第五章 痕跡

 あれから一年が経った。

 昨今の地球温暖化や異常気象の影響で特に猛暑となった今年の8月。

 街中を歩いているだけで汗が出てくる。

 滴る汗が首元を流れて、不快感が増大する。

 俺は長野県にいた。

 お盆で会社は長期休暇に入っていたので、祖母の墓参りへ行こうと思ったのだ。

 墓地には当然ながら屋根などないから、照りつける日差しが直接肌に当たり、身体が熱を帯びていた。

 白いTシャツは、ほんのり汗で滲んでいて、暑さを物語っているようだ。

 こんな猛暑の中でも、俺は祖母の墓参りに行きたくないとは思わなかった。

 誰かに強制させられることもないから、行くか行かないかは自分で決めればいい。

 だけど、こんな暑い中、墓石に水もかけてやれなければ、暑くて大変だろうと思った。

 そこにおばあちゃんがいるわけではない。

 正確には焼かれて灰となった骨が埋まっているだけだ。

 それでも、死者を敬うという気持ちを持ち続けている。敬うことで、メリットなんてものは生まれないけど、生前、多くの幸せを与えてくれた祖母を、今度は俺が見守っていく番だと考えた。

 墓地に着くと、端の方にある祖母の墓石へと向かった。

 墓石は思いのほか綺麗に磨かれていて、花も備えてあった。

 俺が前回来たのは一年以上前だ。

 きっと近所の北島さんか片平さん辺りが定期的に掃除してくれていたのかもしれない。

 俺はすでに花立てにお供えしてあった菊に追加で持参したカーネーションを立てた。

 墓石の上から水をかけて、持ってきたタオルで少し磨いた。

 線香に煙を灯して、一連の作業が全て終わった。

 一歩引いてお墓全体を見ると、花が沢山あるせいか、他のお墓より華やかに見えた。

 実際、おばあちゃんがこのお墓を見たら、こんな豪華なお墓は恥ずかしいと言いそうだけど、今はそんなこと言われないし、このまま、華やかにしておこう。

 この一年、本当に色々なことがあった。

 俺は膝を曲げて墓石の前にしゃがみ、手を合わせながら、自分が経験してきた物語を心でおばあちゃんに伝え始めた…


 

 目が覚めると俺は自分の部屋で横になっていた。

 夢でも見ていたのかもしれない。

 だけど、身体中が筋肉痛で痛む。まるでなにかから、もがき苦しんだ後かのようだった。

 現実と夢の区別が曖昧だった。もしかしたら、今はまだ夢の続きなのかもしれない。疑心暗鬼の中、俺は徐に首元へ手をやった。

 確認したかった。あのペンダントがないか。

 渚沙からもらったハートのペンダント。

 しかし、首元にはなにもついていなかった。俺はしばらく動けないでいた。

 助けてくれたペンダントがなくなった不安。この世界がまだ異常な状況か否かの確信が持てない不安。様々な不安要素が渦巻く中、恐る恐る壊れていたスマホを確認した。

 画面が真っ暗で動かなかったはずのスマホは何事もなかったかのように、動作を始めた。

 画面の日付は11月25日午前9時と表示された。昨日の夜から朝になっただけだ、8時間ほどしか経過していない。一体あれはなんだったんだ?

