第三章 暗闇の奥に引きずる者3

 家ではない場所で眠りの中に深く落ちた時、心をしばっていたあらゆるものから開放された気がした。

 だが、それはほんの少しの間だけだった。

 夢なのか、なんなのか判断できないが、紀枝を呼ぶ声がヤスリのように耳を激しくこすった。

 悲痛な叫びに似た声だった。

 

 ダァァン、ダァァァン、ダァァァン。


 声が収まり、何かがぶつかっている音が始まる。

 夢のぬかるみに細足を半分入れながら、紀枝はその音に耳をました。

 叩くような、うなるような音だ。


(ああ、これは風の音だ。わたしを怖がらせる冬の風の音だ……)


 だけれど、風が身体に当たってこない。

 いつもなら窓と窓枠まどわくの細すぎる隙間から、針を含んだような風が部屋に入り込んで紀枝を突き刺すのだ。

 でも、今日はなんともない。

 身体が優しいものに包まれていて、紀枝の身体を痛めつけてこない。


『……エ……ぇぇぇえぇぇぇぇぇっ』


 また、声が聞こえてきた。

 あの声は、風の中に混じって紀枝の耳に届くのだ。


『……の……リ、えぇえぇぇえぇぇぇぇ!!!!!』


 地の底からい上がるような、激しい声に紀枝は重い意識を引き上げてからまぶたを開けた。


『ノ、リ、エ、……のり……エェェェェェェェェ!』


 誰の声か判断しようと、病床びょうしょうの中、手を当ててさらに耳を澄ます。


(――あ……、聞こえなくなった)


 紀枝が夢から目覚めたからか、それとも他に原因があるのか分からないが、激しい呼び声は静まっている。


(誰の、声?)


 ぐに主を思い浮かべた。

 紀枝が寝てしまったから、必死に呼んでくれたんじゃないだろうか?

 だけれど、主の美しい少年の声とはほど遠い声だった。

 まるで化け物のような声だった……。

 

(違う、主は……化け物なんかじゃない)


(わたしの願いを叶えてくれる、とても素晴らしい何かだもの)


 起き上がると、病衣に包まれた紀枝の身体はクリーム色の静寂せいじゃくな病室の中にあった。

 

(……こんな暖かい場所で寝るのは久しぶり……)


 紀枝はそんなことを思って、細くなりすぎた右腕をさすりながら部屋をぐるりと見た。

 個室なのだろうか、他にベッドはない。

 室内の一面は下部が不透明のガラスになっていて、そこから廊下のふわりとした明かりが入り込んでいる。

 子供用の病室の壁には、可愛らしくデフォルメした花やミツバチが描かれていて、紀枝の粗末そまつな部屋とはあまりにも違っていた。


(最後に寝た場所が病院でよかった……。布団は柔らかいし、枕は汚れてないし……。すごくよく眠れたし……)


 そこまで思って、紀枝は急に心配になる。

 長い時間寝たような気がするけど、今は何時なのだろう?

 病室に時計がないから何時なのかも分からない。


 紀枝は枕の側を手探りした。

 母が入院していたから、ベッド周りに何があるのか知っている。

 看護師を呼び出すボタンを見つけてきゅっと押すと、一分もしない内にピンク色の看護師の服を着た若い女性が現れた。


「紀枝ちゃん、起きたのね。不安な感じはなくなったかしら? 最近は寝ていないとか、この頃は食欲もないと聞いているけども、辛いことがあったらお医者さんが……」


 紀枝は清水きよみずのように流れてくる看護師の言葉を片手をあげて拒絶きょぜつする。


「辛いことなんて無いです。早く、お家に帰りたいだけです」

「んー、それは無理かもね。お医者さんに何度も診てもらって……そして、病院のご飯を食べられるようになって。それから、かなぁ?」


 そんなの何日もかかるに決まっている。

 冗談じゃない、と紀枝は乾いた下唇に前歯を刺した。

 プチっと皮が破れる感覚がして、そこから生ぬるい血の球が産まれるのが分かる。


「あ……唇切れちゃったね。今、ワセリンもってきてあげるわ。それ塗ると、少しよくなるのよ」


 そんな時間すらもったいない。

 紀枝はじれてきて、手の甲で血を乱暴にぬぐった。


「それより、今、何時ですか?」

「もう夜よ。十時になるわね」


 家から病院まで車で一時間はかかる。

 今から支度をして戻ったら十二時前になるのだろうか?

 子供の紀枝を一人で帰さないだろうから、着くのは翌日だろうか……。


「あの、わたし、本当に帰りたいんですけど」


 内心、あせりを感じながらも静かに紀枝は訊ねた。

 焦りを表面に出したら、また何かを点滴されてしまいそうだ。


「無理して帰ったら、また倒れちゃうわ。……それに、ご飯をちゃんと食べていなかったから、身体が弱っているんですって」

「だけど、ここにいたくないんです。せめて一回帰って、また戻ってくるとかできませんか……?」


 すると看護師は、哀しそうに紀枝を見つめてきた。

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