第四章 想い

 温もりのある空間に僕はいる。

 目を閉じればいつも心に響く様々な想い。

 今は誰も頼ることができない。僕にはこれしかなかった。

 ハートのペンダントを握りしめて、家を出る。

 これから始まる運命がどんな形になろうと、僕は僕であり続けるために、全力を尽くす。そう決心していた…


 僕の名前は夏目渚沙。ただの夏目渚沙だ。

 どこにでもいる一般的な子供、となっている。

 今日はこの学校へ転入する日だ。愛知県、知立市のとある小学校。どうしてこの街、この場所へ行く必要があったのかは、僕にもわからない。だけど、それがやるべきことだから、異議を唱えるつもりはなかった。

 転入初日、学校の応接室で待たされていた僕は離れたところにある教室から聞こえる生徒たちの談笑が妙に大きく聞こえていた。

 内容は聞き取れない。

 だけど、その声はまるで、僕を遠ざけ、群れを追い出されるような気持ちにさせた。

 僕は緊張していたのだ。

 慣れない環境に放たれた犬が、周りの様子を伺うように、応接室の上下左右、全てを見渡していた。

 そんなことをしても、なにも変わらないけれど、そうしていないと、気が収まらなかった。

 動揺を隠しきれていない僕のところに、担任教師がやってきた。

 彼は、僕を宥めるような眼差しで見てきた。

 心のどこかでは、小学生に見られたくないと思っていたから、内心、恥ずかしかった。

 あくまで僕は役目を果たすためにここへ来ただけで、学生生活を送るためではない、そう自分に言い聞かせていたが、自分が表面上で思っていた気持ちとは裏腹に、この瞬間を楽しみ、緊張していたのかもしれない。

 奇しくも、その憂さは、この場所へ溶け込むには、完璧な様子となっていた。

「渚沙くん行こうか」

 優しくかけられたその声に反応して、僕は無言で教室に向かった。

 クラスに近づくにつれて、応接室から聞こえていた話し声が大きくなっていく。

 それと同時に僕の心臓も鼓動を早めた。

 クラスの前につくと、先生が躊躇なく扉を開けた。

 群れのアシカが、危険を察知して一斉に一方向を見るかのような、不思議そうな眼差しで、僕に目を向けてきた。

 クラスの生徒を視覚で捉えた瞬間、僕の中から、緊張や動揺は一瞬で消え去った。

 僕は必死に驚きを隠して、教室に足を踏み入れた。

 漂う空気が僕の皮膚を刺激する。

 このクラスには憎悪が充満していた。しかも、それは、ある特定の人物に対して向けられているものだった。

 ホームルームを終えると、席についた僕の元へクラスのみんなが駆け寄ってきた。

「どこからきたの?」「なにが好きなの?」「兄弟はいるの?」

 全て、たわいもない話だ。小学生の子供と話すのは楽しい。

 みんな無邪気に笑って自分の想いを伝えてくれるから。

 だけど、質問攻めは困る。

 みんな答えを求めるけど、それ以上知ろうとしないし、知ることはできない。

 複雑だけど、そういうものなのだ。

 香山慶太っていうのか。

 僕の目には、目の前を取り囲んで話しかけてくる人間よりも、奥の席で一人、外を見ていた彼の姿が鮮明に写った。

 僕は、彼が哀しさを、なにかで覆い被せているように見えた。みんなはわからないかもしれない。だけど、僕にはそれが見えた。偽ったその先に映る、光と闇が混じったその葛藤が。

「慶太よろしく!」

 突然声をかけられたからか、彼は驚いていた。

 返事も返してくれない。話しかけられたくないのか。だけど気にしないでおこう。僕は僕のやり方で彼と接した。

 図々しいって思われていそうだけど、そばにずっといるようにした。こうするべきだから。

 転入して二週間が経ち、クラスの人は僕に話しかけてくれなくなった。

 僕がこのクラスにいることが当たり前になったからではない。明確に話しかけられていないのだ。

 こういうことか…

 僕は悟った。自分が同じ立場を経験することは大事なことだ。被害者になって初めて、痛みを実感して共感することができる。

 僕は嬉しかった。

「これで慶太と同じ土俵に立つことができた」

 共感できれば、慶太ともっと仲良くなれる。

 期待に満ちた僕は、慶太といるときも、いじめられているときも沢山微笑んだ。彼と仲良くなりたかったから。

 だけど、慶太はいつまで経っても心を開いてくれない。寧ろ煙たがられている気がする。難しい…

 そんなある日、学校の休憩時間、慶太に呼び出された。

「なにがそんなに笑えるんだよ」

 強い口調で話す彼は怒っていた。

 僕はなにを間違えたんだ?彼は心を開いてくれていないのか?

