最終章 闇の主と代替わりの秋5

「一晩、妻を貸すとか言って外に置いていたら……翌日には自害していたそうよ。それでもまつり続けたの。なぜかというと、本当に商売が上手くいったから」


 ゆっくりと身を起こして顔を上げると、頬や耳を切られた紀枝の顔が側にあった。

 痛々しくて、実来は顔を背ける。

 自分は紀枝に酷いことをしていて、また酷い目にわせて、これではもっと呪われるのだろう。


「ねぇ」


 そんな思考に陥る実来みらいを紀枝の声が引き留めた。


「実来ちゃん、お姉ちゃん、しばらくたったら葉山酒造に住むけれど嫌いにならないでね」


(紀枝、が……ここに?)


 母屋おもやの方から実来を呼ぶ祖父の声が聞こえてくる。


「すごい音がしたけど……実来、大丈夫か?」


 実来は祖父の方を見て、小さく頷いた。

 祖父は紀枝の方を向いても、動揺もしない。

 もしかしたら、ここに来るのが最初から分かっていたのかもしれない。

 紀枝は、戸惑う実来の目線におのれの目線を合わせて話しかけてきた。


「ある人がね、葉山に戻って実来ちゃんと一緒にいてくれないかって言うの。あなたが私に呪われていると思い込んで裏庭にいるから、せめて会ってくれって言うのよ」


 あざと血で汚れた姉の顔を見つめながら、実来は細い手でスカートのポケットを探った。

 中に、メモ帳とボールペンが入っていて、誰かにたずねたい時はこれに書いているのだ。

 そんな実来を紀枝は気長に待っている。

 実来が早書きで【わたしが嫌いでしょ?】という幼い文字をメモ帳に並ばせると、紀枝はくすっと笑った。


「あなたのお母さんは嫌いよ。それは好きになれって方が無理。でも、実来ちゃんは好きでも嫌いでもないわ。ああ、でも、昔はあんたのことが嫌いだったけどね」


 真っ正直な言葉に、実来は戸惑う。 


「私、実来ちゃんにいきなり出てきたお姉ちゃんを好きになれなんて言わないわよ。でも、お互いに少しずつでいいから歩み寄れないかな?」


 前もって考えていた言葉なのか、紀枝はすらすらとはっきりとそれらのことを口に出してから実来の細い猫っ毛を優しく撫でてきた。

 実来は紀枝の手に触れようとしたが、ぴくっと肩を跳ねらせて止めた。

 草刈りをしていた手は汚れていてバイ菌がついているかもしれない……傷からバイ菌が入ったらいけない。

 だから実来は宙に浮かんだままの手をしっかりと握りしめる。

 すると、それを察しているかのように紀枝は実来の握り拳を両手で包み込んだ。


「実来ちゃんは優しい子ね。お姉ちゃん、きっと実来ちゃんのこと好きになるわ」


(無理だ。わたしはみんなに嫌われるから)


 実来は左手のメモ帳に何かを書かなければと焦ったが、何を書いて良いのか分からない。

 途方に暮れ、紀枝の暖かな眼差しから逃げるように寒風吹く空を見上げた。

 そこに、もう主の姿はない。


(主……)


 心の中で先ほどの美しい声を思い出した時に、祖母が好きだったという『聞けぞかし、わが祈りを』が頭の中に大音響で鳴り始めた。


『主よ、耳を傾け、我が祈りを聞いてください。

 私の懇願こんがんから逃げないでください。

 なんじなしでは、全ては闇の中。

 私には導いてくれる者がいません』


(――全ては闇の中、私には導いてくれる者がいません)


 心の中で祈るように呟くと、実来の手を紀枝が引っ張って持ち上げた。

 石楠花しゃくなげの丸い蕾のように重なり合って膨らんだ二人の手に、紀枝の息がかかる。


「お姉ちゃん、色々と忙しいから、ずっと実来ちゃんの側にいれないの。でも、自分ができる範囲でどうやったら実来ちゃんと仲良くなれるか一生懸命に考えるから、実来ちゃんも自分ができる範囲で考えてみてね。駄目かな?」


 実来は心の氷の中に閉じこもり、自分を呪っているはずの紀枝を見つめた。


(――私には、わたしには導いてくれる者が……いません。

 ――いません……いません……)


「でも、今すぐじゃないのよ。いつかの話よ。それまで、ゆっくりと考えてね」


(――導いてくれる者が……導いてくれる者が……)


 実来の目の前で、紀枝が真剣に考えてくれている。


(どうして、話しかけてくるのさ。わたしのせいで死のうとしたくせに)


 凍り付いた彼女の心は、鬱蒼うっそうとした迷路のような闇から出られない。

 氷の中から紀枝を注意深く観察して、少しでも嫌な表情をしないか発見しようとした。


「えっと、じゃあいっそのこと大嫌いから始めようか?」


 予想外の言葉に、実来は長い睫毛まつげをあげて傷だらけの美しい姉を見つめた。

 紀枝はからっとした笑顔を見せて、実来の柔らかな頬を摘んで引っ張る。

 ちょっとだけ痛いけれど、親しみが籠もった触れ方だった。


「お姉ちゃんなんて大嫌いって、声出さなくても口を動かしてみて」


 これなら楽でしょうと黒い瞳が提案しながら輝いた。

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