる声だった。

「奪ったのは、あとりくんのせいじゃないでしょ」

 

 村の儀式で綾ちゃんは生贄になった。

 それを推し進めたのは村の人達だし、実行したのは私の両親だ。

 けど、私はあの村の巫女で。最後の一人。

 私ひとり罪が無い、なんてことは言わない。

 言わないけど。


「村が滅んだのも自業自得だよ。神様だもん。村を滅ぼしたいくらい憎む気持ちに応えただけ。それが、あとりくんがすべきことだっただけ。悪くない。全然、悪くないよ……」

「そうでなくてもだよ。雛果」

 あとりくんの声は、優しかった。

「身体が耐えられなかったら。力が制御できなくなったら。僕はきっと、この生活も壊してしまう」

「その時は、二人で頑張るの!」

「――っ」

 あとりくんが息を呑んだ。見上げると、すごくびっくりした顔で私を見ていた。

「私だって、無関係じゃない。同じように忘れて、過ごしてた。できる事があるかは、分からないけど。探すから。……だめ、かな……」

 啖呵を切ってみたけど、できる保証なんてない。資料だって残ってないし、教えてくれる人も居ない。そんな不安が私の勢いを急速に奪っていく。

 さっきの言葉だって私のわがままで、本当はあとりくんが決めることだ。

 本当はもう決めていたに違いない。なのに、私がそれを勝手に拒否しただけ。

「ごめんね。勝手なこと、言って」

「雛果……」

「でもね。私は、あとりくんと一緒に居る毎日が好きで。これからも、一緒に、居たくて……」

 どうしよう。自分勝手な叫びに対する恥ずかしさと、否定されたらどうしようって言う恐怖が来る。

 でも、あとりくんは。うん、うん。と、ひとつずつ頷きながら聞いてくれる。

「あとりくんが、好きで……ちが、いや、違わないけど。今はそうじゃなくて……」

「僕は雛果が好きだけど、違うの?」

「いや、そうじゃな……ええぇ!?」

 思わず顔を上げた。堪えてた涙がその勢いで頬を転がり落ちていった。

「え。なんて……?」

「雛果が好きだって言った」

 転がっていった涙の跡を拭ってくれる。冷たい指先が熱い頬には気持ちいい。

「いや、本当は理解できてないのかもしれない。けど。雛果と一緒に居たいっていう感情はあるよ」

 その目はやっぱり暗いけど、表情は優しい。さっきまでの思い悩んでいた表情が、少し和らいだように見える。

 それを見てると、さっきとは違う何かで胸がいっぱいになってきて涙が零れた。

「うぅ……あとりくんのばかぁ……!」

「え、ちょっ。雛果!?」

「そういう話してる場合じゃないのになんで今言うの……」

「先に言ったの雛果だよ……!?」

「そうだけどそうじゃないぃー」

 涙を自分の袖で拭いながら、めちゃくちゃなことを言ってる。自覚はある。嬉しい。嬉しいんだけど、そうじゃない。これを噛みしめるのはあとにしないと。

 なんとか泣き止みながら、話を元に戻す。

「だから。だからね。私、できる事あるか分からないけど。できる限り、がんばるから。まだここに居て欲しい」

「……まったく二人とも引かないんだから」

「?」

 二人とは、という疑問が顔に出たのだろう。

 雛果と綾日だよ。と教えてくれた。

「分かった。ここまで言われたら頑張らないと。そのためには、雛果」

 あとりくんが私の手をぎゅっと握り返す。

「僕の傍に居てね。僕が普通で在れるように。人間らしく、できるように」

「できるかな」

「綾日は、雛果ならできるって言ってた」

「そっか、うん。私、がんばるよ」

「よろしくね」

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