第四章 もう一人の声なき慟哭1

 タクシー運転手の園田には、園田家当主に代々付けられる立派な名があった。


 ――重重助。読みは、しげじゅうすけ。


 変わった名だが、園田は案外気に入っていた。

 重なって重なって、助かる……そんな名前だと思ったからだ。

 だが、今のところ助かったと思えるようなことは、何一つ無かった。

 危機一髪な場面もなければ、泥沼にまって救い出された経験も無い。

 ただ、ただ、ひたすら凍った闇の中に落ちていくだけだ。


(それでも、重重助なんて名前だから、いつかきっと助かるはずさ)


 闇の一番低い場所で、園田はのんきなことを思う。

 あまりに酷いことだらけの現実に心が麻痺まひしているのだ。


(ああ、でも……。さっきの女の子との会話は久しぶりに楽しかったな。まるで、娘が戻ってきたかのようだった……)


 思い返しながらハンドルを回して総合病院に入ろうとした時、白い服をまとった者が車の前に飛び込んできた。

 人が衝突した鈍い音がする。

 園田は急いでブレーキを踏んで、ハンドルを強く回転させる。

 きぃぃぃぃっと車が雪の道を横に滑り、電信柱の前で急停止した。

 すぐに園田はドアを開け、黄色い車体の前の方に向かった。


 電信柱の5センチ先で、タクシーが見事に停まっている。

 それは、どうでもいい。どうでもよくないが、今はどうでもいい。

 車に飛び込んできたのが幼い少女に見えたから、その無事の確認が一番大切だった。


「……いたよな? 轢いた……はず」


 人を殺したかもしれない恐怖で、心臓が肋骨ろっこつの下で暴れるように跳ねている。

 極寒の中にいるのに、園田の額に嫌な汗がじわりとにじんできた。


「あぁぁ、なんてことだ……」


(交通事故で娘を亡くした俺が、どこかの誰かの子を轢き殺すなんて……絶対にあってはいけないのに……)


 園田は車の下を覗き込み、雪積もった生け垣の中に顔を入れて捜し、遠くに吹っ飛ばされたかと思って懐中電灯片手に田んぼの方を見に行く。

 だが、どこを見ても白いのは雪だけだった。

 車にぶつかったと思われる、白い者は見当たらない。


「……気のせいじゃなかったよな。確かに、ぶつかって……」

「――それ私だよ」


 真後ろから声がして、園田はバッと振り返った。

 そこには、汚れた白いタンクトップとショートパンツ姿の幼い少女が立っていた。


「お嬢ちゃん、大丈夫かいっ。どこか痛いだろ、すぐにそこの病院に行こうっ」


 園田は、少女に近づいて彼女の頭に付いた雪をはらってやろうとする。

 すると、少女は両手で頭を押さえて身構みがまえた。


「え……いや、叩いたりしないよ?」

「ほんと……?」

「お嬢ちゃんみたいな小さい子、叩くわけないだろ。それより、怪我してないか?」


 優しく聞くと、少女はゆるく頭を振った。

 その動かされた首といい、首を支える胴体といい、驚くくらい痩せている子だった。

 なにより夏服のような物を着ていて、防寒具など一つも付けていない。


「まず、早く病院に行こう。すぐそこだよ」


 少女を寒さからも守りたくて言うと、彼女は園田の手を握ってきた。


「ううん、雪の上に転がったからどこも痛くない。それより、寒いからお家に帰りたい」

「お家に?」

「あっちの町にあるアパートが、私のお家だよ。お家に帰ったらやらなきゃいけないことがあるの。早く、そうしないと……」


 そこまで話して、少女は真っ青な舌で同じように青ざめた唇を舐める。

 それから、園田の顔を見つめて言い直した。


「早く帰らないと、家族が死んじゃう」

「死ぬっ!」


 園田はつい大きな声を出してから、少女を改めて注視した。

 薄汚れた夏服に、がばがばのサイズが合っていない靴、マッチ棒みたいな身体に生気の無い顔……。

 

(この子、虐待ぎゃくたいを受けているんじゃないのか……?)


 街灯のせいかもしれないが、肌に血の気はなくて目も淀んでいるような気がする。

 というか、目の中に子供らしいキラキラした生気が全くない。

 園田の手を握る指も細くて、小枝か何かのようだった。


(カラスの死骸しがいのようだ……)


 園田は会社に向かう時に使う国道に、こんな感じに痩せたカラスが来ていたことを思い出していた。

 そのカラスは弁当屋の前の電柱にとまり、車のタイヤにクルミの殻を割ってもらおうとしていた。

 何度も何度も木から降りて来てはクルミの位置を変えていき、秋が過ぎ去り冬が来て最後は車に轢かれて亡くなった。

 落ちていた石で片目が潰れたカラスの死骸を見た時、園田はなんともいえない辛い気持ちになった。

 この子も、抜け出せない闇に取り込まれて……最後はこうなってしまった。

 カラスがあまりにも哀れで、園田は死骸を拾って昔鉱山だった山の方に埋葬まいそうしてきたのだった。


「ねぇ、おじちゃん。お家に連れてって」


 少女が握っていた園田の手をくいっと引く。

 園田はその手を握ってから、少女を見つめた。


「お家に行く前に、警察に行こう」


 この子を助ける為には、それが一番良い方法のように思えた。

 彼の頭の中には、車に轢かれた我が子の血にまみれた顔や、せ細って皮と骨になっているカラスの死骸が浮かんでいる。

 あんな風にならないようにするには、警察の手が必要なはずだ。


「警官はお母さんと喧嘩するからヤダ」

「……え。もう警察が来てるのかい?」

「警官だって言ってる人が、一番お母さんを殴った」


 冷えすぎた固唾を園田は無理矢理飲み込む。

 警察が、母親を殴ってる?

 もし、通報したりしたら大変なことになるんじゃないのか?


「……わかった。おじさんがお嬢ちゃんを家まで送っていく。でも、おじさんも君の家にうかがってもいいかな?」

「うん。ありがとう、おじちゃん」


 少女が初めて笑顔を見せた。

 青ざめた唇を曲げ、すかすかの前歯を見せてきた。

 歯無しの向こう、喉の奥に、底なしの真っ暗闇が浮かんで見えた。


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