5.全てを繋ぐ夜を呼ぶ
うまく整理がつかないまま、日々は過ぎていく。
あの日以来、心の底に溜まっている澱をさらってはみるものの、話に大きな進展はなく、僕と雛果はお互いの普通を肯定しながら過ごしていた。
村を訪れてから二週間ほど経ったある日。
古い本の間から写真が一枚、ひらりと出てきた。
「なんだこれ……」
手を伸ばして拾い上げる。携帯で撮ってばかりだから、この部屋に写真があったことが驚きだ。
映ってたのは、学校の正門のようなところで並んで手を繋ぐ少年と少女。
日付はないが、緊張した面持ちで立っている二人は、僕と雛果だ。
「……」
記憶にない僕達の姿がそこにあった。
夢で渡されたものとは違う、決定的な一枚。だけど、これは僕じゃない。そんな透明な隔たりのようなものも感じる。
この日のことを思い出せそうな気がする。何も出てこない。記憶の底を探ってみる。薄暗い虚無を腕でかき混ぜているだけのような感覚だけがある。指に何かが触れそうなのに、何の引っかかりもなくすり抜けていく。
奥へ。奥へと指を伸ばす。もう少しで、何かが思い出せそうな気がする。
もう少し。そう、もうちょっと。全ての底には、きっと探していた何かがある。
それに指先が触れたような瞬間。ぐい、と引き摺り込まれるような感覚がした。
「えっ」
突然水の中に落ちたような息苦しさ。手にした写真がほろほろと朽ちていく。僕の手が、黒く染まる。
床に手をつくと、そこからカーペットが黒く変色していく。意識が暗転する。息苦しい。部屋の隅から。本棚の影から。黒が染み出し、侵食していく。いつの間にか僕に隙間なく張り付いていた写真が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていくのが見えた。
「あ……だめ。これは」
大事なものなんだ。やめて。剥がさないで。持っていかないで。かき集めようとしても身体がうまく動かない。懇願する声も音にならない。写真はあの紙特有の重たさで指の先へ落ちていく。
誰かが僕の前に立つ気配がした。足元に落ちた写真を拾い上げる手が見えた。写真をかき混ぜていたあの手だ。
返して。手を伸ばす。ねえ。聞こえてるでしょ。返してくれ。僕はそれがないと。
「――これがないと、普通じゃいられなくなってしまいそう?」
電話で聞いたあの声がした。
顔を上げる。こんなに近いのに、顔は暗くてよく見えない。
でも、もう一度でも会いたかった。聞きたいことがあった。訪れた希望に手を伸ばす。
僕の言葉を継いだ影は、拾った写真を差し出してくれた。けど、触れる直前で朽ちていく。
「ああ。ダメか」
しょうがないな、とため息。
スニーカーの爪先を上げて、落とす。床一面の黒に波紋がひとつ広がって、消える。
不思議と、息苦しさが少しマシになった。
「きみ、は」
詰まりそうな声を絞って尋ねる。
僕をよく知ってるような君は。誰?