 正解がわからない。この後なんて返せばいいのか。謝ってはだめだ。安易な懺悔は僕にとって禁忌

の行動だから。

 常に導かなければなからない。

 彼には知ってもらいたかった。だから僕は言った。

「笑顔は誰にでも平等にあるものだから」

 慶太は意味がわからないと言わんばかりの、呆れ顔をしていたけれど、これで良かった。いずれわかる日が来るのだから。

 慶太と一緒に過ごす日々が数ヶ月続いて僕にはわかったことがある。

 彼には両親がいたが、二人ともいなくなっていた。母親は万引きで捕まって離婚、父親は別の家庭を持っていたらしい。そして今は祖母と暮らしているという。

 この話は慶太本人からではなく、クラスメイトから聞いた話しだ。

 彼らは僕に慶太の身の上話をした後、最後にこう付け加えた。

「だから、渚沙くんも、一緒にはぶろうよ」

 この子は邪悪な存在なのか?発せられた言葉があまりにも残酷で、悲しかった。

 人間の愚かさや醜さ、簡単に人に知られたくないことを話してしまう口の軽さ。

 なぜ人間が生まれたのか、誕生に対する疑念が宿ってしまう。

 僕にはノー以外の選択肢はなかった。

 なにがあっても慶太と一緒にいる。

 不本意な形ではあったけれど、より彼と一緒にいたいという確固たる意志が芽生えた。

 両親もいなくなってしまったのか…

 僕は家で考えていた。

 不幸が更に不幸を呼んでいる。蜘蛛の巣のように繋がって連鎖している。

 もしかして両親も…

 余計な憶測は、邪推となって邪を呼び込むからやめよう。まずは慶太が、僕のことを渚沙と認識してくれようにするためには、どうしたら良いのか考えよう。

 僕は次の日も、またその次の日も何度も慶太のそばにいた。

 慶太の人生をなぞり歩くかのように学校生活を送った。

 そうしていくと、やがて、本質が見えてきた。

 宮坂秀樹、彼がいじめの主犯格で、この人間には、みんな逆らうことができない。だから、その取り巻きたちも一緒になって慶太をいじめて、それに関わりたくない第三者は、はぶる形で危害を避けていた。 