 疑問が残る中、俺はスマホを使って、真っ先にある行動をとった。

 警察への連絡や、ネットでの検索、動画配信サービスを閲覧することではない。

 渚沙への連絡だ。

 彼への想いや、彼がしてくれたこと全て、夢ではなかったはず。きっと、俺たちはあの場所で繋がっていた。

 その考えを確信に変えるために、メールをしようと思った。

 だけどメールには渚沙の連絡先がなかった。

 どれだけ探しても、渚沙という文字は出てこない。

 俺が連絡先を交換していたのは、渚沙以外だと、会社の人とおばあちゃんくらいだった。

 だから見落とすはずがない。

 結局電話という手段は取ることができなかった。

 電話ができないのであれば、直接会いに行きたいが、外に出るのは不安だった。

 俺は正常に作動するスマホで、他の手段を取ることにした。

 まずはネットで、最近•事件とキーワードを入れて調べた。

 こうすることで、この世界での事件の概念が狂っていないか確認するためだ。

 俺は一番上に出てきた、ネットニュースをクリックした。

 記事には、40代無職男性、刃物を振り回し、銃刀法違反で逮捕と書いてあった。

 場所は東京都池袋。

 物騒な事件だったが、知りたいのはここからだった。事件を起こした動機。これが最も重要だ。

 画面をスクロールして読み進める。

 事件を起こした動機は、仕事をクビになって自暴自棄になったからと記載してあった。

 更に読み進めると、この記事を読んだ人のコメントもあった。

「会社をクビになったのは気の毒だけど、周りに迷惑かけていい理由にはならない」

「日本も治安が悪くなってきたな」

「怪我人が出なくて良かった」

 俺は心の底から安心した。物騒な事件を見て安心するなんて不謹慎かもしれない。

 だけど、人間の倫理観が正常に働いている世界だったことが、戻ってこれた証拠になる。

 俺は邪念を全て吐き出すかのように大きなため息をついた。

「良かった…戻って来れたんだ」

 ただ、外に出る際は、疑い深くいる必要がある。

 まだ完全には信じ切っていないからこそ、人には細心の注意を払って行動しよう。

 俺は渚沙の家へ直接向かうために、服を着替えて、外へと出た。

 街中を歩いている人は、普通の顔をしている。

 普通の表現が難しいが、魂が宿っているような感じだ。

 異常を見たからこそ、普通との差がはっきりわかる。

 カップルや家族もいたが、皆、笑顔で顔を向き合わせて話していた。

 人に気を取られていると、目の前の道路を自動車が通り過ぎていった。

 それに続いて、トラックなどの自動車も走っていった。この街では車も自転車も動いている。

 これなら、この世界は大丈夫そうだ。

 いつもと変わらない日常がこれほど嬉しく感じた経験は今までない。

 それだけ、あの経験は酷く恐怖心を植え付けていた。

 一安心した、俺はずっと気がかりだった自分の愛車の元へと向かった。

 駐車場の先には、あの世界ではなかったはずの愛車がしっかりと停められていた。

 車がいなくなるなんて表現はおかしいのかもしれないが、俺からすると、いなくなった愛犬が帰ってきたような高揚を感じていた。

 俺は愛車に乗って渚沙の家へと向かうことにした。ここまでは全て元通りだ。あとは渚沙に会えれば全て完璧になる。

 車で向かっている途中に、駅を通り過ぎたけど、多くの人がいて、ここにも異常性は感じられなかった。

 ほどなくして、渚沙の家へ到着した。

 車を降りて向かった先は、少し年季の入った外観をした二階建の木造アパート。ここの102号室が渚沙の部屋だ。

 渚沙の部屋には三回遊びに来たことがある。

 彼とどんな話をするのか、第一声はなんなのか、少し緊張しながら、102号室の扉の前に着いた。

 しかし、そこには目を疑う光景が広がっていた。

 入居者募集中。そう書かれた貼り紙が扉の前に貼ってあったのだ。

 どういうことだ?ここは渚沙の部屋だろう?

