第二章 主が呼び出す死者の道7

「……お母さんっ」


 紀枝のりえはサッと指を母の首から離して、帰ってきたはずの母を見た。

 ひたいの方から純白に、雪に戻ってきている。

 母は紀枝にすがりつくように、ぎゅっと抱きしめてきた。

 紀枝の背に、母の爪が深く食い込んでいく。


『離れろ、紀枝。失敗だ』

「いやだ、お母さんが戻ってきたんだもんっ」

『早く離れろ、今ならはらえる。離れなければ、母親が悪霊化して何かを失うぞ』

「失うものなんて、何もない!」

『お前の祖父が死ぬだろう!』


 主の言葉に、紀枝は喉の奥を鳴らした。


『失敗すれば、作り手の一番大事なものが奪われる。だから、お前の祖父が死ぬ!』


 助けてくれない祖父とはいえ、あの家族の中では一番愛している。

 こんな状況に置かれている彼女に、唯一、優しい言葉をかけてくれる人だから。


 愛犬のきりが、紀枝を助けたいのか、ボロいセーターの裾を噛んで懸命けんめいに引っ張っている。

 昔持っていたぬいぐるみに似た兎も、紀枝を助けたいのか周りを跳ね回っている。


 どうしても、母から離れなければならないのだ。

 なぜなら、祖父が死んでしまうから。

 それは、今よりも紀枝を苦しめることになるだろう。


 昔、紀枝を愛してくれた母。

 今、紀枝に声をかけ続けてくれる祖父。


 心臓が、哀しみという重い刃物で切りかれる。

 再び、深夜の泥沼のような闇よりも暗く底が知れぬ絶望ぜつぼうが紀枝を飲み込んだ。


「……は……な、して」


 お母さん! と心の中で絶叫して彼女は両手に力を込めた。

 雪に返っていく母の身体を突き放し、足を力ませて抱きつく腕からざばっと抜け出す。

 すると簡単に母の腕がもげ、細い丸太のように転がった。

 バシャンと大量の血を浴びた感覚がし、同時に折れた腕の断面だんめんに、千切ちぎれた皮と赤い肉と突き出た白い骨を見た。

 われに返って母の身体を見ると、両手を突いた場所も破壊されて血を吐き出す赤黒い肉の塊になっている。

 だが、それが見えたのはほんの一瞬であった。


「の……り、……え」


 雪に戻りつつある母の身体は、人が持つものを失って、白の中の白へと急速に変化していく。

 ただの雪の固まりになっていく。


『葉山里菜、黄泉よみへ帰れ、雪にかえれ、黄泉へ帰れ、雪に還れ』


 り返される主の声が、震える紀枝の耳に届いた。


(――ああ、お母さんがいなくなった。せっかく、来てくれたのに。わたしのところに、来てくれたのに!)


 紀枝は、両手で耳を覆うように己の頭を鷲掴みわしづかみにした。


(やっと、やっと、やっと会えたのに……お母さんが……お母さんがまた死んじゃった!!)


 頭皮に血がにじみ出るまで爪食い込ませ、目をひんき、口を歪ませ、喉を震わせ、髪で雪を打ち払うように頭をふるった。


「……はぁ、ぁっ、ぁっ」


 泣きたいのに、息しかれてこない。

 もう駄目だめだ、もう駄目だ、楽しい死なんて望めない。

 自分は、この巨大な絶望の結晶の中で死んでしまうのだ。


『もう、夜が明ける。おれの力が弱まる。だから、お前を楽しく死なせることができない』


 主の声が、耳にかぶさる手を通り抜けて頭に響いてきた。


『だが紀枝よ、また夜が来たら壊れた場所を直して、やり直せばいい』


 その言葉は、先の見えぬ漆黒しっこくの中、道を照らす明かりのように入り込んできた。

 何も見えなくなった紀枝の前に、薄ぼんやりと未来に続く道が見える。


「やり直せる……?」

『そうだ。神無月かんなづきの夜なら、おれはお前に最大限の力を貸せる』


 神無月の意味が分からなくて、紀枝はそぉっと耳から手を外した。


「あの……それって、いつまでなの?」

『明日の朝までだ。今寝て、起きて、夜から朝までの間ならおれは動ける。お前達の新暦とは違う感覚で、おれたちは動いているからな』


 神が出雲に向かっていなくなる月が神無月だと言うことを、紀枝は知らない。

 ただただ、主だけが自分を救ってくれる者だと信じているのだった。


「じゃあ、またやれるのね?」

『そうだ。坂の方の神社にお前達が言う稲荷大神が帰ってくるまでの間なら、おれは力を貸せるぞ。それが過ぎたら、いつものように眠るだけだ』


 まだ、できる。

 また母を呼べる。

 これは童話とは違う。舞踏会の日は一度きりじゃない。


 主の言葉に深いものを感じず、紀枝は顔を上げた。

 手前にお札が倒れた真っ赤な祠の奥に、何者かの眼球がんきゅうが見えた。

 丸い白の中に、石榴ざくろの酒を一滴落としたような朱赤の瞳。

 よく確認しようと前のめりになった瞬間、裏庭を照らし出していた金色の枯れ葉が祠の中に吸い込まれていって眼球を覆い隠す。


『夜になったら、来い。また遊ぼう、遊ぼうな、夜に』


 祠が、ほぉほぉと銀の光を吐き出してから静かになる。

 朝が来たのだろう。

 だが、冬の夜明けは遅くて、裏庭はどんよりと暗い。

 周囲は陰影いんえいでしか判断できなかったが、いつの間にか温かな雪山が消えているのは分かった。

 そして、いつの間にか壊れた母の雪像の横で、桐も兎も雪に戻って固まっている。

 楽しい時は、終わりを告げたのだ。


「……また、ここで遊ぶ。また、お母さんを作るね」


 紀枝は祠に向かって手を合わせ、落ちていたお礼をこめて頭を下げた。


 だけれど、その願いすら無惨むざんに砕かれてしまうのを、期待で思考を止められた彼女は気がつきもしなかった――。


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