 こいつか、慶太を苦しめたのは。

 僕は久しく忘れていた怒りの感情が胸の内に生まれた。

 数ヶ月、慶太と一緒になって、秀樹たちからいじめられてきた僕ならわかる。

 こいつがいなくなれば全て解決するんだ。

 僕は、1万以上あるパズルの最後1ピースをはめたときのような達成感に満ち溢れていた。

 早く先生になんとかしてもらおう。

 僕は足早に自宅へ帰り、先生と話した。

「先生!目的がわかりました」

「早かったんだね。それで、どうしたいんだい?」

「はい!慶太といういじめられている子供がいます。その子をいじめていたのは秀樹という人間です。彼がいじめなくなれば、慶太は救われます」

 僕は嬉しかった。こんなにも早く慶太を救うことができるのが。喜ぶ顔が見たくて浮き足立っていた。

「それで良いんだね?」

 先生は僕に対して確認してきた。

 僕はその問いに、迷わずイエスと答えてた。

 考えてみると、先生が確認することなんて、今までなかったのに、僕はその違和感を気にも留めなかった。

 それから月曜日、学校に行くと、みんな楽しく挨拶をしてくれた。秀樹も静かにしている。

 遠くの席で慶太は立ち尽くしていた。

 そんな慶太の心は、安心に包まれていたから、僕はとても嬉しかった。

「慶太!おはよう」

 ここからやっと未来が始まるね…

 慶太は僕と沢山遊んでくれるようになった。

 休日は一緒にゲームをしたり、一回だけ、近くの公園でバドミントンもした。

 慶太と僕は運動神経があまりよくなかったけど、なぜかバドミントンだけは、二十回以上ラリーが続いて白熱した。

 ゲームは僕の方が少し上手かったけど、慶太は負けず嫌いで、すぐに三回勝負などと、ずるい真似をしてくる。

 そんな人間らしい、裏表のない慶太が僕には可愛らしく見えた。

 慶太と仲良くなってからしばらくして、僕はその日も慶太の家でゲームをしていた。

 いつものように負けたことを悔しがる慶太。

 疲れたから寝ると言い出して、僕の横で寝だした。自由奔放だけど、自分の欲望に忠実で、良いことだと思う。

 僕はそんな無邪気な慶太の顔をずっと見ていた。

 自分でもわからなかった。

 気づいたら口が触れていたことが。

 慶太は目を見開いていた。僕はなにも言えなかった。笑うことも泣くことも、一切の感情が表に出なかった。それだけ、自分がした行動の理由が思いつかなかったから。

 慶太も無表情だった。

 お互い変わらないはずだった関係性。

 僕は小学校が終わったら慶太と離れるはずだった。なのになぜだろう、離れたくなかった。

 なんの感情なのか、諭さなければいけない側のはずなのにわからなかった。

 慶太は一言「帰って」と言ってきた。

 僕はなにも言えなかった。ただ、足早に帰ることしかできなかった。

 家に向かって走っていた僕の頭には二つの衝撃が巡っていた。

 自分が思いもよらない行動をしたことと、口に触れた瞬間、身体に響き渡った、暗いなにか。

 この出来事によって僕の人生は大きく変わり始める。

 次の日学校で慶太と会った。

 慶太は僕のことを見て、いつも通り挨拶をしてきた。僕は昨日のことが頭の中でずっと引っかかっていたから、どうしても、いつも通り振る舞うことができなかった。

 そんな僕を不思議そうに見る慶太。

「お前、なんか変じゃないか?いつも変か」

 少し小馬鹿にした様子で慶太は笑いかけてくる。まるで昨日のことがなかったかのように。

 疑問に感じた。慶太がそんなに感情を隠して振る舞えるわけがない。少なくとも僕といるときはいつも感情剥き出しで表現してきたから。

 隠してるというより、そもそも記憶にないように思える。

 なに食わぬ表情をする彼に、僕は安心してしまった。もしこの場で昨日のことを聞かれても、今の僕は答えることができない。きっと逃げてしまう。

 こんなことあってはならないはずなのに…

 今までは、悩むことなんてない生き方を歩んできた。

 自分の役割を全うするために、徹底的に従って、尽くしてきたつもりだ。

 故意で動いたことなんて一度もない。

 だけど、あの出来事は明らかな故意だった。

 偽ることもできない、自分勝手な行動に嫌気がさして、悩んでも悩んでも答えが出なかった。

 僕は自分が何者なのか、考える必要があった。

 小学6年生の夏休み、僕は旅に出た。

 この感情と慶太について知るために。

 慶太から旅行に誘われたけど、家の事情と言って断った。

 本当は遊びたかったが、こんな不純な気持ちが入り混じる中、慶太と一緒に過ごしたくなかった。

 先生とは秀樹の一件以来、会えていない。

 もっと耳を傾けるべきだった。問いかけを無視した罰なのかもしれない。

 後悔と懺悔の念に押しつぶされそうになる。

 僕の旅はその過去を清算する旅でもあった…



 僕はある場所にいた。

 それは、図書館だ。見た目は洋風でレトロな雰囲気の建物。

 一件、少しオシャレな図書館くらいにしか見えないが、ここはただの図書館ではない。

 一般的に、本とは人々の想いや、想像、体験をインクを使って記した創作物だ。

 だけど、ここにある本は、想いそのものを記している。だから、想いを探せば、僕が歩むべき旅路を見つけることができると思った。

 図書館があるのは、寄り添う者たちが住む世界だ。

 僕には馴染みのこの世界。慶太が住んでいる世界と似ている。街並みも、行き交う存在も皆、さほど変わらない。この世界を模して、慶太がいる世界が創られたのだから、当然だ。

 僕は自分が探すべき想いを辿った。

 ここにある本は、全て題名がない。探す方法は色のイメージだ。本から発せられた色のイメージで選ぶ。ここの世界ではそうして生活をしている。

 僕が求めていたのは、黒色だった。

 しかし、黒色は誰でも簡単に読むことはできないとわかっていた。

 黒の本は図書館の奥、閉鎖された空間に貯蔵してあるからだ。

 読むためには管理人の許可が必要だった。

 過去に黒の本の影響で、身体を壊す人が多発したそうだ。

 僕が生まれるずっと前の話だけど。

 それ以降、管理人の許可がなければ決して読むことができなくなってしまった。

 僕は管理人のミラに話しかけた。

 ミラは40歳ほどの女性の姿をしている。

「ミラ、今日は黒の本を読みたいんだけど良いかな?」

 僕は当然入れる自信があった。

 というのも、まだ子供の僕は勉強を沢山しなければならなかったので、この図書館には頻繁に通っていた。ミラともよく話していたし、勉強熱心だねと、褒めてくれたこともあった。