 俺はインターホンを押してみたが、電源が入っていないのか、反応しない。

 玄関で右往左往しながら、勇気を出して隣の101号室のインターホンを押した。

「はい?誰ですか?」

 インターホン越しから、30歳くらいの男性と思われる低い声が聞こえてきた。

「あの?隣の102号室に誰か住んでませんでした?」

「え?ずっと空き部屋ですけど?」

 そんなはずがない。渚沙は少なくとも昨日まではこの部屋に住んでいたはずだ。

「ちなみにいつ頃からですか?」

「僕は一年前に引っ越してきたので、その時から空き部屋でしたよ?あの、どちら様ですか?」

「えっ!あっ大丈夫です!すみません!」

 俺は動揺して、その場から逃げてしまった。

 101号室の人には申し訳ないことをしてしまった。きっとイタズラだと思っているに違いない。

 だけど、そんなことよりも、渚沙がこの部屋にいない?そもそも住んでいなかった事実が受け入れられなかった。

 そんなはずはないと自分に言い聞かせてみても、102号室が空き部屋という事実は変わらない。

 それに、スマホのこともおかしな話だ。

 俺からデータを消したのならまだしも、連絡帳に履歴すら残っていないのはあり得ないことだ。

 渚沙がいなくなったことが信じられなかった俺はすぐに家へ帰った。

 そして、タンスの奥から学生時代のアルバムを全て出した。

 奥から出したから、部屋は物で散乱してしまったが、片付けなんて後回しで良かった。

 とにかく小学生、中学生、高校生と順番にクラスの顔写真を見ていく。

 しかし、どこにも渚沙の顔や名前がなかった。

 集合写真にも違和感なく渚沙だけがいない。

 そして、もう一つ違和感があった。秀樹の姿もなかったのだ。

 理解ができない。スマホで渚沙の写真を撮ったことはなかったから、顔を見ることすらできない。

 俺は物が散乱して散らかった部屋の中で、一人、虚しく座り込んでいた。

 異常性がなくなって平穏を取り戻したこの世界から、俺の希望だった渚沙が消えた…

 話したいことが沢山あったのに。あれが最後の会話だったのかと思うと、胸が熱くなって悲しみが外に溢れ出してきた。

 俺は泣いた。しばらく泣き続けた。20歳を超えて立派な大人になったはずなのに、赤子のように泣き続けた。

 泣き止む頃には夕方になり、外は茜色になっていた。

 これからどうすればいいのか、そもそも夢だったのか。渚沙が存在した事実は全て夢だったのか?

 頬をつねってみても痛かった。これが現実であって欲しくなかった。

 だけど、受け入れるしかなかった。渚沙が強くしてれた俺の心は向き合うことを望んでいる。

 これからの人生、なくしていた想いを使って生きていく必要がある。そう言い聞かせた。

 いつか会える日が来ると信じて、それまでにやることを考えた。

 もう自分を偽ることはやめよう。蓋を被せてきた自分の考えを取り出す時がきた。

 それから俺は、自分と向き合う旅に出た。

 向かったのは長野に住む北島夫妻の元だ。

 突然顔を出した俺に二人は少し驚いていた。

「慶太くんじゃない。久しぶりね。今日はどうしたの?万智さんのお墓参り?」

 里美さんが事務作業を止めて話しかけてくれた。

「お久しぶりです。いえ、今日は祖母の墓参りではなく、別の目的で来ました。一つご相談があって」

 二人は俺を応接室に案内して話を聞いてくれた。

「実は、母と父に会いたいんです。祖母の葬式の際は、連絡手段を探すと言ってくださったのに、断ってしまった手前、今更こんなことをお願いするのは申し訳ないのですが…」

「そういうことね。良かった慶太くんの口からそう言ってもらえる日が来て」

 困らせてしまうと思っていたのに、二人は笑顔で話してくれた。

「実はね慶太くん、そう言ってもらえる日が来ると思って、僕たちはお父さんとお母さんの居場所を調べていたんだよ」

「えっ?なんでそんなことをしてくれたんですか?」

「いいかい、慶太くん。どんな過去があったにしても、親は親、子は子だ。血の繋がった存在は引かれ合うものだよ。それは良くも悪くもね」

「だから慶太くんの心が成長して、相手の話を聞けるくらいに気持ちが整理できた時、きっと尋ねてくると思ったんだよ」

 引かれ合う。確かにそうなのかもしれない。

 俺は両親とろくに話さないまま、別れてしまった。二人に後悔があるかはわからない。

 だけど、それでも一度でいいから話したかった。

 子として、自分が成長して生きている姿を見せたかった。

「ありがとうございます。待っていてくれて」

 二人は微笑みながら、一枚の紙を渡してきた。

 そこには二つの住所が書いてあった。

 三重県津市、東京都練馬区。

「三重にお母さん、東京にお父さんがいるわ」

「僕らは自営業で、仕事上色々な職業の人と知り合いが多くてね、お客さんに探偵の方がいるんだよ、その人に調べてもらったから間違いないよ。情報も数ヶ月前のものだし、タイミングが良かったね」

 もっと会えるのは先だと思っていたから、心の準備が追いついていなかった。

「本当にありがとうございます。全てが終わったら、祖母の墓参りに行きますね」

「頑張ってね。きっと大丈夫」

 二人の声援にはとても勇気付けられた。

 俺は、まず母親の元へ会いに行きたかった。

 三重は愛知の隣だから高速を使って車で向かうことにした。

 どうやらその探偵の調べによると、母は会社で事務員をやっているらしい。仕事の休みは土日が基本とのことで、俺も丁度、土日休みだから、そこで行けば会えると思った。

 俺のことを覚えているだろうか?なんて言われるだろうか?