彼は膝をついて手を伸ばす。温度のない手が僕の頬に触れて、顔を上へ向ける。
「――」
やっと見えた顔に、息が止まった。
意識が急に、クリアになった気がした。いや、気のせいじゃない。彼が触れたことで、視界にかかっていた薄暗さが晴れたんだ。
「やあ。やっと見てくれた」
そう言って彼は笑った。昏い目に穏やかさを貼り付けたその顔は。
「僕は――君だよ」
僕だった。
「びっくりしてるね」
言葉を失った僕に、彼は笑いかける。髪型や服装に違いはあるけど、同じ顔だ。
「ふふ――そう。そっかあ。やっぱり何にも覚えてないんだな。君は」
目を細めて笑う。僕を見る目に光は無く、違う感情が埋まっているように見える。
「……ごめん。僕が何かを忘れてるっていうのは、分かるんだけど」
触れていた手が離れた。はあ、と溜め息。
「いいよ。そんなことだと思ってた」
彼の落胆が手に取るように分かる。返す言葉も無いが、ここで黙ってるわけにはいかない。
「でも、僕は君に会いたかった。聞きたいことが、あるんだ」
「ん。何?」
「僕には、どうしても思い出せない一週間がある。あの村に居たのは確かなんだけど、何があったのか分からない」
「……」
「だから、もし知ってることがあるなら教えてほしい」
しばらく答えは無かった。黙考の末、溜め息をつかれた。
「思ったより人間らしくなってるなあ」
なんか気が削がれた、と彼はぼやいた。
「いいよ。教えてあげる。とはいっても、僕も全てを知ってるわけじゃないから……んー」
彼は僕を見定めるように視線を向ける。奥底を探られてるような気がして目を逸らす。
「ちょっと質問だけど。君はどうして「普通」を装おうとしてるの?」
「普通を?」
そう、と頷く。
「それは……」
答えがない。考えたこともまかったことに、気付いた。
「君は普通でありたいと思っている。日に一度は
「――」
「君は気付いてるんだよ。自分が普通なんかじゃないって」
近くに落ちた写真を一瞥する。その目にどんな感情があるのか読み取る事はできない。
「普通であろうと意識しないと、そう在れない。君は、そういう存在」
「それって――」
視線が僕を向く。写真を口元に当てると、目が細くなった。笑顔ではない。
「神様さ」
「かみ、さま」
無意識に、手首のブレスレットに触れる。
「――ああ、それだ」
彼が僕の手を掴んだ。反対の指がするりと滑るようにブレスレットに触れ――力任せに引っ張られた。
「痛っ。ちょっと、痛い」
「我慢して。それから――何があっても受け止めろよ」
「え」
「これは、君に施された封印だ。記憶も力も、これが枷になってる。何を思い出すかは分からない」
僕と君の繋がりくらいは分かると思うけど、と僕を見ずに言う。
「受け止められるかは君次第だ」
「――分かった」
頷く。覚悟を決める。
神社の跡地で「大丈夫だよ」と言ってくれた雛果の言葉を思い出す。大丈夫だ。きっと。
「思ったより潔いね」
「何があっても、その底には希望があるって信じないと」
「なるほどパンドラの箱」
いいね、と彼は笑った。初めて彼の目に、明るい感情が見えた気がした。
「じゃあ、僕もそれに乗ってみようか、な!」
腕に食い込むのも厭わず力任せに引っ張られると、ブレスレットはぶつ、と小さな音を立てて千切れ飛んだ。
千切れたブレスレットは質量を無視した水流となり、僕達に降りかかる。真っ黒な水は、写真を剥がし、飲み込み、立ち上がった影の向こうへと押し流していく。床に落ちた手が形を失う。人の形が保てない。
「僕にできるのはこれだけだ。これ以上は難しくてさ」
崩れ落ちる僕の前で、彼は立ち上がる。黒い水が滴る指を振ると、流されたはずの写真が大量に降ってきた。周りを埋め尽くし、彼を覆い隠す。意識が濁流と写真に埋もれていく。
「それじゃあ、自分と向き合って、奥底の希望を拾って見せて」
「――」
雛果には連絡しといてあげるから安心して。
落ちてしまった意識の向こうで、そんな声だけが聞こえた。
□ ■ □
僕は、
兆蛇はかなり過疎が進んだ村で、人がいなくなるのも時間の問題だった。
兆蛇村は、電車とバスを乗り継いでやっとたどり着くような、山奥の村だ。
幼い頃に引っ越して以来、墓参りや祖父母への挨拶をしに戻る程度の場所。自然ばかりで何もない。けど、こういう村に残る信仰や風習には興味があったから、それを学んでみようと進学先を決めた。
そして大学へ進学する直前。報告を兼ねて村を訪れた。
久しぶりに訪れた村は、なんか雰囲気が違う気がした。
空気がざわついてるというか、浮き立っているというか。祭りの気配もないのに、そういう何かがあるような空気を感じながら、墓参りを済ませて祖父母の家へ泊まった。
