執着の果てに成仏なし

古 散太

執着の果てに成仏なし

 山の中腹にある駐車場に車の姿はない。周囲と中心に、まばらに設置された街灯の光が、逆に夜の闇を深くしている。

 風光明媚な観光地として、昼間なら人出が多い。しかし夜ともなると、誰もが想像できる不気味な空間に一変する。一昔前まではいろいろな宗教の修行者が出入りしていた山。いわば霊山だが、今は誰もが自由に行き来できる観光地になっている。

 周囲は深い森に囲まれていて、ここに来るには、そのためだけの一本道しかない。今、その道をヘッドライトの光がひとつ、駐車場に向かってくる。

 ヘッドライトの光がすぐにその全貌を見せる。街灯に照らされた姿はヤマハ製の四〇〇ccのバイク。シンプルなデザインのいわゆるネイキッドと呼ばれるスタイル。後部シートには革のサドルバッグ。赤と白のヘルメット、えんじ色のライダースジャケットに黒いデニム、バイク用の赤茶色のショートブーツ姿。リュックを背負っている。

 深くも乾いたエンジン音を響かせながら、バイクは駐車場の奥にある、公衆トイレの前までまっすぐ走る。その前でサイドスタンドを立ててエンジンを切ると、元の静寂とも沈黙ともつかない静かな音の闇が、駐車場を支配する。

 公衆トイレのわきにも街灯があり、さらにトイレ自体の照明が外に漏れ出し、周囲よりはいくらか明るい。その前でバイクを下りたライダーは、すぐグローブとヘルメットを脱ぎ、シートの上に重ねて置く。一瞬、まわりの様子を伺って誰もいないことを確認すると、あわてた様子でトイレに入っていく。

 しばらくすると、ハンカチで手を拭きながらトイレから出てくるライダー。外の街灯の下に立って、周囲を見回している。二〇代前半の細身の男で、中背。やさしい印象のあるやわらかい表情の顔。真ん中で分けた素直な髪が軽く目にかかっている。その目が何かを気にするように、周囲に視線を送る。

 街灯の真下とその周囲ぐらいが明るいだけで、駐車場の広さを考えると、九割以上を暗闇が支配している。

 「真っ暗」

 呟きながら、バイクに戻ろうとしたとき、ふと駐車場のトイレより先のところに立てられた白い看板が目に入る。

 「看板?」

 ライダーは看板に近づいていく。

 トイレを過ぎて一〇メートルほど先には、さらにその先への道があるようだが、そのあたりから先は、高さ二メートルほどのフェンスが続いている。その道の入り口、左側に白地の看板がフェンスにぶら下げてある。

 看板に近づくにつれ、なぜか寒気を感じている。近づけば近づくほど、寒気が増していく。

 「寒い。やっぱり夜の山って冷える」

 そんな独り言も、音の暗闇を照らすには至らず、さらに闇を深くする。

 看板の前に来ると、ライダースジャケットのポケットから、一〇センチほどの長さの懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。

 看板には赤く太い字で「夜間通行禁止」と書かれている。字自体は大きめに書かれているが、年月のせいかほとんどかすんで、近づかなければ読むことができない。

 その文言を頭の中で反芻し、「なぜ?」という疑問が脳内を駆け巡る。

 ライダーはライトの光を通行禁止の道に向ける。左右にフェンスの壁、その外側は完全な暗闇。おそらくコンクリートで造られた道が、そのまままっすぐ続いているよう。あまりに先が長いのかライトの光が届かない。橋のようにも見える。

 「あの先、どうなってるんだろ?」

 口から出た言葉とは裏腹に、体は「行くな!」という警告を発している。本能的な危機察知能力が、全力でライダーを止めようとする。それが分かっていながら、足を止めることができない。それと同時に、頭のどこか隅のほうで「行かなければ」という思いとも声ともつかないものがこだましている。

 そのまま、コンクリートの道に足を踏み入れる。

 看板のあるフェンスを過ぎると、全身を駆け巡る寒気は悪寒に変わる。全身の毛が総立ちになり、ストレートの髪すら立ち上がりそうになる。それでも自分の意思で足を止めることはできない。それどころか自分とは違う思考が脳内を侵していく。