 自分で決めたことだけど、今になって不安が押し寄せてくる。不安という名の煽り運転を受けているような気分だ。そんなドライブだったからか、1時間30分ほどの道のりはあっという間だった。

 俺は母のいる津市に着いた。

 津市は栄えていた。三重県の観光地としても有名な市だから商業施設やビルが立ち並んでいたが、どこか自然も残っていて、空気は綺麗だった。

 俺は紙に書かれた住所を頼りに、母が住むマンションへ向かった。

 探偵の情報によると、結婚はしておらず、一人で住んでいるらしい。

 いきなりインターホンを押すのは緊張するが、ここまで来て後戻りはできない。

 五階建のマンションに着いた俺は、指定された四階の部屋へと向かった。白基調の外壁で塗装された新しそうなマンション。自分が一人暮らしをしているからか、良いところに住んでいるなと、羨ましく思った。

 404号室。ここにいるのか。

 インターホンを押そうと手を伸ばしたが、指が小刻みに震える。心臓の音が鼓膜の奥から鳴り響く。

 俺は勢いでボタンを押した。

「はい?どちらさまでしょうか?えっ?」

 俺はその声に身体が硬直した。紛れもないお母さんの声だ。

 小さい頃に別れたが、はっきりと覚えている、この声だ。

「慶太…?なの?」

 カメラ付きのインターホンだからか、俺の顔が見えているようだ。

「うん…話したいことがあって、久しぶり」

 言葉がごちゃごちゃになりながらも、なんとか伝えた。

 すると、扉の向こうで廊下を走る音が近づいてきた。その音は一度扉の前で止まり、うっすら深呼吸をしている息が扉越しに聞こえてきた。

 その後、ゆっくりと扉が開いた。

 目の前に見えたのは、少し顔や手に皺が入っているものの、あのときの面影と全く変わらない母親の姿だった。

「慶太…久しぶりね…」

 母は涙ぐんでいた。

 俺は恨みもあったし、憎悪もあった、嫌悪感すら抱いていた。悪い感情ばかりがひしめいていたはずなのに、なぜか目頭が熱くなった。

 気づくと目に身に覚えのない水分を含んでいた。

「会いたかった…お母さん」

 本当はこの話をするつもりではなかった。

 ただ、祖母の訃報を知らせて、自分の成長した姿を見せる。それだけのつもりだったのに。

 俺はただ会いたかったのかもしれない。目的とは裏腹に、身体は正直に反応していた。

 母は俺を部屋に入れてくれた。

 ダイニングテーブルに向かい合わせに座る俺たちは、まるで、初めてお茶をする友達かのような妙な緊張感と沈黙が漂わせていた。

「慶太、どうして私がここにいることがわかったの?」

「探偵に探してもらった」

 俺は事細かくは話さなかった。北島夫妻に迷惑はかけたくなかったからだ。

「そう。ありがとうね、こんな私をまだお母さんって呼んでくれて」

「四年前おばあちゃんが亡くなった。癌だった。それまでは、おばあちゃんが俺のことを育ててくれた」

「お母さん亡くなったのね…」

 自分の母親の死をまるでわかっていたかのように、悟った反応見せる母に少し冷たさを感じた。

「お父さんはいないの?」

「お父さんは、別の家庭を持って、あの後すぐに俺の元から離れていったよ」

 母は驚いていた。本当になにも知らなかったんだなと思った。だけど、父を非難するような言葉は発しなかった。きっと、そうなる状況を作ってしまった自分を非難していたのだろう。

「あの日、あのとき、私は感情的になって、あなたを手放してしまった。それは、一生かかっても償うことなんてできない。だけど、死ぬ前に一度でもあなたと会えて良かったと思っています」

「本当にごめんなさい」

 謝罪は求めてなかった。

 恐らく母もこれが最初で最後の再会だと思っているのだろう。それは俺も同じ気持ちだったからなんとなく伝わってきた。

 過去にあんな壮絶な別れ方をしているんだ、今更仲良く一緒に暮らしたり、関係を修復なんて、できない。仮にそうしたとしても、きっと、お互い気を遣いながら上辺だけで接していく関係性になってしまう。