 そんな僕なら、いくら封鎖されている黒の本でも、勉強のためならと、読ませてくれるだろうと思ったからだ。

 笑顔の僕に対して、ミラは少し眉間に皺を寄せて言ってきた。

「あなた、本当に読む覚悟はあるの?」

「今までもね、あなたみたいな若い子供が黒の本を読みたいと言ってきたけど、もう後悔させたくなくて、最近はまったく読ませてないのよ」

「私は管理人としての責務がある。だからあなたの頼みは聞けないわ」

 驚いた。ミラは今まで否定せず、なんでも親切に教えてくれていた。だから、すんなり通してくれると思った。

「ミラ、なんでなの?僕は知りたいだけなんだ、一緒にいる慶太になにがあるのかを」

「私はここの管理人。想いを司る者だから、全てわかっているわ。だけど、わかった上であなたには黒の本は読ませられない」

「あなたは若い。その不安定な心は簡単に蝕まれてしまう。そんなリスクは犯せないの」

 黒の本がそこまで禁忌の存在とは知らなかった。

ただの知識や興味本位では手を出していけないものだったのか。

「わかったよミラ。それならお願いがある…」



 僕は木でできた滑らかな椅子に座り、机の上に一冊本を置いた。

 この本は白の本だ。

 僕はミラに限りなく純度の良い、白の本を選んでもらった。

 古来より白は黒の対極に位置する色だ。

 陰と陽、影と光、など様々なところで表現されてきた。

 白を黒で消すこともできれば、黒を白で消すこともできる。互いが対等な関係にある存在だった。

 そんな白の中でも、限りなく白に近い、純度の良い白の本を読めば、対極に位置する黒のことが記されていると考えたのだ。

 僕はまだ未熟で、色の詳細なイメージまではわからない。だから、それがわかるミラに、選んでもらうことにした。

 ミラもそれなら許可をしてくれた。

 黒を直接覗くのではなく、白を通して、知るだけなら大丈夫だと言われて、この本を渡された。

 本を開くと僕の頭はイメージで満たされた。

 心地良く、尊い存在のイメージ。恐らくこの本は先生のイメージが記されているのだろう。

 先生のおこないが頭の中を駆け巡る。

 僕では決して知り得ないような境地。成し遂げてきた功績や創造したもの全てが、壮大だった。

 ただ、その陰には常に黒がいた。正確には虚無。虚の存在だ。

 虚は先生とは対極の存在だった。虚はいつも求めていた。創り出したものが失われることを。

 嘆いていた。自分にはそれがないことを。

 白を通して見ているはずなのに、虚の黒さに悲しさを覚えてしまった。

 少しばかりの同情までも。

 そんな虚を見ていると、突然こちらを認識したように思えた。

 そして、イメージのはずなのに、僕に向かって直接的に問いかけてくる。

「邪魔をするな…」

 突如、僕は首を絞められているかのように、息苦しくなった。声が出せずに悶え苦しむ。

 バタンッ!

 急に本が閉じられた。

「ここまでね」

 横にいたのはミラだった。

「まだ続きが見たい。じゃないと慶太のことがわからないんだ!」

「この本をよく見なさい」

 僕は言われるがまま、目の前の本に目を向けた。

 そして目を疑った。

「この本はもう白じゃないわ。灰色になってきているでしょ。黒に近づいている証拠よ」

「だから、もう読ませられない。あなたはあの存在に一瞬でも触れたから、俯瞰で見ることができなくなったのよ」

「これでわかったでしょ。黒というのがどれだけ危険か」

 僕は甘かった。こんな存在が慶太の中にいるのか。どうすればいいんだ…

「あなたが自分でなんとかできるように、先生から助言は止められていたけど、これだけは伝えておくわね」

「あなたしか慶太くんを助けてあげられないのよ」

 どうしてなんだ。なぜ僕にしか…

 その理由を聞くことはできなかった。

 こんな存在に一体どうやって立ち向かっていけばいいのか?

 これ以上ここにいても状況はなにも変わらない。

 僕は途方に暮れながら自分の家へ帰って行った。

 今頃、目的を見つけて旅先にいるはずだったのに、自宅で考え込んでいるとは思わなかった。

 ただ一つだけわかったことがある。

 それは慶太には虚と言う存在が入り込んでいることだ。

 この存在を取り除かないことには慶太は救われない。原因はいじめっ子の秀樹ではなかったんだ。

 あのとき、先生の問いかけに耳を傾けていれば、こんなことにならなかったのに。

 先生には一回しか頼ることができない。

 そういうルールだから。もう僕一人でなんとかするしかない。でないとまた慶太に不幸が降りかかってしまう。そして、いずれは奪われてしまう。

 僕は自分自身に誓った。慶太から虚がいなくなるまで、ずっとそばにいると。

 それから僕は、小学校を卒業したら離れるという当初の予定を変更して、中学校でも一緒にいることにした。

 慶太とは一緒のクラスになれなかったけど、なるべく近くにいるようにした。慶太は部活に入部しなかったから、僕も同じように入部せず、一緒に下校するようにして、片時も離れなかった。

 慶太と一緒にいることに時間を費やしていると、本来の寄り添う存在として、役目を全うすることができなかったので、夏休みや冬休みの、まとまった時間で役目をこなしていた。