 「その先へ、その先へ・・・」

 ライダーの意思とは無関係に言葉となり、闇の中に散布される。

 誰かの意思ではなく、数多くの意思がライダーの中へと侵入してくる。自分の意思はすでに奥深く、さらにその奥へと沈められる。

 コンクリートの道をふらふらと歩いていく。他人が見れば、まるでマリオネット。上から糸で吊られて動かされているようなぎこちなさ。すこしずつ近づいてくる水の音。残りわずかな自我が気づく。

 口から出る言葉は「その先へ、その先へ・・・」

 ライトの光が届かなかったエリアに入ると、足元は山肌となり、多くの人に踏みつけられて固くなっている。ここまで来るとはっきりと水の音が聞こえる。

 登山道は左右に道が分かれていて、ライダーは自分の意思とは関係なく、右の道へ進む。すぐに登山道から外れ、草むらの中へと足を運ばされるライダーには、もう抵抗する意思もなく、されるがまま。

 草むらを分け入ること数十秒。目の前が開けると、そこは崖。崖の向かいには、八階建てのビルほどの高さの細い滝。下に見える滝つぼは小さく、その周囲には大きな岩がごろごろと転がっている。

 ライダーはほとんど消えかかっている意識の中で「やめろ、やめろ」と繰り返し叫ぶ。しかし実際は、足がすこしずつ前進を繰り返している。歩くというより足がずらされて前進している。その一歩は数センチに満たないかもしれないが、確実に崖に向かっているのが分かる。ライダーは必死に抵抗を試みるが、ほとんど奪われた意識の中で、その意志は薄っぺらく、儚い。

 またすこし、また数センチと、前進する。ライダーの顔からやさしさや柔和さは消え失せ、目が吊り上がり、まるで別人。時折浮かび上がる表情はまるで女性のようにも見える。

 抵抗の意思はないがしろにされ、爪先はあと三〇センチで崖の先端からはみだす。周囲は森、時刻は夜。今さら叫んでも暴れても、誰にも気づかれることはない、そう悟ると、ライダーはあきらめの思考に支配されていく。

 また数センチ、足が引きずられる。上半身はなんとか逃れようともがいても、目は血走り、口元はニマニマと笑い、その表情には狂気があふれている。

 足が最後の数センチを踏みだし、爪先が崖の外に出る。自分の中の一パーセントにも満たない意思が、まぶたを閉じる。

 もう一方の足がじりじりと前へずれる。足の裏に感じる砂利の感触。すこしずつ、足が前へずれていく。

 崖の縁から両足のつま先が出た瞬間、ライダーの体はふわりと空中に浮かぶ。それは強い力で背後へと引っ張られていく。ライダーの口からは甲高い悲鳴が吐き出されるが、闇と水の音に飲み込まれていく。

 数メートルほど空中を舞い、すぐに地面に叩き落とされる。

 「うぅ」

 ライダーが唸る。体の左側から地面に激突したせいで、左の肋骨に強烈な痛み。それが急激に全身へと伝わっていく。

 「痛ぇー」

 「大丈夫ですか? 危ないとこやったぁ。危機一髪ってやつでしたね」

 痛みを抑えようと左の肋骨を右手で抑える。今のはたしかに他人の声。それは頭の中ではなく耳から聞こえている。なんとか視線を動かす。

 左に向いて倒れているライダーの背後に、網代笠を被り、法衣をまとった男が立っている。

 「どっか痛みますか?」

 「左側が・・・」

 「まぁそっちから倒れましたからねぇ。それでも崖から落ちてるよりは痛くないと思いますよぉ」

 網代笠の男は、そう言って笑っている。

 「まぁ何にしても、ここはちょっと濃いめですから、場所を変えましょか。どうです立てますか?」

 網代笠はそう言うと、ライダーのわきに手を入れてゆっくりと立ちあがらせる。痛みはあるものの、ライダーもなんとか動けそうなことを理解する。

 「こっちです。もう大丈夫ですよ。安心してくださいね」

 ライダーの足の運びを確認しながら、ゆっくりと草むらを後にする。

 登山道に出ると、網代笠の男はライダーが来た道を戻っていく。橋を渡ったすぐのところの分かれ道。先ほどライダーは右へ連れていかれたが、網代笠は左に向かう。

 左の道に入るとすぐに、街灯で照らされた東屋のような休憩スペースが見える。網代笠はそこのベンチにライダー寝かせる。隣のベンチに網代笠も腰を下ろし、網代笠を脱ぐ。きれいな剃髪された頭。