 だけど、渚沙と出会ったおかげで多くを学んだ。

 俺が俺自身で愛するものを決める。

 その強い想いを持ち続ける。それは誰にも左右されない。俺に権利があるのだから。

 今送れる言葉を包み隠さず伝えよう。

 それが自分のためになるはずだ。

「まあ、また今度一緒に、おばあちゃんの墓参り、行こうか」

 涙を見せながら、微笑んで頷く母。

 笑顔は誰にでも平等にあるか…

 昔、そんなことを渚沙が言っていたな。

 俺の心から厚く被っていた殻が一つ剥がれた気がした。

 連絡先を交換した後、俺は長居せず、愛知へ帰った。

 家に着いて、床に横たわる。身体の力が一気に抜けて、疲労感が押し寄せてきた。

 かなり神経をすり減らしたからだと思う。

 だけど、疲れと共に心は満ち足りたりていた。

 来月は父親の元へ向かうつもりだ。

 ゆっくりでいい。過去と向き合い本当の自分を見つけにいこう。

 お父さんには正直会いたくなかった。自分に向かって直接別れを告げてきた、というのもあるが、それよりも、今は家庭を持っているという現状が俺の足取りを重くさせた。

 恐らく別れたはずの息子が突然現れても煙たがられるはずだ。

 そうに決まってる。俺確信していた。

 成長した俺の姿を見せたい。そんな想いはきっと惨めに打ち砕かれるだろう。それでも、俺の気持ちは伝える必要があった。辛い想いをしようとやらないよりはましだ。

 あの不思議な世界での出来事は俺に行動力と勇気を与えてくれていた。

 東京都練馬区、やはり東京は大都会だ、日本の主要都市だからこそ、中心と呼ぶにふさわしい佇まいをしている。

 俺は新幹線で東京に向かった。そこから電車に乗り換えて、ここ、練馬区へ到着した。

 母の時同様、探偵の情報によると、父は俺と別れてすぐに、愛知の会社を辞めて、東京で新しい家族と暮らし始めたらしい。

 なぜ会社を辞めたのか、その真意はわからないが、きっと俺と祖母が住む愛知県から離れたかったのだろう、ばったり鉢合わせなんかして日には、どんな顔をしたらいいのか俺でも戸惑うだろう。

 愛知で祖母と暮らすことが決まったのは父と別れた後だったから、俺が長野に移住する可能性も考えられたはずだ。だけど、どんな可能性の中にも東京と言う選択肢は小学生の俺と、高齢な祖母には考えられなかったと思う。

 父の家は立派なマンションの一室だった。賃貸ではなく購入している部屋だった。

 嘸かし順風満帆な生活を送っているのだろう。

 俺は、自分が経験してきた苦しみを味合わせたいと思ったわけではなかったが、少しの嫉妬心が芽生えていた。

 マンションは結構高層で、二十階建ぐらいに見える。父の部屋は十六階だった。

 直接玄関までは行けず、一階でインターホンを鳴らさなければならなかった。

 1604、父の部屋の番号だ。インターホンを押すのがこれほど緊張するなんて、思わなかった。

 渚沙の時も母の時もそうだったが、この音の先にどんな未来が待っているのか、ただの機械に心が揺さぶられる。

 俺はインターホンを押した。

「はい?どなたでしょうか?」

 聞こえてきた声は、母と同じくらいの年齢と思われる女性の声だった。

 父が出るとは限らない。そうわかっていたけど、急に知らない人の声が聞こえてきたので、少し戸惑ってしまった。

 向こうからしても不振に思うだろう。

「こんにちわ、いきなりすみません。私は香山智の息子の香山慶太と言うものです」

 その返答を聞いた瞬間インターホン越しから、「あなたが!?」と大きな声が響いた。

 そしてマイク越しにも伝わる大きな声で会話が聞こえてくる。

「智さん!慶太くんよ!来てくれたのよ!」

 来てくれたということは歓迎されているのか…?

「ちょっと待ってね、今開けるから」

 その直後、目の前にある透明な自動ドアが開いた。

 俺は誘われるがままに、父の待つ部屋へと向かった。

 玄関につくと、すでに扉を開けて女性が待っていた。

「あなたが慶太くんなのね、来てくれてありがとう。私は、お父さんの再婚相手の望月彩芽もちづきあやめと言います。抵抗があるでしょうけど、良かったら上がっていって。息子は友達と出かけていて、いないから安心してね」

