2. 劇場

 それで僕は、映画館というものに興味を持ち始めた。北村雫の家に行けば、敷地内に劇場という場所があって、そこで誰かと映画を観る事もできる――いつの間にかその考えが心の中で揺らめくようになった。

それは法に触れる、道徳的に許されない危険な考えであったけど。


ある日、北村雫は長い髪をおろして、登校した。髪の長い生徒は、衛生上の理由で結ぶ事が義務付けられているのに。

そして、それが北村雫が特殊だという理由の二番目だ。規則を守らない事。

でも雫の長い髪を見てから、僕の中で揺らめくようになった空想がある。風に吹かれ、髪をなびかせている北村雫を見る――そんな空想だ。



友人である雅紀も、劇場というモノに興味を持っていて、ある日、「優弥、一緒に外から見てみよう」と誘われた。

本当なら登校、下校中も誰かと喋りながら歩いたりは許されない。誰かと一緒に通学というのは禁じられていないけど、必ず一メートル以上の距離をおく事、そしてバス等の公共交通機関でも隣同士には座らない事を守らなければならなかった。だから僕は雅紀から、この誘いを河原の土手で、一メートル以上先から大声で受けた。そしてその夜、スマートフォンの会話アプリを通じて話し合ったんだ。



北村雫の家は古い日本家屋で、その敷地は長い長い塀で囲まれていた。その塀の続く途中の道路に歩道橋の架かっている場所がある。雅紀は、ある日そこに鞄を積み重ね、その上に立って塀の中を見ていたそうだ。庭の一部分だけが見えたとか。そしてその時、小さな小屋の赤い屋根が見えたと言う。

「あれが劇場って言うもんだよ、きっと」

雅紀は、会話アプリに書き込んでいた。


聞いた限りでは、歴史の教科書に載ってある写真と大分違う。歴史の教科書に載ってあったモノクロの写真では、大きな場所に人が何かゲームの駒のように並べられ、同じ方向を見ていた。そして写真の下には、「二十世紀に一世を風靡した映画館という文化は、衛生上の危険、公衆道徳上の問題を抱え、コンサート同様、若者に多くの悪影響を与えた」と書かれてあった。


「きっと麻薬みたいに病みつきになるやつだろうな」

雅紀の書き込みだ。


「でもうちのおばあちゃんは、全然キケン人物とかじゃないけどな。両親は、あんま行った事がなかったみたい」僕が書き込む。


「だろ? うちは親が時々行ってたけど、そんな、教科書に書いてあるような大した事じゃないって言ってた。でも確かにその一昔前は、隣に誰が座るか分からないような自由席の時代があったって」


「そりゃ、怖すぎだろ」


「でもな、うちの叔父さんが言うには、『オマエ、映画館やコンサート会場ってのは昔はデートのド定番で、こんな楽しい事を知らないなんて可哀想過ぎる』って」


「デートって?」


「恋愛している同士が一緒にどこかへ出かける事を言うんだよ。今みたいにマッチングアプリで知り合って、結婚まで画面越しにしかか話さないような時代じゃ、みんな、よくやってたらしい」


「会わないと相手の事が分からない時代なんて不便だったろうな」


「え? でも今もそうだと思うけど」



雅紀の言葉に、何かモヤッと突き刺さるものを感じた。僕より物事を知っていて、大人に近付いているような。それに雅紀の叔父さんの言葉も気になる。おばあちゃんの悲しそうな表情を思い出した。その表情を見た時、ただ古臭いものが受け入れられてなくって悲しいと感じたのかと胸が痛んでいた。でもそれはもしかしたら僕達が可哀想だって、そう思われていたのかもしれない――そんな考えがよぎった。


雅紀がまた、書き込んだ。

「その赤い屋根の建物の近くの塀に木の扉があって、時々半開きになっているんだ。その時、こっそり中に入って、建物の様子を見て来ようぜ」


「え? 捕まるぜ」 


「見つからんようにやれば大丈夫」


 僕は、しようが無くその誘いに応じたフリをしたけど、実はそうではなかった。僕もどうしても劇場というものを見てみたかった。

ネットで調べたところ、映画館には、大きなシネマコンプレックスというのと、小さなミニシアターというものがあって、たぶん雫の家の敷地にあるのは、このミニシアターというやつだ。そこでこっそり違法な映画を映しているんだ。警察も目を付けていると言っていた。


今は、昔の人が観たという色々な映画やドラマは観られない。過激な内容の範囲には、たくさんの人が集まっていたり、人が密接なやりとりをしている内容も含まれているからだ。そういう映画にはPGというのが付けられ、ある年齢層より上の人達しか観られない事になっている。

でも僕は単純に知りたくなっていた。たくさんの人が集まったり、他人と密接なやりとりをする事にどんな楽しみがあるのか、という事を。


 それである日、その木の扉が開いている日を狙って僕達は北村雫の家に不法侵入したんだ。


大きな木の陰にその建物はあった。まるで童話の中の建物のように赤い屋根、クリーム入りの壁に釣り鐘型の窓が埋め込まれてある。

扉の前には三段程の階段があり、教会の扉のような重々しい扉がその先にある。でも重々しい扉は半開きになっていて、まるで僕達を誘っているようだった。

 そっと近付き、階段を上ってみた。扉の向こうには真紅のビロードの椅子が縦、横とも十列くらい並んでいた。窓には光を遮るための黒いカーテンが掛かっている。そして真正面には真っ白のスクリーンと呼ばれるのであろう空白の一面があった。


 その空白の一面を見た時、僕は急に怖くなった。僕は、雅紀を急き立ててその場から逃げた。

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