 「いやぁ、大変な目に遭いましたねぇ。なんでまたこんな時間に、こんな所へ?」

 陽気な声としゃべり方に、ライダーの心がすこしずつ自分を取り戻していく。

 「駐車場のトイレ、あそこに寄っただけです。気づいたらここにいて・・・」

 左の肋骨を押さえたまま、なんとか答えるライダー。

 「ここは夜に来ちゃダメなんですよ。とーっても危ないところです。

 あ、申し遅れました。私、旅の修行僧で、青野利雪(あおのりせつ)と申します」

 利雪は合掌し頭を下げる。

 「僕は佐倉雅人(さくらまさと)です。僕も旅の途中でした」

 「ほぉ、旅ですか。旅はいいですね」

 「いまは大学が夏休みなので、バイクで一人旅の最中です」

 佐倉は、ろっ骨を押さえたまま、なんとかベンチに座る。

 「で、さっきのはなんです? 青野さんが助けてくれたってことなんですか?」

 ほほ笑みを浮かべる利雪。

 「助けたのは私ですね。おひとりであんなところにいたら、僧侶としてというか、人としてはやっぱり放っておけません。さっきのは亡くなった人の思いがこの世に紛れ込んだ、ということです。で、青野ではなく利雪て呼んでもらえます? そっちのほうがしっくりくるもんで」

 「はぁ・・・で、分からないんですが」

 「そうでしょうねぇ。幽霊とか信じませんか?」

 「ないですね。見たこともないし」

 「では佐倉さんが見たことがないもんはこの世には存在しない、ていうことになるんですか?」

 「いや、そういうわけではないですけど」

 訝しみの目で利雪を見る佐倉。

 「まぁ実際のところ、ほとんどの人が宇宙に行ったこともないし、深海一万メートルの風景を肉眼で見たことはないわけです。F1マシンの最高速度で走っているときの風景も、カーネギーホールの舞台からの客席も直接見たことはないわけです。見たことがないから存在しないは、かなり乱暴なお話です」

 「でも科学的に存在しないと言われてるじゃないですか」

 「自然科学いうのは、まず現象があり、それを研究や観察、実験などによって、誰が見ても、体験しても、かならず同じ結果になるということを論理的に説明できるもののことを言います」

 「はい」

 「では、研究や観察などがなされていないものってどうなるんでしょう? 心霊現象って誰が研究してます? ポルターガイストをどこがまじめに観察してます? 誰もやってへんのです。それなら肯定も否定もできへんと思いませんか?」

 「たしかに」

 「それにね、霊的なものは、感性というか才能というか、そういうものが磨かれていないと体験することは難しいんですよ」

 「だから科学的ではないと言われるんじゃないですか?」

 「そうなんですよぉ。個人的な体験とかになりますからねぇ。

 でもね、そんな理由で否定するとなると、目に見えへん人生や心、愛なども否定することになりませんか。事によっては宗教がひとつ吹っ飛びますけど」

 「たしかに」

 「科学いうのはね、物質か数字に置き換えられるものにしか通用しないんです。物質ではない愛や心いうのは、科学で観察も計測もできません。計測できへんから存在しない、ということでもないですよね?」

 「そうですね。言われてみればたしかにそうです」

 背中に背負っている風呂敷を太ももの上に置いて、利雪は丁寧に風呂敷包みを開けていく。四角い木箱が見える。その陰になっているところから、缶コーヒーを一本手に取り、佐倉に差し出す。

