第四章 もう一人の声なき慟哭5

 園田は、もう一度グローブボックスに手を伸ばした。

 今度は、しっかりとした金属の感触がある。

 一気にソレを引っ張って、液体の中で腕を振るった。


 ガシャン!


 フロントガラスが割れた音がする。

 ――と、同時に大量の液体が押し寄せてきた。

 闇の中で浮かび上がる真っ赤な血だった。

 ただ生き残りたい一心で園田は手足を動かした。

 生ぬるい液体の中にはなにか生き物がいて園田の足にまとわりつく。

 だが、それらを押し切って園田は車から脱出した。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 気がついたら、園田は階段を上っていた。

 濡れ光る黒い鉄の階段だった。

 足元を見ていると白い物がヒラヒラと落ちてきて、モンシロチョウのようにつま先に止まる。

 それは結晶の大きい雪の一欠片ひとかけらだった。

 園田は白い息を吐きながら、ゆっくりと周りを見渡した。

 国道沿いのアパートの駐車場が見える。

 そこには彼のタクシーがあり、フロントガラスが無惨むざんに割れている。

 では、ここは――。

 メゾン・パラディ……楽園の家の階段だった。

 

「なんで、ここに……」


 絶句して、階段の頂点を見上げた。

 そこに、青白い魚のようなものが落ちている。

 確認なんてしたくないのに、なぜか足がぎりぎりと動き出して階段を上がっていく。

 魚のようなものと思っていたのは、近づくと何かが違う。

 魚にはひれや尾があって、表面はうろこで光っているはずだ。

 それには、ひれも尾も無かった。

 五本の小さな指があった。

 軟弱そうな小さな爪がついた千切ちぎれた赤子の腕だった。

 逃げようと身体がけ反った瞬間、ふぅ……と耳元で誰かが溜息をつく。


「ひろって」


 実来みらいの声だった。


「ひろって、それは未子の腕なの……」


 未子というのは、さっき胎内となったタクシーで聞いた腹の子の名だ。


「お前、……お前の腕か?」

「あれは私の腕だったものだよ。ひろって……」

「いやだ……あんなの、拾えない」


 だが、何かの圧が背中にかかってきた。

 嫌なのに、前へ上へと押し出されていく。

 視線を降ろすと赤子の腕が視界に入り、園田はぶんぶんと首を動かした。

 彼の視線の先で、赤子の腕には無数の指が生え始めていた。

 その小さな無数の指は、握ったり伸びたりしている。

 多分、園田を掴んで離さないように、その運動をしているのだ。


「……なんで、おれが……ひろわ……なきゃ……」

「おじちゃん、一番最初の子の時に……お母さんを病院に連れて行ったよね?」


 考えもしなかった言葉を言われて、園田は硬直こうちょくした。

 

「お母さん、泣いてたのに……ほとんど状況がわかってたのに……病院に連れてった。お腹の子、殺されちゃった……」


 ずいぶん昔、具合が悪そうな若い子をタクシーに乗せたことがあった。

 その時の記憶が、脳裏のうりに急浮上する。

 田舎町には似合わない肌を露出した服を着た娘で、病院まで行く途中で「蔵元さんがろせっていうの」と話しかけてきた。


「……いや、あれは俺……悪くない……悪くないよ。ただ、あの子がどうしても蔵元さんが好きだって言ったから、じゃあ仕方が無いねみたいなことを言っただけで……」


 その後に娘が亡くなってから、何度もこの時のことを園田は反芻はんすうしていた。

 彼女の思考を堕ろす方向に着地させてしまったから、娘の命も亡くなってしまったような気がしたのだ。


「お母さん、おじちゃんが止めてくれたら……お腹の子、育てるつもりだったんだよ」

「そんなこと言われても、他人の人生を左右するようなことできない……し……」


 違う。面倒だなと思ったのだ。

 厄介事やっかいごとに関わりたくなくて、適当てきとうに返答したのだ。

 あまりに適当だったから、なんて言ったかまでは……はっきりとおぼえていない。


「おじちゃん。あの時お母さんを止められてたら……お母さん、あんな風にはならなかったよ」

「わ、悪かった。だから、もう謝るから……な? な?」


 園田はその場にひざまづいて、恐怖から逃れたい一心で土下座をする。

 すると、その頭を下げた先に……あの腕があった。

 シワシワの額の皮をたくさんの指が掴もうと躍起やっきになっている。

 園田は焦って頭を上げようとするが、背中に圧があるので顔を上げられなかった。

 額の皮が、赤子の薄い爪先でぐりぐり抉られていくのが分かる。

 激しい痛みと、何か起きるか分からない不安が彼の心を万力まんりきのように挟んだ。


「ぁ、入ってくる……入って……ユビが、入って……くるっ」


 小さな指が芋虫のように動きながら額の肉の中に潜り込んできた。

 園田は、あまりの痛みに口を開けて、大量のよだれを涙より多く零す。

 赤子達の指の先が頭蓋骨ずがいこつまで達し、そこから眼球の方に向かって動いていく。


「や、やめてくれ……やめろっ。やだ、やだやだやだっ」


 必死に顔を上げて指から逃れようとするが、背にかかる圧がすごすぎてビクともしない。

 このままでは目がやられてしまう。額の皮のようにえぐられてしまう。


「やだって、やめろ……やめれって!」


 土下座で付いていた手を動かし、気味の悪い赤子の腕を掴もうした。

 だが、腕を掴んでも指達が額にめり込んでいるから動かしようがない。

 指が額の皮と肉を捲りながら眼球の側まで来た。

 頭蓋骨の目のくぼみに、ずっ、ずっ、ずっ……と指が入っていく。


「アァァァアアァァァァァァァァァァァァァァッ!!」


 激痛に叫ぶ園田の耳に、ふっと息が吹き込まれた。

 笑い声が細い息になったものだった。


「ふふっ、痛いよね。私も、痛かった……。身体が出来上がってきてるのに、バラバラにされたんだよ」

「おま、おまえ……、あのときに……死んだ子かッ」

「私は……あの時の子だったし、その後の子でもあったし、その次の子でもあるの。みんなの魂がくっついて、私になったの」

「わるかっ……た、悪かった……ほんとに、本当に……そう思ってる」


 垂れる涙とよだれと、脂汗のような物で顔がぐちゃぐちゃになっていく。

 ぐにぐにと赤子の指が眼球に向かって行き、目の周りに重い痛みが生じ、もうどうしたらいいのかわからない。

 ただ、ひたすら園田は口を動かした。

 許しをう為に、唇と舌を動かし続けた。

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