4.僕達が忘れているもの
そこに広がっていたのは、真っ黒な広場だった。
何もない。瓦礫も。草も。何も。ただ、どす黒く濡れた地面だけがある。
ここは小さな神社だったはずだ。
何の確証もないのに、そんなことを思ってしまうのが受け入れられない。
広場は生暖かい。見えない何かが居るような温もりがある。視線を感じる。寒気がする。暖かくしてるはずなのに。空気は冷たくないのに。身体は芯から冷えるようだ。
ここに来たことを後悔しかけた瞬間。ポケットのスマホが震え出した。
「えっ」
この村は圏外だったはず。慌てて取り出す。表示されてるのは雛果の番号だ。雛果は……居ない。山へ入ったのだろうか。場違いなまでに軽快な呼び出し音は鳴り続けている。
「……」
留守電にもならない。一抹の不気味さを振り切って、電話に出る。
「雛果?」
「ああ、よかった。出てくれた」
それは知らない男の声、いや、聞いたことある気がする。自分の底に触れられたような、居心地の悪い感覚がした。
「雛果は?」
「彼女は大丈夫。近くに居るよ。ただ、ちょっと君と話したくてさ」
「……」
黙った僕に、彼は一方的に話し始める。
「この村はどう? 懐かしさとかあるのかな」
この村に来たのは初めてだ。覚えてるはずなんてない。
でも、そう答えてはいけないような気もして、言葉を濁す。
「いや……」
僕の曖昧な答えに、彼は「そっか」と何かを心得たようだった。
「ここまで来たら思い出してくれると思ったけど、そう簡単にはいか――みたいだ。僕もこの状態、長く――ないから、手短に」
ノイズが混じって、音声がぶつぶつと途切れる。
「僕は――を待って、んだ。助け、欲しい」
「助ける……?」
一体何を。彼を? どうして僕が?
その返事はほとんどが途切れて聞き取れなかったけど、「それが僕達のためだ」と言ったようだった。
「ここで全部思い、してくれたら――かったけど、ち――と、難し」
ノイズが耳に響く。呼吸を忘れかけていた。胸に詰まった息を吐き出す。
「君は、かえさなきゃ――ない。そのた、には、思、出さないと始―らな――」
何のことだ。頭が痛い。怖い。思い出したくない。聞きたくない。
「ああ、あと。大、なこと、言ってな――ね」
ノイズが大きくなる。聞きたくないという僕の意思を反映するように、彼の言葉を遮る。
「
電話からではなく、耳元で囁くような近さで声がした。
頭のてっぺんから背筋へ冷たいものを流し込まれたような感覚が走る。
足元がぐらつく。気持ち悪くて目が回る。空を仰ぐと、綺麗な星空が見えた。まだ日は落ちてないはずなのに。あの日のような満点の――。
「あとりくん?」
かけられた声で我に返る。雛果が僕を見上げるように覗き込んでいた。
空はまだ明るくて。冷たい空気に触れる頬は熱くて。
無音の電話を耳に当てたままの指は冷え切っている。
「ひな、か」
大丈夫? と覗き込む彼女に頷く。
「ごめんね。ちょっと奥の方見に行ってて。電話かけようとしたんでしょ」
「ああ、……うん」
曖昧に頷いて携帯をしまう。
「何か見つかった?」
話題の先を変える。雛果は「ううん。なにも」と首を横に振った。
「でも、少し思い出したことはあったよ」
そう言って広場を振り返る。
「ここ、何だったか分かる?」
「いや」
分からない。ただの広場に見える。神社があった。そんな気はするけど、その在りし日の姿は欠片も思い出せない。
「小さな神社でね。奥に私の家があったの」
「家……」
「何にもなくてびっくりするでしょ」
雛果は嘆くでもなく笑うでもなく、ただ感想を述べた。
辛い思い出なのではとよぎったけど、雛果は「大丈夫だよ」と答えを先回りした。
「村を出る日に一回寄ってるから。だから、大丈夫」
何気なく口にされる「大丈夫」が重たい。どんな顔でそんなことを言ってるのだろう。何か言葉をかけるにも、何を言えばいいのか分からない。
「あの時は私もよく分かってなかったんだ。今も実感はないんだけど」
そう置いて、雛果はぽつぽつと語る。
ある夜。大事な儀式があるからと別の家に泊まっていた雛果は、村を襲った大きな揺れで目を覚ましたのだという。
家の方で何かあったのかもしれない。慌てて戻ってみれば、そこには何も無かった。
神社に集まった人も、家も。何もかも跡形無く消えていて、黒くてどろどろに濡れていて。
その中にひとり。僕が居たらしい。
「僕が……」