 「缶コーヒーって飲まれますか?」

 「あ、は、はい」

 佐倉の太ももの上に缶コーヒーを置く利雪。

 「味の好みは勘弁してください。今はこれしかないんです」

 肋骨の痛みが引いてきた佐倉は、缶コーヒーを手に取り、プルタブを引き開ける。

 「じゃ、すみません。いただきます」

 「どうぞ、どうぞ」

 ご機嫌な様子の利雪も、缶コーヒーを手にしてプルタブを引き開ける。

 「でもね・・・」

 手にした缶コーヒーを見つめたまま、佐倉が話しはじめる。

 「さっき、僕が体験したことはまぎれもない事実であることは理解しています。錯覚や勘違いではない、明らかに僕とは別の、いや誰かって言うべきかな、そんな意思が入ってきたのは間違いないと思います」

 一口飲んでから、利雪はほほえみを浮かべる。

 「それが分かってれば、大丈夫ですよ。たしかに別の意思が入ってましたから」

 「そういうことってあるんですね。僕はもうすこしで死んでいたんでしょうか」

 「そうなりますねぇ。私もぎりぎりでしたしねぇ」

 「いったい何が起こってたんですか?」

 まだいくらか体の左側に痛みを感じるが、それよりも好奇心が勝ち始めている。

 「そうですねぇ・・・」

 コーヒーをもう一口飲み、「ふぅ」と呼吸を整えると、利雪は語りだす。

 「前提として、人の魂はすべてに繋がっているということにしといてもらえますかねぇ。説明すると長くなるんで。

 まず、先ほどの滝のある崖は、何人もの人が身投げをしているようです。たぶん調べれば事実が出てくると思います。根源はもっと古い時代だと思いますけどね。

 一般的に人は亡くなると、ある程度の期間、この世に存在しますが、その後はいわゆる成仏ということになります。魂の親玉のところに戻るんですね。自発的に理解できる人もいれば、誰かが案内してくれることもあるようです。

 自発的に理解できる人というのは、生前から死後について学んだり、天国やあの世があると、わずかでも信じてる人ですね。案内がある場合は、そこまであの世的なものを信じてなくても、否定をしていない人たちです。ご先祖さんなどがお迎えに来られるようです。それを天使と感じる人もいるみたいですね。

 自我が強い人ほど、この世への執着が強くて、成仏に至りにくい傾向があります。そういう人たちは生前から、あの世的なものを強く否定してたり、死に対する怖れが強すぎたりします。強い否定も、ふたを開ければ死への恐怖なんですけどね。とにかく死が怖くて、死んでるのに死にきれないというパターンが多いみたいですね。アンケートを取ったわけではないので、私の体感ですけど」

 「アンケートってできるんですか」

 「できません。

 それでね、自殺する人の多くが、セカンド・ディスペアって言うて、二度目の絶望をするんです。ひとつめはこの世に対して。嫌なことやつらいこと、苦しいことが積み重なって耐えきれない、「なんて世だ!」ってことでしょう。そして、いざ自殺を実行するとき、たとえば高いところから飛び降りるという方法を選択した人の場合、身を投げたあと、落ちていく途中に考えるんです。『もしかしたら他のやり方があって、それなら上手くいったかも。自殺なんてするんじゃなかった、飛び降りるんじゃなかった、早まってしまった』って。これがふたつめの絶望です。このときはもう落下中なので止められません。

 世をはかなんで自殺をする、その途中で考えが変わる、もっと生きていたかった、という流れで、この世への執着が生まれます。

 先ほど申しあげたとおりですが、執着の果てに成仏なし、ということなんです。

 成仏できない人というのは、自分が死んだことを理解してません。この世への執着から、『自分はまだ生きてる』と言い張るような感じです。そうなると、生前の記憶を元にこの世にその意識が残ります。生前の記憶と言っても、自殺に至る記憶を含んでいるわけですから、苦痛があり、また自殺を目指します。

 自殺の名所というのは、同じ人が何度も自殺を繰り返してます。実話の怪談などでもそういうお話があったと思いますけどね。

 何度も自殺を繰り返したところで、自分の記憶がすべてですから、生前のつらさや苦しさが変わることはありません。このつらさを知ってほしい、分かってほしいという思いが生まれます。これは生きてる人でも同じですね。吐き出すとすこしは楽になるって言いますよね。肉体がないと言っても、その意識や精神性は人間のままですから、そう考えても不思議ではありません。