次の日の朝、祖父母にひとつ頼み事をされた。
「神社で祭りがあるのだが、その手伝いをして欲しい」
まあ、もう一泊くらい良いだろうと快諾をした。
夜中。
何となく目を覚ました僕は、村の大人達に囲まれていた。
声を上げようにも、口は塞がれている。
暴れようにも、手足は縛られている。
誰もが僕を嬉しそうな目で見ている。祖父母を探すと、人の輪から少し離れた影にいた。
「――、――っ!」
なんだよこれ。助けて。と叫びもがいても、届かない。誰も止めない。
訳がわからないまま、僕は村の奥にある神社へと担ぎ込まれた。
四隅に小さな火が灯された部屋へ放り込まれた。手足は深く傷つけられた上、固く固定されている。手足から流れる血で床が生暖かく濡れ、すぐに冷たく固まっていく。傷が痛い。寒い。
何もできない。戸は固く閉ざされている。寒さで指がかじかむ。
外には人の気配。村の人達が集まっているらしい。しばらくすると鈴と笛の音が聞こえ始めた。何かを唱える声もする。
単調な調子の声。薄暗く寒い部屋。頭がクラクラする。色んな意味で眠気を誘う。それどころじゃないのに。
「誰か! 開けて! なんだよ、これ……」
いくら声を上げても、むなしく響くだけ。外の音は変わらない。
どうして僕がこんな目にあっているのか。祭りの手伝いだなんていいながら、これじゃあ生贄だ。騙し討ちすぎる。傷が痛む。手足の感覚が消えつつある。声がする。意識が遠のきかける。冷えていく身体が、死を意識させる。僕が何をしたんだ。鈴の音。寒いのか痛いのかもわからない。
少しずつ声が遠のき――突然足下に生暖かい気配を感じた。
「……?」
何の姿も見えない。炎がちらちらと揺れている。吐息のような湿気を帯びた気配が、部屋を重苦しく埋め始めた。さっきまでの息の白さもない。何かが居る、という確信だけがある。
「なに……なんだよ、これ」
得体の知れない気配が僕を囲む。冷たく澄んだ空気は、生温かかく淀んでいる。
生理的、いや、もっと本質的な所から拒否感が湧き上がる。
「え、やだ。嫌だ、なに……誰か、助け――」
揺らめく火に照らされた影が、一際大きく伸びて。
――見つけた。
部屋中の火が消えた。
□□/■■
声が響く。
何が起きた。痛い。僕が何した。寒い。助けて。どうしてこんな目に。
帰りたい。返してほしい。かえせ。還せ。返せ。帰せ――。
小さな怨言は、私が拾い上げるとあっという間に膨れ上がって、怨念となり呪詛となった。
細く画一的な形の文字となった声は、指からぱらぱらと零れ落ち、舞い上がり、周囲の触れるもの全てを黒く染め、溶かしていく。
私はただ、彼の言葉に応える。
彼の言葉は私の力と共鳴し、全てを蝕んでいく。
□□/■■
辺りは真っ黒だった。
木々に囲まれた広場。立っているのは私ひとり。
周りにあった物は全て消えてしまった。形も残っていない。ただ、足下をひたひたと濡らす水になった。夜の冷気が、その水の熱を奪っていく。
人の身体を使っていると気付くのに、少し時間がかかった。
この身体は、私に捧げられた物らしい。手足が多少傷ついているが、私の力に触れても朽ちることなく耐えている。どのような人間だったのか少々興味が湧いたが、思い出せたことは少なかった。
村とは異なる風景。怒りと絶望。それから、誰かが託した願いだけがうっすらと残っていた。
どうしてこんなことに。絶対に許さない。彼女に外を見せて欲しい。普通の生活を。
「……普通?」
よく分からない。負の感情には一定の理解はある。私はそれに応える者だ。しかし、あの願いは一体どういうことだろう。厄災でしかない私に何かを託しても、できる事はない。
首を傾げていると、足音が近付いてきた。
振り返ると少女が立っていた。駆けてきたのか、息を切らしている。
この暗闇の中、仄かに光を放つような気配を纏った少女。
「――」
彼女が何かを呟いた。
それは、彼女にとって大切な誰かの事だったのかもしれないし、この身体の名前だったのかもしれない。
理解するより先に、急に身体が重くなった。内側から縛られるような感覚に倒れ込む。
身体が窮屈だ。動かない。真っ黒で何もないはずの私に、何かが侵食してくる。私が急速に変質していくのが分かる。張り付き、塗りつぶしていく色鮮やかな何かが気持ち悪い。変質した部分を切り離す。少し楽になった気がしたが、纏わりつく何かに押し込められる。その苦しさに、意識が遠のく。
最後に見えたのは、私を覗き込む少女と。
その向こうに広がる、嫌になるほど満点の星空だった。
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