2.綾ちゃん

 雛果は、綾ちゃんに会いに出かけて行った。

 僕も用事を済ませ、夕方になり、夜になった。


 ところが、20時を過ぎても雛果が帰ってきた様子はなかった。

 夕飯を食べてくるとは聞いていないが、彼女も高校生だ。そういうこともあるだろう。

 心配ではあるけど、過保護すぎるのもよくない。高校に入って行動範囲が広がったのならいいことだ。でも、遅くなるなら連絡をくれるように言っておこう。あまりに遅すぎるなら迎えにいく必要もあるだろう。いや。いらないかな。

 そんなことを考えながら夕食を終え、寝る支度をしていると彼女がやってきた。

「おかえり。夕飯食べる?」

「少し、もらう」

 分かった、と残ったおかずを温め直す。

 友人に会ってきたはずなのに、その表情はなんだか沈んでいるように見えた。

「どうだった?」

「あのね。会えなかった」

「会えなかった?」

 携帯で簡単にやりとりができるこのご時世で、待ち合わせに失敗するということがあるのか。

「なんか、携帯は繋がるんだけど、人混みすごくて見つけられなくて。仕方ないから、綾ちゃんの充電が切れるまでメッセージで案内して。帰ってきたら寝ちゃってた」

 なんかすごく疲れちゃって、と雛果はスープを啜ってはふう、と息を吐いた。


 なるほど。

 一見、不思議な話に聞こえたけど、東京は人が多い。僕でも人混みに酔うことがある。都会に慣れない者同士なら、そんなこともあるのかもしれない。


「それはまた変わった形だけど、まあ、楽しかったならいいんじゃない?」

「うん。楽しかったと、思う。いろんな話、したし」

「その割に浮かない顔だね」

「うん。その」

 曖昧に言葉を切った雛果は、何かを考えながらもそもそとご飯を食べる。

 僕はお茶を飲みながらテレビのニュースを眺める。桜前線の話をしている。まだ寒い日が続いてるけど、春は近づいてきてるらしい。

「ねえ、あとりくん」

「なに?」

 テレビから雛果へと視線を移す。彼女は浮かない顔のまま、箸を置いた。

「今日、綾ちゃんに言われて思い出したんだけど。あとりくん、記憶がないって言ってたよね」

「? ああ、ちょっとだけね」

 頷く。僕には記憶がない時期がある。高3の春休み。およそ1週間分。

 僕としては寝て起きたら1週間経っていた、という感覚。春休みだったし、騒ぎになることは何もなかった。生活にも支障はない。大体、何年も前の数日間が思い出せない、なんてことはよくある。ただ、友人の約束をひとつすっぽかしたらしく、後日飯を奢ることになったから印象深い。それだけだ。

「それって本当に、大したことないのかな」

「……どうして?」

 僕の記憶の欠落は、雛果には関係がない。彼女が僕の記憶で気にかけるようなことは、何もないと思うんだけど。

「私もさ。記憶がない部分があるみたいなの」

「そうなんだ。何時ごろの?」

「どこかっていうのはよくわからなくて。ただ、ない部分があるっていう自覚だけあるみたいな……」

 村を出る前とか小さい頃なのかなあ、と呟く雛果に、どう答えたものかと唸る。


 幼少期の記憶なんて、僕もほとんどない。思い返してみても、小学校の高学年あたりまでは曖昧だ。当時のクラスメイトの顔や担任の名前。教室の景色。そんなのはドラマや漫画で見かけた何かを継ぎ接いで作られている気がする。

 とはいえ。雛果は記憶力はいい方だったと思う。そんな彼女が「覚えてない」と言うのなら、それは相当なことなのかもしれない。


「小さい頃はあんまり覚えてないのが普通かなって、思うんだけど。あのね」

「うん」

 雛果の指が、湯呑みに伸びる。大事なものを温めるように、両手でしっかりと包む。

「私、綾ちゃんの顔が分からなかったの」

「?」

 どういうことだろう、と首が傾く。

「待ち合わせして、メッセージで服装とか聞いても、見つけられなくて。それを着てる顔も想像できなくて。綾ちゃんは「早めに転校しちゃったからかも」って言ってたけど、いつ居なくなったのかも分からないし。そうしてる内に、綾ちゃんの性別も、分からないなって思って……」

 声が震えている。湯呑みを持つ指に力が入る。

「学校ではどんなだったっけ、って思い出そうとしても、出てこないの。学校にも通学路にも、誰もいないの」

「……」

「それで、覚えてることを並べてたら。ちょっとだけは、あったの」

「どんなこと?」

 声が喉に引っかかった。お茶を飲んで喉を湿らせる。

「私、小さい時。仲のいい子がいた気がするの」

「綾ちゃんじゃなくて?」

 雛果の返事は「かもしれない」という曖昧なものだった。

「分かんないの。あとりくんは、知らない?」

「いや。僕は……知らない、よ?」

「なんで?」

「なんで……?、いやだって、僕は、君の居た村に行ったことも」

 ないよ、と言おうとして。僕を見ている視線に声を詰まらせた。

「本当に?」

 昏い視線だけを上げて僕を見ているのは、雛果じゃない。

 直感だけど、そう感じた。

「本当に、君は村に来たことがない?」

「――」

 湯呑みに視線を落とす雛果の声に、ざらついたノイズが混じる。

「私は、どうして君と一緒にいるの?」

「それは、君の両親に」

「私の両親はどこに行ったの?」

「それ、は……」

「村はどうしてなくなったの?」

「……」

「綾ちゃんって誰? いつから仲が良くて、いつ居なくなった?」

 声は淡々と問いかけてくるけど、僕はその答えを持っていない。

 なのに、声は「お前はそれを知ってる」と言いたげに問いかけてくる。


 これはやばい。

 そんな予感がして、引きずられそうになった思考を振り払う。


 雛果は生まれ育った環境からか、時々こういう状態になることがある。混乱や錯乱とも違う。憑依というのが近いだろうか。声色や言葉遣い、場合によっては表情も変わる。しかし、ここまではっきりと問いかけてくるのは初めてだ。