 煙たがられると思っていたのに、よりにもよって再婚相手に歓迎されるとは思わなかった。そして、息子というワードが簡単に出てきたことに少し心が苦しくなった。

「はい…」

 重い足取りで玄関を入るとリビングには父が立っていた。

 棒立ちとは、まさにこのことを言うだろうと思うほどに、直立で固まっていた。

「久しぶりだな、慶太…」

 ただ立ち尽くす俺と父、固まる俺たちを強引にテーブルへと誘導する望月さん。

 正直この人がいてくれて良かったと思ってしまう。二人だけで会っていたら、沈黙が永遠に続いていた気がする。

「ほら、智さん言うことがあるんじゃないの!」

 強い口調で、説教する望月さん。

 その言葉に促されるように、父は口を開いて話し始めた。

「慶太…本当にすまなかった。俺がお前にしたことはどれほど残酷なことだったか…今でも後悔の念を忘れたことはない。こんなことを言って許してほしいなんて思わない」

 母と似たようなことを言われた。表情からして、そんなことを言われるだろうと、察しはついていたが、何度も言うが俺は謝罪を求めているわけではない。

 ただ自分の姿を見てほしいだけだ。

 向こうからしたら、そんなことは無理なのかもしれないが。

 返答に困っていた俺の間を割って入るように、望月さんが話してきた。

「智さんね、ずっと後悔していたの、それは本当のことよ、私はね、この人との間に子供ができて、東京に引っ越して籍を入れるまで、慶太くんの存在を知らなかったの、しばらくして、そのことを伝えられた時は正直離婚しようと思った。だけど、この人を独りにしたら、消えてしまいそうで、離れられなかった。そして、今日慶太くんがここに来てくれるまで、この人が会おうとするのを待ち続けてしまった。だから私も同罪よ。本当にごめんなさい」

 再婚相手が善人な人で良かった。そもそも許す許さないを議論したくて会いに来たわけではなかったから、純粋にそう思えた。

「いいんですよ。そこは問題ではないので。ただ、俺はお父さんに会って自分の姿を見せたかっただけなので」

「お父さん、おばあちゃんは四年前、亡くなったよ。俺をここまで育て上げてくれた。俺は自分の過去と向き合うために今こうしてるんだ」

「幸せな家庭を築いているみたいで、良かったよ」

 それは皮肉でもなんでもなかった。俺が伝えたいと思う、本心でそう言った。

「慶太。会いに来てくれて本当にありがとう。顔が見れて嬉しいよ」

「良かったらまた、来てくれないか?」

 父からそう言われた瞬間、俺が話すより早く、望月さんが口を出した。

「智さん、それは違うわよ」

 望月さんの言う通りだった。

「お父さん。この人の言う通りだよ。それはできない」 

 父は悲しそうな顔をしていたけど、自分の過ちを始めて理解したようだった。

 その後も少しだけ話した。だけど、仕事や一人暮らしの内容くらいで。それ以上、多くは語らなかった。

 玄関先まで見送られて、帰ろうと靴紐を結び、立ち上がったところで、一言だけ告げられた。

「元気でな…」

 その言葉には悲しさと優しさがこもっているように感じた。

 過去と向き合うことで、俺の殻は全て剥がれ落ちた気がしていた…


「おばあちゃん、こんな出来事があったんだよ」

「今日は来れなかったけど、また今度、お母さんとも一緒に来るね」

 墓石に向かって、声を出して話した。

 当然声は返ってこない、誰もいない墓地に俺の声だけが通り抜ける。

「渚沙なにしてるかな?」

 つい、口から出た言葉は忘れられない存在への問いかけだった。

 一年だ。この世界から、すっぽり穴が開いたかのように、渚沙だけがいなくなってから。忘れられるはずもなく、ずっと考え続けている。

 だけど、存在自体がいなくなってはどうすることもできない。

 始めは、久しぶりに同級生へ連絡をとり、渚沙のことを確認してみたが、やはり、誰も知らなかった。ついでと言ってはなんだが、秀樹のことも確認してみたが、知っている者は現れなかった。

 今では、考えることを辞めて、こういうものなんだと、日々自分に言い聞かせている。そうしないと、虚しさや悲しみが込み上げてしまうから。

 過去を見つめ直す旅も終わってしまった。

 殻を破った先に新しい未来が待ってると思っていたが、奇跡なんて大層な出来事は起こらず、身の丈に合った、現実が待っていた。

 この先何年、何十年と経って、どんどん過去の記憶が薄れていく中で、俺は渚沙のことを覚えていられるのだろうか。写真もなければ、唯一の贈り物であったハートのペンダントすらない。渚沙が残した痕跡が何一つないこの世界で、俺は記憶に留め続けることができるのだろうか。恐ろしかった。忘れてしまうことが。

