第二章 主が呼び出す死者の道10

 だが、今日の紀枝は彼女に恐怖心をいだかなかった。

 死ぬのだからという達観たっかんと、彩に対してのみょうな同情が心に塗り固められてきた恐怖を一気にがしていた。


「起きるの遅いわねぇ、まだパジャマのままなんて」


 鼻でわらってから、彩が言う。

 その程度だったので、紀枝は無防備むぼうびれが収まった顔を彼女に向けた。


「――…っ」


 声になっていなかったが、ひっと彩が音を出して息を飲んだように思えた。

 この地方では珍しい色黒いろぐろの彼女の顔が、灼熱しゃくねつ怒気どきにまみれてかたくなる。


「あ、あんた。あたしの美顔クリーム使ったわね」


 なんの話なのか分からず、紀枝が長い睫毛まつげ優雅ゆうがに動かして瞬きすると、彩が紀枝に向かってツバを吐いた。

 しかし、そのツバは床に落ちて紀枝には届かなかった。


「いいわ、今日は許してあげる。あんたくるったみたいだからね、これ以上、悪化されたら困るから、許しておいてあげる」


 おごった言い方をしてから、彼女は樹木に群がるコマドリ達のように、一人でけたたましく笑い出す。


「ふっ、ふっ、あの裏庭で、深夜に雪遊びして、気味が悪いったら」


 笑い声の隙間から、途切とぎれ途切れに彩の声が飛び出した。


「お母さんだって。雪にしがみついて、お母さんお母さんって、おかしいったら、ハハハッ」


 彩の言葉に、紀枝の瑞々みずみずしさを取り戻した心が、ぐしゃんっと握りつぶされた。


(昨日、見てたんだ!)


 羞恥しゅうちが顔をれさせ、彼女の喉にコルクよりも固いせんをする。


「おかあさーん、おかあさーんって、バッカじゃない」


 彩は太鼓腹たいこばらを抱えてわらい、そのまま床に崩れて子供のように寝そべって声を上げて転がった。


「アハハハ! いい年して恥ずかしいったらないわねっ」


 みにくたるがごろり、ばたりと動き回る。


(せっかく、同情したのに……)


 紀枝の中に、広がったばかりの同情をなぐつぶす怒りが湧き上がる。

 しかも、それは以前のような「死んで欲しいな」という後ろ向きな呪いの感情ではなかった。


(――この女を殺したい)

 

 一瞬、そう考えてから紀枝は己の両頬を己の両手で叩く。

 

 ――バシン!


 その音は思っていたより大きく響き渡り、嗤い続けていた彩の声が止まる。


「な、なにしてるの、あんた。自分で自分を……なにしてんの……」


 初めて彩が、傲慢ごうまんな女王のような態度たいどを崩した。

 しかし、それは一瞬だった。

 彩は紀枝の顔をまじまじと見るとクッと喉を鳴らして笑った。


「そっかぁ、狂ったんだもんね」


 新しい遊びを発見したかのように、その瞳に好奇心こうきしんが灯っている。

 こういう表情をした翌日に、彩は残酷ざんこくなゲームを開始することを紀枝はよく分かっていた。

 でも、それすら、もう関係がない。


「……着がえなきゃ。パジャマのままだもん」


 紀枝は小さく次の行動を口に出してむくっと立ち上がり、台所を出て行く時、少しだけ彩の化粧確認用に掛けられている外国製の高そうな鏡に目を向ける。

 叩いた頬に、真っ赤な手形がついている。


(いいや、どうせ死ぬんだから。今夜、お母さんを呼んで、お母さんに抱かれて死ぬんだから……)


 それだけが、紀枝の支えだ。

 残されている希望だ。


「ネェ、紀枝。あの雪の像、みっつ、気味悪いからこわしたわよ」


 戸が閉まる直前の彩の一言で、紀枝の心は無惨むざんに叩き壊れた。


(三つの……像……壊した……)


 れあがった負の感情が頭の中で弾け飛び、目の前が真っ暗になってから、視界がチカチカとして目の周りが熱くなり、振り返った際に視界に入り込んだ彩がゆがんで、波打って、床の上にどろどろと流れていく。

 ふくらはぎにくいでも刺されたかのように、それによって空気が抜けていくかのように、紀枝の足がくたりと曲がって廊下に落ちた。

 彼女は、やっと手に入れた希望がわずかでも残っているのを確認するために、つんいになってひざを擦りつけながら玄関に進んだ。


「なによ、紀枝……っ」


 彩が、尋常じんじょうではない紀枝を見て飛びよける。

 紀枝は、それでも膝を擦りながら前へ前へと進んでいった。


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ!」

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