 慌てて彼女の側へ行って、手ををとる。

「君は。私は……あの時に■■を……ああ、もう――」

 僕は目に映っているけど焦点があってない。無理やり視線を合わせる。手首の数珠をさするように撫でて、彼女を呼ぶ。

「雛果、雛果!」

「――っ」

「雛果。戻っておいで」

「……あ」

 瞬きをして僕を見るその目は、いつもの雛果だ。よかったと息を吐く。

「深呼吸して」

「……うん……」

 すう、はあ。と数度の呼吸。冷えてしまった指先を温めるようにさする。

「僕のこと、分かる?」

「あとり、くん」

「うん。そう。あとりだよ。畢ヶ間ひつがまあとり。君は?」

叶臣かなおみ雛果ひなか

 その答えに頷く。

「あとりくん」

「うん?」

「私……また、やったの?」

「まあ、うん」

 いつもはぼーっとして何かを呟く位だけど、ここまでハッキリしていたのは初めてだった。

 不安にさせたくなくて、曖昧に濁す。

「……私、こんなんで普通になれるのかな」

「普段は出ないんでしょ?」

「うん。学校では、ないと思う」

「それなら大丈夫だ。雛果はどこにでもいる、普通の高校生だよ」

「そっか」

 雛果の顔がふにゃりと緩んだ。いつもの顔。もう大丈夫だ。手を離して立ち上がる。

「ココア作ってあげる。これ飲んだら部屋に戻るんだよ」

「ありがとう」


 □ ■ □


 雛果を見送って。そのままベッドに突っ伏した。

 ゆらゆらと寄せる眠気に、さっき問われた一言が浮いている。


「本当に、君は村に来たことがない?」


 本当に、僕は村に関係のない人間か。

 あの時に。そうだよと答えようとして、一瞬何かが引っかかった。


 記憶の中の僕は、ずっと東京近郊に住んでいる。

 高校が都内だから、一人暮らしを決めた。

 普通の両親。平均的な規模の学校。友人達。

 でも、思い出そうと探ると、ぐちゃぐちゃになっていく。


 気付くとリビングに居た。薄暗い。テーブルには、たくさんの写真がばら撒いてある。僕の記憶だ。そこに伸びてきた手が掻き混ぜる。

 向かい合って座る誰かが、僕の記憶写真をめくって、眺めて、丁寧に重ねていく。

「懐かしいな」

 影はポツリと呟いた。

「君は知らないだろうけど。僕は、あの村のこと嫌いじゃなかったんだよ」

 懐かしい。嫌いじゃなかった。影はそう言うけど、その言葉は黒い煙になって立ち上っている。

「なんの、話……」

「コレの話」

 写真をぺらりと見せて、重ね置く。

 これは、僕の記憶だ。そのはずだ。なのに、影はそれを懐かしいと言う。

 それはまるで、これが自分のものだと言わんばかりだ。

「待って、これは」

「僕のだよ」

 影はそう言い切った。あまりにはっきりと言うものだから、僕はそれ以上何も言えない。

「そう。僕のだったんだ。本当は返してくれたら嬉しいんだけど」

 無理だよねえ。と、影は写真を選別しながらうっすら笑う。

 そしてまた一枚。手に取った写真に目を細めて、僕に差し出した。

「ああ。ほら。これとかいい一枚だと思うんだけど。どう?」

 そんな一言と共に差し出された写真は、真っ黒に塗りつぶされていて――。


 目を覚ました。

 時計は深夜。点けっぱなしだったリビングの電気が部屋に差し込んでいる。

 変な夢を見た。テーブルに散らばっていた写真を思い出す。

 漫画やドラマ、テレビや街中で見かけた何かを継ぎ接いだような記憶。

 それは僕の記憶なのか。どこかで見た誰かのものなのか、分からなくなる。

 返して欲しい。そう言われたけど、誰に何を返すのかも分からない。

 暗い部屋で枕に顔を埋め、目を瞑っても逃げられない頭の中の画像と向き合う。

 テーブルの写真はどれもぼやけている。何かが写っているというのは分かるけど、それが何かは判別がつかない。夢の映像なんてそんなもんだ。

 そんな中。

「――っ!?」

 最後に差し出された写真だけが、急に鮮明に見えて跳ね起きた。


 真っ黒だったはずの写真は、色鮮やかな一枚へと変化していた。

 鮮やかな紅葉を差し出す小さな手と。

 ちょっと戸惑った顔の少女。


「どういう、こと……?」

 頭を振っても叩いても、これ以上は思い出せない。

 でも、その景色は、確かにあったという実感がある。

 あの少女は雛果で。あの手は僕で。これはきっと、僕の視界で。

「……」


 つまり。

 僕には村で過ごしたことがあって。

 僕は彼女の、雛果の幼い姿を知っている……?


「いやいや……そんな」

 否定してみた声は弱々しい。


 それは、実感はあるのに夢のように曖昧で。

 丑三つ時の怪談にしては出来が悪いな。と思った。

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