 慶太とは会いたかったけど、ここだけは我慢していた。

 先生とは一切会うことができず、一人ぼっちで頼れるレールがないまま歩み続けた。

 中学卒業後、高校も、もちろん同じ学校へ通った。

 慶太は僕のことが嫌いになっていないようだ。彼からはなにを言われても、笑ってやり過ごしていた。

 もし嫌われてしまったら。今後近づきたくても、近づけない状況になってしまうかもしれない。

 僕はそれが怖かった。

 だけど、学生時代、一度だけわがままを言ったことがある。

 それは、高校入学後の部活見学の時に遡る。

 放課後、多くの生徒が、初めてできた友達や、一人で、部活の見学に向かっている中、僕と慶太は教室で学校のパンフレットを眺めていた。

 まだ入部はおろか、見学したい部活すら決まっていなかった僕たちは、中学校で部活に参加していなかったのが仇となって、雰囲気が掴めていなかった。

 初心者歓迎の文言もどこまでが初心者なのかわからなくなっていて、中々一歩が踏み出せなかった。

 僕の意見としては、慶太がやりたいと思う部活があるならそれで良かった。

 そこについて行き、一緒に入部するつもりだったから。

 だけど、考え込む慶太は、ぼそっと。

「俺運動あんまり得意じゃないから、文化系ならなんでもいいや」と口をこぼした。

「なんでもいい」その言葉は優柔不断だ考え方だ。

 心の揺らぎや自分が持てないと、すぐに隙ができてしまう。そうやって適当に始めたことには後悔が待っている気がした。

 だから、僕は初めて慶太に対してわがままを言った。

「バドミントン部に入りたい」

 僕は慶太に強引でもいいから、なにか一つに決めるという意思を持ってもらいたかった。

 興味は後からついてきてもいい。だから、今だけは僕のわがままで引っ張ってあげたかった。

 とういうのは、理由の一つで、他にもバドミントンをやりたい理由があった。

 あれは、小学生の頃、慶太と滅多に遊ばない公園で遊んだ日の出来事。

 僕たちはゲームばかりしていたから、部屋で遊ぶことに慣れていた。

 外で身体を動かすことが嫌いではなかったけど、いつも、選択肢には上がらなかった。

 そんな慶太が、ある日、100円均一のお店でお菓子を買いたいと言い出した。

 僕は慶太とならどこでも行きたいし、断る理由もなかったから、一緒について行った。

 お菓子を見ている慶太の横で、僕は反対側に陳列されている玩具を見ていた。

 100円均一はとても100円とは思えないような素晴らしい品質と、飽きないほどの品数がある。

 玩具一つとっても商品棚三列分くらいの量だった。

 僕はそんな玩具の中で、隅にあったバドミントンラケットに手を伸ばした。

 特に思い入れがあるわけではなかったけど、これも100円で買えるのかと感心していた。

 そんな僕の様子を見ていた慶太が、突然言ってきた。

「渚沙バドミントンやりたいのか?」

「別にそういうわけではないよ」

「けど、やりたそうじゃん。買ってやるよ。一緒にやろうぜ」

 流れるようにラケットを手に取り、お菓子と一緒に会計口へ並ぶ慶太。

 僕はそのスマートさに口を挟む余裕がなかった。

 彼はなんの気も無しにおこなった言動かもしれない。

 だけど、僕にとって、あのラケットはプレゼントだったし、一緒にバドミントンをやることはサプライズと同等の価値があった。

 そんなバドミントンが忘れられないほど鮮明に、僕の思い出として残っていたので、こんな機会があるなら、また一緒にやりたかった。

 だからこそ、どうしても自分の意見を通したかった。

「しょうがないな、それなら見学行ってみるか?」

 慶太は少しだけ不満そうだったけど、了承してくれた。

 部活は楽しかった。先輩にも恵まれて、慶太が僕以外の人と話しているのを見て安心した。

 お互い思ったよりセンスがあったみたいで、2年の終わりにはレギュラー入りできた。

 月日は流れ、3年生最後の大会。結果は準々決勝でストレート負けをし、呆気なく終わってしまった。

 僕もそれなりに悔しかった。だけど、優勝なんかよりも嬉しい出来事があった。

 慶太が涙を流していたからだ。

 涙を流すくらい熱を注いで、心を熱くさせた3年間だったということだろう。

 誘って良かった。これで慶太の心の隙間が埋まっていくと思っていた。

 そんな慶太に、僕は微笑みかけた。あのとき、笑顔だった僕を慶太がどう思っていたかはわからないが。

 

