はるかな夜の物語

第三章 暗闇の奥に引きずる者１

　明るい日差しが、紀枝に優しくさしかかる。

　だが、その日差しがさしかかっているのは、今の紀枝では無く、幼い頃の無垢な紀枝にだった。

　――これって、いつのことかな……。

　地獄に堕ちていった紀枝の意識は、過去の中を彷徨（さまよ）い歩いていた。

　――春みたいだけど、何歳の頃かわかんない。

　磨（みが）かれた丸石光る玄関の三和土（たたき）で、小さな自分が、足の親指に力こめて背伸びしながら靴棚上のガラス鉢のメダカに餌（えさ）をやっている。

『――……なぁなぁ、紀ちゃん、里菜（りな）さんは？』

　紀枝はメダカの餌の袋の口を閉じながら、スリッパを引きずってトイレから出てきた祖父に眠い眼を向ける。

『おかあさんなら、おいなり様にお水をあげに行ったよ』

『ああ、なんだかあの祠（ほこら）を大切にしているようだな……うーん、どうもなぁ』

　まだ髪の毛が真っ白になっていない頃の祖父が、困ったように生えたての髭を撫でる。

『おいなり様はお米の神様だから、お酒を美味しくしてくださるっておかあさんが言ってた。だから祈るんだって』

『それは、祠に稲荷大神（いなりおおかみ）をも奉（まつ）っているからだろうけどな。だが、あの祠の奥には……山人がいてな。目を付けられなきゃいいけどもよ。里菜さん、美人さんだから』

『やまびと？』

『まあ、紀ちゃんには複雑でわからない話だから、考えなくてもいいぞ』

『やだやだ、おしえて。やまびとって？』

　紀枝が必死になって言うと、祖父は少しだけ思案（しあん）する目となった。

『山人は、昔から……ずぅーっと昔から山にいた者のことさ』

『山に？　ほこらには？』

『ああ、今は……あそこにおる』

　ずいぶんと幼い頃にした祖父との会話が、熱で朦朧（もうろう）とする紀枝の中を駆け回っていく。

（――やまびと、やまのひと。やまびと……）

　白いカーテンで区切られた空間で、紀枝は頭の中で山人という言葉を繰（く）り返す。

　その間に、腕に針を刺され、注射器でなにかの液体を入れられ、続いて透明な袋に入った点滴の液をチューブから滴（したた）り落とされる。

　倒れた紀枝は、いつの間にか総合病院の救急外来に搬送（はんそう）されていたのだった。

（やまびと、山人……山にいる者……？）

　いくら考えてもよく分からない。

　でも、なんとなく主がそれであるような気はした。

（――主が、山人？）

　考えようとしたのに、すぅ、ぅぅぅ、うぅ、と意識が途切（とぎ）れ途切れになる。

　ダメだ、起きなければいけない。

　紀枝は布団の中で横っ腹に手の爪をギリッと食い込ませた。

（絶対、寝るもんかっ）

　紀枝は気がついていないが、今の紀枝は薬によって気分が高揚（こうよう）していた。

　だからか、もう救いが来ないという悲観（ひかん）はやわらぎ、当初の目的を思い出して心が燃え立っていた。

　どうしても今夜は裏庭に行かなければならない。

　こんな風に病院で治療を受けていても仕方がない。

　死者がいる場所から母を呼び出して、今度こそ死なねばならない。

　雪が白くないなら、白い場所から雪を持ってくればいい。

　そして、あの雪像を母の雪像を……いや、もっと優れた母の雪像を作るのだ。

（もし、お母さんを作れなくても……）

（今夜、わたし、死ぬ。温かい雪の中で死ぬ）

　それは、もう決めたことだった。

　ベッドを区切る波打つカーテンの向こうから、入院を勧める医師に祖父が困りきった返答ばかり繰り返しているのが聞こえてくる。

「先生、紀ちゃんを家に帰すことは出来（でき）ないんですか？」

「お祖父さん、あの子……どう見ても栄養失調（えいようしっちょう）気味ですよね。それに叫んだりして倒れたとなると、家に戻した時に暴れたりもするんじゃないですか？」

「いやぁ、紀ちゃんに限ってそんなことは……」

「このまま様子を見た方がいいと思います。お父さんとお母さんにも同じように伝えてください」

「……だけど、その……お義母さんの方が何というか……」

　恐らく彩が、入院させるなと口を酸っぱくして言っているのだろう。

　だが、それだと紀枝や家族の態度から、看護師や医師が、この家はおかしいと気がついく恐れがある。

　いや、もう気がついていそうだ。

　薄く瞼を開けると、細長い蛍光灯の明かりがカーテンで仕切られた空間に入り込んでいるのが見える。

　白い明かりは、昨日手に入れた希望の明かりを思い出させる。

　純白の中にある真っ赤な祠（ほこら）がくれた、死の希望――焼かれて真っ白な骨になる希望。

「お孫さんのこと、もっと親身になってくださいよ。あの子だけ、あんなにガリガリなのに家に戻すなんて――病院としては、何かかあると判断するしかないですよ」

「しかし……」

「入院させないなら通報します、と言ってるんです」

「…………分かりました……紀枝を入院させます」

　祖父が、観念（かんねん）したかのように提案を受け入れた。

　憔悴（しょうすい）していた紀枝は驚いて、カッと目を開いて振り出せる力の全てを喉と舌にこめた。

「お祖父ちゃん、わたしっ、家に帰る」

　きりっとした声で言い放つと、室内が静まりかえった。

「……いや、やっぱり、駄目だ」

　そっとカーテンを開け、祖父が暖かくて心地がよいベッドに近づいてくる。

　ここには彩がいない、父もいない。

　家族と呼べる祖父と紀枝を助けてくれそうな病院の人達しかいない。

（――わたし、今、幸せだ）

　ふっと、そんなことを考えた。

　このまま眠れれば幸せが続くのだろうけど、それでは裏庭の主の力が得られない。

　温かな雪の中で死ねなくなる。今夜が最後のチャンスだというのに！

「家に帰りたいよ、わたしが帰りたいのっ」

　告げると、祖父がしわしわの下唇を噛んでから黙り込んだ。

　それから彼は頭を振るってから、紀枝に哀れむような眼差（まなざ）しを注いだ。

「それ事態（じたい）がもうおかしいんだよ……紀ちゃん。それで、俺もすごくおかしくなっていたんだよ。少しずつ、悪い方向に考えがズラされていった気がするんだ」

「お祖父ちゃん、そんなのは……もうどうでもいいの」

「……どうでも良くない」

　祖父は艶々した手を彼女の額に置く。

　日々、日本酒を扱う祖父の手は、白くてきめ細やかで触れられると心地よい。

　真剣に酒と語らうことで、酒の恵みを受けた美しい手だ。