「そう、あとりくんが居たの。その後は、よく覚えてないんだけど」
「うん、無理に思い出さなくて大丈夫だよ」
忘れていたことを忘れるくらい、衝撃的な記憶だったのかもしれない。それなら無理に思い出すのもよくない。
そして、僕もこの村に居た事があるのも確定した。実感はない。
しかし、どうして僕はこの村に来たのだろう。全てが消えた広場に一人倒れていたのだろう。
「つまり、その夜に何か儀式があって、村人が消えて、僕が居た」
「そうなるね。お父さんとお母さんも、きっとその時に居なくなった」
「鍵はその儀式か……一体何をしてたんだろう」
僕達の記憶が無い原因はその「儀式」に関わる何かだ。僕はその中心人物の可能性が高い。しかし、考えても心当たりは見つからない。
「僕達が忘れてること……」
僕だって実感がない。けど、夢で見た写真。電話の声。それらは僕がこの村に住んでいたという可能性を突きつける。
住んでなかったとしても。僕はこの村への道筋を知っていた。知っているはずなのに何も分からない。いくら探っても見つからない。そこに感じるものは、得体の知れない恐怖だ。
思い出さない方が幸せな気がする。楽しかったとか幸せだったとか、そんなのとは遠い、どす黒い何かがあるという予感だけがある。ぽっかりと空いた記憶が怖い。継ぎ接いで作られた記憶が怖い。テーブルの上に散らばる写真を思い出す。僕は全てがハリボテで、中身がぐちゃぐちゃな何かのような感覚を覚える。僕の中身とは? そこに何がある?
「あとりくん」
寒さなのか恐怖なのか分からないくらい冷え切った手に、暖かな何がが触れた。
我に返る。雛果の手だ。手袋をしたままだから、ふかふかと暖かい。
「ちょっと、握ってていい?」
いつの間にか手を握りしめていたらしい。力を緩めて握り返すと、雛果は嬉しそうに笑った。
「雛果は、思い出せないのは怖くない?」
「うーん。ちょっとは怖いけど、大丈夫だよ」
「そっか……すごいな」
さっきの感情を追い出すように息をつく。僕の指を包む雛果の手が温かい。
「あのね。パンドラの箱って知ってる?」
「うん? 知ってるけど」
突然振られた話に戸惑いながら頷く。ギリシャ神話のひとつ。有名な話だ。
「私とあとりくんの記憶は、あれと一緒だと思うんだ。楽しいものじゃないとは思う。でも、それがどんなに怖くても、悲しくても。全部かき分けた底には、希望がある」
「希望が」
「そう。信じてたらきっとある。だから、大丈夫だって信じてる」
「……そっか。そうだね」
頷くと、会話は途切れた。
しばらく二人は黙って立ってたけど、雛果が何かを口ずさんだ。
「――♪」
よく鼻歌で歌っている曲だ。緩やかで特徴的なメロディーは、気分を落ち着かせる。それに重なるように、耳の奥で優しく歌う声もする。雛果の声じゃない。ハミングでもない。断片的に浮かんで消える単語が、温かい歌声に込み上げる懐かしさが、胸に痛い。
「その曲、知ってる気がする」
「私がよく歌うからかもね。村に伝わる子守唄だよ」
お母さんがよく歌ってくれたんだという雛果に、そうなんだ、とだけ答えた。
僕がその歌を知っているという事実は、この村で育った証拠のようなものだ。
「畢ヶ間あとりは兆蛇の子だよ」
電話の声が耳奥でこだまする。認めざるを得ない。僕は、この村の子供だった。
「僕も思い出さなきゃ、いけないな」
かえさなきゃいけない。思い出さないと始まらない。
けど、失った記憶を取り戻す術が分からない。その日の記録はないし、知っている人も居ない。
いや、ひとりだけ心当たりはある。
僕の目の前に現れるあの影。
彼とどうにか話す事ができれば。何か糸口を得ることができるかもしれない。
「思い出したら、一体何があるんだろうね……」
「さあ。でも、あとりくんと一緒なら大丈夫だって思ってるよ」
「そうだね。一緒なら大丈夫だ」
くすぐったそうに笑った雛果の指がするりと離れた。
「日が暮れちゃうね。今日はもう帰ろう」
今は無理に思い出さなくてもいい。そんな言葉が込められた一言に頷いて、先を行く雛果を追う。
石段を降りる途中、何となく振り返った。
何もない。木々の影に切り取られた夕闇迫る空しかない。
なのに、僕達を見送るように立つ影のイメージが頭から離れなかった。
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