 部活が終わって、すぐに就職活動が始まった。

 お互い第一志望の会社に就職できて、喜んだ。

 僕はこの世界で生きていく必要があるから、高校までは養ってもらっていたけど、社会人からは自分で稼がないといけない。

 アパートを借りて本格的にこの世界での生活が始まった。

 20歳になるまでの二年間は、たまに顔を合わせるくらいで、頻繁には会えていなかった。

 慶太のことが心配だったけど、僕も社会人生活に馴染めなくて、それどころじゃなかった。

 そんなある日、慶太から一通のメールが入った。

「祖母が亡くなった。今日通夜をやるからその後、葬式をする予定。もしこれるなら、来て欲しい」

 万智さん亡くなったのか…

 僕は人の死を多く見てきた。人というのは死に直面したとき、自分や他者に対して願うからだ。

 お金や、権力、人間自身ではどうすることもできないとき、最後に頼るのは祈りだ。

 寄り添う者として、その声は、死の淵に響き渡っている。

 しかし、多く見てきた僕でも万智さんの死には個人的な強い悲しみを感じた。

 万智さんとは学生時代からよく顔を合わせていた。沢山お話しもした。

 物腰は柔らかだけど、しっかり意思を持っていて、芯が通っている人で、あの人はきっと色々な苦難を乗り越えてきたのだろうと思い知らさせれるほどに、心が育っていた。

 ただ、僕が万智さんを想うのには、大きな理由があった。

 小学6年生、僕が慶太の家で遊ぶようになり始めた頃。慶太の口に触れてしまったあの日、万智さんは家にはいなかったけど、帰ってきたとき、慶太から一連の話を聞かされたという。

 慶太は次の日すっかり忘れてしまっていて、不思議に思ったそうだが、追求はせず、僕にこっそり話してくれた。

「渚沙くん、慶太から聞いたよ。慶太は忘れちゃってるみたいだけどね。本気なの?」

「わかりません…ごめんなさい。万智さん」

「渚沙くんは自分のことが好きかい?」

「え?…、自分を産んでくれた親同様に愛してはいますが?」

「それなら大丈夫。自分のことが好きならば、そんな好きな自分がとった行動なら、過ちではないよ」

 先生と話しているみたいだった。

 僕の心は目の前にいる、寄り添うべき者の言葉に支えられていた。こんな人が慶太の近くにいてくれて良かったと思える。

 それから、万智さんがこの話をすることはなくなった。今まで通り変わらずに接してくれた。

 そんな万智さんがこの世を去った。

 僕は興味があった。あの人が一体どんな人生を歩んできたのか、その軌跡を。

 会社に有休の連絡を入れた僕は、すぐに長野の葬式会場へ向かうことにした。

 慶太は大丈夫かな?

 そんな不安を抱えながら、到着すると、そこは、少しだけ規模の大きな葬式会場だった。

 家族は慶太以外いないと聞いていたが、親戚だけで、多くの人が集まっていた。

 それだけ人望が厚かったということか。

 葬式会場の奥には慶太がいた。

 立派に参列者へ挨拶をしている。そんな姿が誇らしかった。

「慶太、最後におばあちゃんと過ごせて良かったね」

 そう声をかけると、慶太は泣きそうになっていた。

 葬式は始まり、僕は焼香を上げるために、万智さんが眠る棺の前に立った。

 そこで、少しだけ話をした。

 僕は少しだけ死者と話ができる。

 まだ天は登っていない、今だけしかできないけど。

 万智さんの声が脳に響く

「来てくれたんだね。ありがとう。慶太にはあなたが必要だから、助けてやってほしい」

「万智さん。言われなくてもそうするつもりですよ。あなたは、よく頑張って人生を歩みました。きっとこの先も心地良い世界が待っていますよ」

「そうかい。それは良かったよ。不思議だったけど、死んでやっとわかったよ。あんたは尊い存在だったんだね」

「そう呼ぶ人もいますね。ただ僕はあなたに助けられました。あなたも素晴らしい存在です」

「だけど、僕が慶太に寄り添えるのか、不安な気持ちがあります。僕で良いのでしょうか?死者にこんなことを聞くのは失礼なのですが…」

「渚沙くん。昔言ったよね、あなたは自分が好きだから大丈夫だって。あなたがあなたでいる限り、慶太を守ることはきっとできるよ、例えどんなものが慶太の中にいたとしても…」

「万智さん知ってたんですか?」

「さぁね…年の功ってやつだよ。渚沙くんなら大丈夫…」

 励ましや安心を残してくれた万智さんの心は霧のように空へと消えていった。

 僕みたいに直接的には知覚していなくても、感じていたのかもしれない。虚な存在を。

 僕は託された。万智さんが支えてきてくれた、慶太を、次は僕が支える番だと確信した。

 その日は万智さんの家で慶太と二人で過ごした。

 部屋中に暖かい想いが溢れていて、とても居心地が良かった。

 育ってきた環境があの人の心を作り、また他者を救う心を作ったのだろう。

 万智さんの葬式後、帰宅した僕は、考え込んでいた。一体僕はなにをしたらいいのか?

