第四章 もう一人の声なき慟哭2

 タクシーの後ろの席に乗り込むと、少女は鼻を動かしてじっくりと匂いを嗅ぎ出した。

 鼻の頭を白いカバーに覆われたシートに着けて、鼻の頭を擦りつけていく。


「おじさんのタクシー、そんなに臭いかな……?」


 気になってたずねると、尻を向けていた少女がくるりと首を回して振り返る。

 は虫類か何かの動作に見える、と感じてしまうのは、彼女が信じられないほど痩せている所為せいだろう。

 だが、不謹慎ふきんしんだなと園田は自分自身を心の中でなじった。


「前に乗っていた人の匂いが強く残ってるから、嗅いでるの」

「お嬢ちゃんの前に乗ったのは、お嬢ちゃんぐらいの女の子だよ」

「……その子、生きてる方が可哀想かな?」


 少女の言葉の意味が分からずに、園田は彼女をまじまじと見つめた。


「生きてる方が残酷ざんこくってことがあるよね?」

「……君は、……そうなのかい?」

「わかんない」


 園田は運転席に身を沈めようとして、身体の動きを止めた。それから会社から託されたジャケットを脱いで少女に差し出す。


「寒いから、これ着てて」

「汚れちゃうよ」

「いーんだよ。お嬢ちゃんが風邪ひくより、ずっとマシだからね」


 こくんっと少女が頷いてジャケットに受け取った。

 彼女はたどたどしい動きで細い腕を袖に通すと、ふぅーと溜息ためいきを漏らす。

 まるで温泉か何かに浸かった時のような溜息だった。


「じゃあ、車を動かすよ」

「うん」

「お家は隣町のアパートだよね?」

「駅近くにある見た目だけ綺麗な水色のアパートで、メゾン・パラディって名前だよ」

「楽園か……」

「らくえん?」

「パラディって楽園って意味なんだよ」

「……らくえんって、なに?」


 尋ねられて、園田は唇をきつく閉じた。

 この痩せっぽっちの子に楽園を教えるのは酷な気がしたのだ。

 だから、飴の缶を取り出して少女に差し出した。


「楽園って、こんなのど飴が出るところだね。食べてごらんよ。全部あげるから好きなだけお食べ」

「……ありがとう。飴なんて……ひさしぶり」


 小さな口から漏れた言葉に、園田の胸が強く押し潰されそうになる。

 なんとかしてこの子を助けてやろうと、彼は心の中で強く決意した。

 それは長らく脳の宝箱にしまっていた輝かしい父性の目覚めだった。

 アスファルトに叩き付けられ即死した我が子の代わりに、彼女を窮地きゅうちから救い出してやりたかった。


「飴……飴の缶……」


 少女は丸い缶を手に取り、軽く振ってからニッと笑った。

 中にたくさん飴が詰まっているのが分かったのだろう。

 年相応の笑顔に見えた。

 園田は少しだけ気を緩め、ゆっくりとタクシーを発進させていく。

 後ろでパカッと缶の蓋を開ける音がした。


「……あ、すーすーする香り」


 少女がさっきのように嗅いでる音がする。鼻を鳴らして得体の知れない生物のように嗅ぐのは、彼女の生活が壊れている証拠だろうか。


「お嬢ちゃん、お腹が空いてるならどこかで食べてくかい?」

「家族が死んじゃう」


 少女は再び先ほどの言葉を繰り返した。


「それって、……食べ物を食べてないからかい?」


 恐る恐るたずねたが、返答は無かった。

 バックミラーで少女を見ようとしたが、鏡のどこにも彼女の姿がない。

 車を道路脇に寄せて、園田は後ろを振り返る。


「あれ……? いない」

「私のこと?」


 真横から生暖かい息を吹きかけられ、園田は跳ね上がって天井に頭をぶつけた。

 いつの間に、少女が助手席に座って、園田に光のない黒い目を向けている。


「こっちにいたのか。お、おじさん気が……つかなかったよ」


 明るく言おうとしたが、恐怖で乾いた口内に舌がはり付いてうまく話せない。

 園田は運転席に身を戻して、ハハハと嘘笑いをしてから少女の方を向いた。


「シートベルトしてくれないかな。動いている時、あっちいったりこっちいったりしたら危ないんだよ」

「うん」


 素直に彼女が頷いて、シートベルトで身体を固定した。

 シートベルトを締められるという事は、幽霊ではない。


(幽霊なんて……なに考えてるんだ俺は)


一瞬ヒヤッとしたからか、愚かな考えが頭に浮かんでしまった。

隣を見ると、ちゃんと少女はシートベルトをしていて、しっかりと身が固定されているように見える。

そのことに安堵あんどしながら、園田はタクシーを動かして国道を目指した。


「そうだ、お嬢ちゃん……名前はなんていうの?」


 聞くと、少女が首を傾げた。


「自分の名前、わからないの?」


 畳みかけるようにして言うと、少女がぎこちなく唇を開いた。


「みらいだよ。実るの実に、来るって書いて実来」

「それが君の名前? 実来ちゃんか」

「お母さんが付けたんだよ。私が無事に産まれてくるように付けたんだよ」

「綺麗な名前だ。いいお母さんだね」

「でも、死んじゃう。私が戻らないと一緒に死んじゃう」


 また繰り返された言葉が、園田の温かな優しさを急激に冷やして固めてしまう。

 優しさよりも恐怖の方が少しずつ顔を出し始めた。


(怖くなんかない。普通に生きてるように見えるし……)


 ハンドルを強く握り締めて、前方だけを注意しようとする。

 車の先は一面の激しい雪だ。

 雪に近くの雪が重なって、さらにその後ろの雪と手前の雪が重なって真っ白に見える。

 ヘッドライトに照らされた雪の軍隊が、進撃しているような感覚に襲われる。

 今、ここで亡くなったりしても雪の所為せいにされて終わりそうだった。

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