第二章 主が呼び出す死者の道9

 ぼそっと紀枝は残酷ざんこくな事実を呟いてから、「わたしは、彩に殺されなかっただけ良い方だ」という考え方をした。

 変にすがすがしい気分になって、紀枝は歯を磨き、顔を洗い、ごわごわなはずの髪にブラシを入れた。

 すると、黒髪がするりとブラシを通り抜けていく。

 よくよく鏡を見ると、顔や手だけではなく、髪も昔のようにつややかに戻っていた。

 昔のようになりたい、昔に戻りたい……たった数年前のことなのに、ずっと紀枝は思っていた。

 だが、実際にそうなっていくと背骨に画鋲がびょうを刺されるような怖さが湧き上がる。

 たった一晩で、姿だけでも元に戻っている。

 もし、この姿を彩に見られたらどうなるのだろう。

 母に似ている紀枝を、見られる姿になった紀枝を、しっかりと成長している紀枝を、彩は殺したいと思うはずだ。

 そこまで考えから、紀枝は当初とうしょ目的もくてきを思い出した。


「わたし、死にたいんだった。――……生きていたってどうしようもないから」


 昨日の彩の言葉をみしめるように呟いて、紀枝は薄い胸に手の平を当てた。

 小さすぎる春物のパジャマの奥、心臓の音が振動になって手に伝わってくる。

 この音を、これを、止めたかったのだ。


「もう、いいや。なんでもいいや。もう一度、お母さんに会えるんなら、死んでも、生きても、どっちでもいいや。今夜、昨日の雪像せつぞうを直してお母さんを呼ぶんだから」


 紀枝は髪を一つに束ねると、底が擦り切れた靴下の足をペたぺたと鳴らしながら台所へ向かった。

 彩が朝ご飯を用意してくれるなんて思ってはいない。

 そういう期待をしたのは、彩が嫁いで来てから三日間だけだった。

 

 台所に行って、いつものように角砂糖を一つ口に放り込む。

 その甘さに気持ちよさを感じながらポットの湯を湯飲みに注いだ。

 手入れがされずに油が粘りつくガスコンロの前でしゃがみ、湯を一口二口飲みながら……冷蔵庫に食べても良い物があればいいな、と紀枝は考える。


 紀枝が食べて良いものは、本当にかぎられている。

 父が残したつまみ、祖父が善意で入れてくれるお菓子、彩が嫌いな酒粕さけかす……そういう料理とも言えないものと給食で彼女は生きていた。

 湯を飲み終えてから、冷蔵庫の扉を開けると紀枝用のプラスチックの容器に手を伸ばす。

 何も入っていないことすらある、その容器はいつもより重たかった。

 容器の青いふたを開けると、中に大きなクッキーが入っている。


「……っ、クッキーだ」


 あまりのことに紀枝は声を上げて、奥歯をかみしめた。

 ずっと食べたかった普通のクッキーが綺麗きれいに並んでまっている。

 祖父の達筆たっぴつが流れる紙がえられていて【祐子ゆうこおばさんから紀枝へ】と書かれていた。

 祖父宛に紀枝へのプレゼントが届いたのだろう。

 兄の嫁になった彩に気を遣って、叔母はいつもこんな風にプレゼントを贈ってくれる。

 それでも、見つかったら彩に取られてしまうのだが、今日は運良く残っていた。


「死ぬ前に、クッキーが食べれる……」


 きしむ床に腰を下ろして、ホワイトチョコが混じったクッキーを頬張ほおばると、角砂糖でしか得られなかった甘みが舌の上に広がった。

 バターがたっぷりと入った生地きじとホワイトチョコ……それにアーモンドの味。

 久しぶりの幸せに、緊張きんちょうし続けていた紀枝の心が溶けていく。

 クッキーは八枚もある。

 いつもなら、明日のために、さらに翌日も生きていくために保存しておくのだが、もう死ぬのだからそんなみじめな真似まねはしない。


「ありがとう、神様」


 生きていたって意味がない。

 おじいちゃんの酒蔵に入るのは彩の子だから……。


 一瞬だけ感じていたお菓子の美味しさが、無味になる。

 砂の溜まりに齧り付く気分で、紀枝はクッキーをむさぼった。

 ジャジャリと小麦粉の固まりが舌の上に広がって、急激きゅうげきに喉をかわかす。

 紀枝は湯を飲みながら、今日、お母さんとどんな話をしながら死のうかと思いを巡らせた。

 それは、とても素敵すてきな妄想で、彼女の唇には笑みが浮かんだ。


(わたしの舞踏会ぶとうかいは、天国にあるんだ)


 浮かれた気分でいると、離れた場所からギィ、キィと木がきしむ音が聞こえてくる。

 古民家を改造して使用している紀枝の家は、人が歩くとこのような音が鳴る。

 そして、ここまで大きな音を鳴らすのは、贅沢ぜいたく太りしている彩だけだった。

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