 寄り添うだけではダメだった。それは、今までの経験が物語っている。何年経っても、彼の中で蠢く存在は消えず、尚且つ、年々増してきている気がする。

 僕は今までのことを思い返す中で、唯一効果的だったあることを思い出した。

 慶太はいつも流されるようにして生きている。特に干渉せず、唯一反抗するのも僕だけ、だけど、なにかを考えているときの慶太はに見えた。

 とは文字通りだが、とても良いことでもある。悪い状態が普通の状態になることは大きい進歩だ。

 恐らく推測だが、慶太は自分から物事を考えることで、心の隙が満たされていくのかもしれない。そう考えた。

 色々考えた末、僕は慶太に哲学を教える会を提案した。考えることでいずれは消えてなくなってくれると思ったからだ。

 慶太は理解できない面持ちだったけど、半ば強引に開催した。

 僕にも彼にも時間が迫っていたから…

 

 数ヶ月前先生と久しぶりに会うことができた。 

 僕は話したいことや助言してもらいたいことが沢山あった。

 だけど、先生は淡々と伝えてきた。

「あと二年だけ待ってあげます」

 その言葉で全てを悟った。

 僕は本来小学校を卒業したら慶太と離れるはずだった。それが今では社会人となっても一緒にいる。

 それはあってはならないことだった。

 寄り添う者は一人に固執してはならない。

 生まれた時から教えられてきたことだ。

 こんなに長くいられたのも、多分ミラが止めていてくれたんだと思う。

 僕も虚に触れてわかった。これ以上長引けば、被害は慶太だけでなく、その周りへと連鎖的に広がってしまう。

 そうなったら白と黒のバランスが崩れかねない。

「わかりました…」

 喉の奥から、反抗の意を唱えたい気持ちが溢れ出しそうだったが、堪えて従順に従うことしかできなかった。

 だからこそ、悠長に考えている暇はなかった。

 ファミレスで開催される哲学会が始まってから、しばらく経つが、相変わらず慶太の中の存在は消えてくれない。

 それに、規模も変わらない。

 不安ばかりが募っていったが、そんな僕をよそに、慶太は面倒な面持ちで考えたふりをしている。

 何度か、考えさせようとしたが、興味がないのだから仕方がない。

 焦りがでてきてしまう。僕は虚に触れている。だからこそ、その凶悪さがわかる。もしこんな存在が世に充満すれば、どれだけの人が苦しむか想像すらできない。

 僕は哲学のテーマを考えながら、毎晩、虚のことを考えていた。いつのまにか、僕自身が虚に魅了されているとも知らずに…

 11月24日、慶太の誕生日が近づく、もうすぐ二年が経ってしまう。

 ひたすらファミレスで会う日々、その間にも色々調べていた。

 会社が休みの日は、図書館へ行き、片っ端から本を読んでいた。黒の本は読めないから、別の色しか読めなかったが。

 誕生日まで二週間を切ったある日。僕は相変わらず本を読んでいた。

 無作為に読み漁る中、横から一つの本が机に置かれた。

 色は茶色の本だ。表紙も題名もある、ただの本、慶太の世界の本だ。

 置いてきたのはミラだった。

「なんで僕たちの本じゃなくて、こんなものを置くの?これを書いたのは寄り添われる側の者でしょ?そんなの読んだって意味がないよ」

 焦っていた僕は強いく当たってしまった。

「案外、あなたも同じかもよ?」

 ミラはそう言い残して去っていった。

 どれだけ読んでも、何一つ進歩していなかった僕は、休憩のつもりで、ミラから渡された本を読むことにした。

「題名、魅了されて。作者が記されたページは破られている。表紙もインクが剥がされていた」

 変な本だな。とりあえず僕は読み進めることにした。 


 昔々、人々が生まれた大昔。繁栄と衰退を繰り返し、階段のように登っていく人類はその過程で心を成熟させていきました。しかし、同時にその心に魅了された存在が現れたのです。その存在は人々を苦しめて、まるで自ら選択したかのように、心を差し出させていました。

 時は流れ、ある、寄り添う者が生まれました。当時、「彼」となっていたその者は教えを信じ、様々な苦難から人々を救っていました。

 しかし、繰り返される救いの日々の中で、彼の心には、ある感情が生まれました。

 彼は寄り添う者でありながら、寄り添われる者の感情が欲しくなったのです。

 彼は探しました。手に入れる方法を。

 そして、一番避けなければならない道を見つけてしまったのです。

 それは、自分が救うべき人々の中に潜む、その存在と取引をすることでした。

 彼は奪った心を分けてもらうという取引をしてしまったのです。

 当然、それを知った他の者や、統率している存在は彼に制裁を加えました。

 二度と寄り添う者や寄り添われる者に干渉できないように、幽閉したのです。

 取引をしていた、その存在は、彼に自分の力を分け与えました。

 力を得た彼は、寄り添う者を統率している存在に対して、反旗を翻しました。

 しかし、一人ぼっちだった彼は、あっけなく敗れてしまいました。

 這いつくばる彼に対して、統率する存在は、慈悲を与えました。

 一週間だけ寄り添われる者になれるという条件を。

 今、私は残された一週間でこの本を執筆しています。

 心はあの存在によって、侵食されていっています。恐らく私と契約したあの存在は、私の心を奪うために、少し力を与えて、敗北させることで、あえて入る隙を作らせたのでしょう。