 そういうとき、ちょうど波長の合う人、語弊があるかもしれませんが、馬が合うとか気が合う人っていうのが近くまで来てくれたら、『話を聞いてよ、こんなに苦しいんだよ』と、無関係の波長の合う人にその苦しさを伝えようとします。一般的に言うところの『憑りつく』ってやつです。で、その被害に遭われたのが、佐倉さん、あなたです。

 こんな感じで伝わりますかね?」

 佐倉は利雪から目が離せないまま、話を聞き終える。肋骨の痛みすら忘れている。

 「じゃあ僕は、波長が合っただけ、ということですか?」

 コーヒーをゆっくり飲んでから、利雪は答える。

 「そうですね」

 「そんなにピンポイントで波長って合うものですか?」

 「ネズミ算やないですけど、そうやって次々に巻き込まれる人が増えていくわけですからね。もちろん元は別々の人格ですけど、増えていくにしたがってだんだんチームみたいになっていくんですよ。チームになれば目的はひとつになりますよね。とは言え、そこにある感性や性格みたいなものはバリエーションが増えていくだけですから、その中の誰かと波長が合ってもおかしくはないですよね」

 「うーん」

 缶コーヒーを太ももの上に置いたまま、佐倉はうつむき考え込む。

 今まで幽霊など信じていなかったし、信じていないから興味もない。そういう生きかたをしてきて今さら、急に目の前に現れるのは理解もできないし対処にも困まる。いまだ、自分の身に何が起こったのか、理解しているとは言えない。

 「こんなことはめったに起こることではないですから。テレビとかで幽霊が関わる話って、こんなことばっかり起こってるように放送されますが、そんなことはありません。ニュースでもそうでしょ? 日本中の犯罪とか事故とかを集めて、凝縮して放送するから、日本がひどく危なく見えちゃうんです。

 佐倉さん、あなたはひったくりやコンビニ強盗の目撃者になったことあります? ないでしょ? ほとんど人がないはずです。やたらめったら事件が起こっているわけではないですからね。

 幽霊というとおどろおどろしいイメージがありますが、そんな人、そこら中にいるわけやないですから。ほとんどは身内や、親友や恋人などです。ときどき、見知らぬ人と合うこともありますが、佐倉さんも見知らぬ人をたくさん見てるでしょ? あれと同じです。

 ま、難しく考える必要はありませんよ。ところで、すこしは落ち着きましたか?」

 利雪を見つめたまま固まっていた佐倉。

 「え、まぁ。すこしずつ自分を取り戻しているような感じです」

 「それは良かった。で、このあとどうします?」

 「こんなとこにいつまでもいられませんよ。すぐに山を下ります」

 「それが賢明ですね。私はいまから先ほどの滝の方たちと、すこしお話をしようかと思ってます」

 「先ほどの方?」

 「はい、佐倉さんを連れていこうとした方たちです。こんなことを続けても何も変わらないということをお伝えしようかと思って」

 「大丈夫なんですか? っていうか利雪さん、あなたは何者なんですか?」

 開いた風呂敷を元通りに丁寧に包み、背中に背負う。

 「見てのとおり、旅の禅僧ですよ。そう言うと聞こえがいいですけど、寺を追い出されて仕方なく旅してるんですけどね」

 はにかむような笑顔を見せる利雪。中年のおじさんのはにかみ、その不気味さにすこし引き気味でうつむいてしまう佐倉。

 「追い出された・・・ところで、どうしてここに?」

 佐倉がうつむいたまま言う。

 「寝場所の確保です。基本的には野宿ですけど、数日前に山のふもとの町で、その日知り合った、高齢のご婦人の家に泊めていただいて、それ以降はずっとその辺で寝てるんです。この時期、蚊にも襲われますし、寝心地も悪いですから。それでふと、この山にあるお寺に宿坊があったことを思い出して。まぁ結局は廃寺で宿坊も無くなってましたけどねぇ」