 家に帰ってからは、毎日平凡で平和な生活が続いた。

 深い仲になる友達もできず、恋人もできないまま、1年と数カ月が経過していた。

 11月24日、今日は俺の誕生日だ、去年は何もせず、過ごした。

 唯一あったのは、親戚の片平夫妻からのお祝いメールくらいだ。

 俺の存在を認知してくれる人がいるだけ、幸せを感じれた。

 今年も変わらず、メールが唯一誕生日を感じれるツールとなっていた。

 仕事が終わり、家へと向かう俺の脳裏に、ふとあることが過った。

「ファミレスに寄ってみるか」

 なぜこんなことを考えたのかわからなかったが、昔、渚沙と入ったファミレスが急に恋しくなった。

 ファミレスに着くと、通った学校や、遊んだ公園を懐かしむように、俺は店内へ入った。

 昔となにも変わらない。あの出来事から、一回も行っていなかったが、メニューが少し変わっているだけだった。

 個人店でもない限り、数年では大きく店が変わることはないだろう。

 この店が潰れてなくて良かった。

「お好きな席へどうぞ」

 接客中の店員が伝えてくる。

 俺は、空いていた一番奥の席へ座った。

 座ってみて気づいたが、この席から見える光景はあの日、俺と渚沙が座っていた席から見た光景と同じだった。

 つまり、同じ席だ。

 まだ記憶が薄れていないことに少し安心した。

 席について待っていると、店員がお水を持ってきた。

「いらっしゃいませ。ご注文はなにになさいますか?」

 小柄で20代前半に見える女性。見ない顔だった。一年以上経っているから、新しいバイトが入っていてもなにもおかしくない。

「ミートソーススパゲティを一つください」

 俺は渚沙の痕跡を辿りたくて、いつもあいつが注文していた食べ物を頼んだ。

 本当だったら、今頃、哲学染みた話を永遠に聞かされているだろうな。

 あの時は煙たがっていたけど、今では懐かしく感じる。もう聞けないあの声を求めても、手に入らないのだから。

 しばらくして、届いたミートソーススパゲティはなんの変哲もない美味しいスパゲティだった。

 これを食べたからってなにかが起こるわけでもない。

 皿が空になると自分の心も空になった気分で虚しく感じた。

 明日から、また仕事だ。さっさと会計を済ませて出よう。

 伝票を持って、レジへ向かおうとする。

 そこへ、懐かしい人物が話しかけてきた。

「今日はお一人なんですね。しばらく来られなかったので少し心配しましたよ」

 横を見上げると、そこにいたのは遠藤さんだった。

「え…?」

 俺は遠藤さんに話しかけられたことよりも、その内容が気になった。

「一人でって?わかるんですか?」

「え?昔は二人でよくいらっしゃいましたよね?」

 なんで、なんで知ってるんだ?渚沙のことを?

「わかるんですか?」

「え?わかるもなにも、あっ」

 遠藤さんが急に店外に目を向ける。

「あれってお連れ様ですよね?」

 俺も同時に店外へ目をやった。

 目の先には道路の奥の方に見覚えのある後ろ姿が立っていた。

 俺は飛び上がった、財布から千円札を取り出して、遠藤さんに渡した。

「おつりはいりません!」

 700円のスパゲティに1000円を払った。

 こんなセリフを人生で吐き捨てるときがくるとは思わなかった。

 遠藤さんは突然の行動に戸惑いながら、強く差し出した、千円札を反射的に受け取った。

 走り去る俺に遠藤さんは大きな声で呼びかける。

「お客様!お忘れ物があります!」

 遠藤さんが掲げた手にはハートのペンダントがぶら下がっていた。

「ありがとうございます!」

 俺は、なぜあるのか、なんてことは考えず、衝動的にペンダントを受け取り、夢中で外へと駆け出した。

 店の外に出ると、あの後ろ姿は、まだ存在していた。

「渚沙!」

 人違いじゃない。俺には確信があった。

 人生で一番であろう全力疾走で、その後ろ姿に向かっていき、力一杯抱きしめた。

「想い続けてくれてありがとう…」

 寒空の下。行き交う車のエンジン音が鳴り止まない中、その言葉は、はっきりと俺の鼓膜に響いた…

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