 いいアイデアを思いついた佐倉は顔をあげて利雪を見つめる。

 「もしよかったら駐車場に僕のバイクと予備のヘルメットがあるので、ふもとの町に戻りませんか。何だったらその先の町まで行ってもいいですけど」

 顔がきらめく利雪。

 「本当ですか、それはとても助かります。すこし汗臭いかもしれませんし、こんな身なりですけど大丈夫ですか?」

 「えぇ、全然。利雪さんは命の恩人じゃないですか」

 「そう言っていただけるとありがたい。佐倉さんがよろしければお願いします」

 利雪は立ち上がり、滝のほうを見つめる。

 「ただ、すこしだけ時間をいただけますか? 滝の人たちを供養させていただきたいので」

 そう言う利雪の目は、先ほどまでの柔和な印象が消え、とても厳しく鋭い目に変わっている。そんな利雪を見上げる佐倉。

 「僕はもう大丈夫なんでしょうか?」

 「念のためにこれを持っていてください」

 利雪は手首に巻いていた数珠を外す。一〇八個の玉で作られた、円周三〇センチほどの数珠。それを佐倉に渡す。

 「手首にでも付けといてください。それでOKです。時間は一五分ぐらいですかね」

 右の手首につけた数珠をじっくりと見つめる佐倉。

 「利雪さんは大丈夫なんですか?」

 「どうにでもなりますよ・・・たぶん。それよりも佐倉さん、おひとりで駐車場まで行けますか?」

 軽く左のわき腹をさする佐倉。

 「えぇ、大丈夫です。まだすこし痛みますが、これぐらいなら」

 「そうですか。それは良かったです。それでは後ほど、駐車場で合流しましょう」

 「はい。利雪さんもお気をつけて」

 「ありがとうございます。では」

 頭を下げてから利雪は、東屋を離れて滝のほうへ向かって歩いていく。その後ろ姿を見送る佐倉には、例えるなら、豪気さや真の強さをまとった名のある戦国武将のように見える。その背中が語る安心感はやはり只者とは思えない。

 しばらくして立ち上がり、駐車場に向かう。佐倉は来た道を戻り、フェンスに囲まれた橋の途中で、背後から「かーっ」という声が聞こえて振り返る。

 森の中が一瞬、強烈な閃光で輝く。橋の中ほどで振り返ったまま、動けない佐倉。

 いま目の前の風景から、フィルターが一枚、かすんで消えていく。橋の街灯しか照明はないが、明らかに森の緑色からくすみが取れていく。あるいは霧が晴れていくように、暗いながらも鮮やかな緑色がよみがえっていく。

 森の上空に白いもやが浮かびあがる。それは自由自在に動きまわる。舞を踊っているようにも見えるが、のたうち回っているようにも見える。それもすぐに霧散していく。

 「なんだよ、これ」

 自分の目にしたものが信じられない佐倉。しかし悪寒や怖気はなく、よく分からない安堵を感じて、肩の力が抜けるていくような気がする。

 バイクのところまで戻り、しばらくすると橋の向こうから、法衣のシルエットが、大きく手を振っている。

 「佐倉さーん、お待たせしましたー」

 利雪が意気揚々と橋を歩いてくる姿が、街灯に照らされる。

 「大丈夫ですか?」

 声を張る佐倉。

 「もちろんです。それよりも、私、バイクって始めてなんですけど大丈夫でしょうか。すっごく怖いんですけどー」

 佐倉は苦笑する。

 利雪が橋を渡りきり、佐倉の前までやってくる。

 「滝の方たちよりは怖くないと思いますけどね」

 「あーたしかに。そうかもしれません」

 二人は大きく笑う。

 佐倉はサドルバッグから予備のハーフキャップタイプのヘルメットを取り出し、利雪に渡す。

 利雪は素直にそれを被り、佐倉が顎にかけるベルトを締める。

 「それじゃあ、ホテルでも探しましょうか」

 そう言うと佐倉もヘルメットをかぶりグローブを履く。バイクにまたがってエンジンをかける。

 「しかし佐倉さん、まるで私を迎えに来てくれたみたいですね」

 「今夜のことは思い出したくないので、そういうことにしておきましょう。で、滝の方たちは?」

 「もう大丈夫です。皆さん納得して向こうへ旅立たれましたから。すこし強引になってしまいましたけど」

 「とりあえず、それは良かったですね」

 フルフェイスのヘルメットの中で、いまだにうまく理解できないままほほ笑む佐倉は、背後にご機嫌な利雪を乗せて、バイクをスタートさせる。

 峠道に光の点が遠ざかっていく。


     完

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