 今考えても遅いことですが。

 あの存在は心の隙間に穴を開けて混沌へと誘おうとします。そう、まるでのように。

 私は僅かに残った、寄り添う者としての記憶を統率する存在へ渡しました。

 この記憶を使って黒の本を作ってくれるはずです。この本が寄り添う者の教訓となるでしょう。

 執着は心を盲目にさせます。

 欲しかったものは、あの心だったはずなのに、いつのまにか全てを奪われてしまいました。

 一度立ち止まって、自分の心を覗いてみてください。

 この本が迷える者に届くことを祈って…

 

 本を読み終えて、僕は考え込んだ。恐らく、この話は、僕が昔話で聞かされたことのある、戦争の話だと思う。

 まさか、戦争の裏にこんな経緯があったなんて知らなかった。

 彼がしたことは許されるおこないではないとわかっているが、今の僕と似ている気がして、どうしても同情してしまう自分がいた。

 この人が、人の心のどこを欲しがったのかはわからない。だけど、きっと自分にないものに憧れを抱いてしまったんだと思う。

 虚、彼、僕、誰もが人の心を求めている存在だ。

 それは一歩間違えると、奪うという思考に変化してしまう危険な思想だ。

 僕は、虚や彼みたいに奪う存在になってはいけない。

 きっと、虚に魅せられていたのは慶太ではなく、僕だったのかもしれない。

 慶太を助けたいという気持ちが先行するあまり、肝心な目的を見失っていた気がする。

 自分を蔑ろにして、慶太ばかりに目を向けることで、忘れようとしていたのかもしれない。

「ミラ、この本はどこで手に入れたの?」

「ずっと昔にね、私の知り合いがくれたのよ」

「未来に向けて渡してほしいって言われてね」

 ミラは懐かしんでいるようで、どこか哀しそうな顔で答えた。

 この本のおかげで、僕は見つめ直すべき対象が自分であることに気付かされた。

 そこで、ミラにあるお願いをした。

「ミラ、色の本は先生が作っているんだよね?一体どこで作っているの?」

「そんなことを聞いてどうするの?」

「知りたいんだ、自分の色を」

「あなたのやりたいことがなんとなくわかったわ」

「先生は本を作るとき、いつもこの図書館の地下に来るわ」

「ただ、気まぐれだから、いつ来るかは、わからないわよ」

「それだけ知れれば大丈夫。何度も地下室に顔を出してみるよ」

 目の前の目的がはっきり見えてきた僕は、本をミラに返して、家に帰った。

 

 元気そうでよかった…


 次の日から、毎日、図書館の地下室へ顔を出した。

来る日も来る日も顔を出したが、先生の姿はない。

約束の二年まであと一週間を切っていた。

 焦る気持ちもあったけど、僕は先生が来てくれると確信していた。

 僕は寄り添う者として、先生を信じる。

「どうか姿を見せてください」地下室で必死に祈り続ける毎日。

 慶太の誕生日、丁度二年が経過するまであと一日、僕は諦めないで願い続けた。

 仕事終わりで毎日来ていたからなのか、身体の疲労は蓄積していたが、そんなことはどうでも良かった。

 これ以外の手段が思い浮かばなかった。

 両膝をついて手を合わせていると、入り口から待ち侘びた声が聞こえた。

「待たせてごめんね」

 振り返るとそこには先生がいた。

「お待ちしてました!やっと会うことができました」

 僕はまるで全て解決したかのように安堵した。

「渚沙、今からが本番でしょ、君がやりたいことはわかっているよ」

 先生は全てを見透かしているようで、僕を地下室の真ん中に置いてある椅子へ座るように促した。

「これから渚沙は自分で自分を知る経験をすることになる。そこでなにを見ても自分を保ち続けるんだよ」

「わかりました。自分を知るために頑張ります」

 内心、怖かった。先生に忠告を受けると、これから酷いことが起こる予感がしてしまう。

 だけど、僕と慶太のために、やるしかない。その固い意志が揺らぐことはなかった。

「始めるよ…」

 目を閉じた僕の額に先生の手が触れる。

 すると、僕の目の前は光に包まれて、直後、急に暗闇へと消えていった。

 目を開くとそこは地下室ではなかった。

 見渡す限りの田園、ここはどこだろう?こんな記憶、僕にはない。

 立ち尽くしていると、後ろから声が聞こえてきた。

「おい!吉永よしね探したぞ!」

 誰のことだ?

 近づいてきた男を見て、僕は驚いた。目の前にいるのは小学生の頃の慶太だった。

 よく見ると僕の身体も小学生の頃の姿だった。

「お前なにしてたんだよこんなところで?」

 惚けた顔で話す慶太に、僕は確認した。

「君は慶太だよね?僕は渚沙だよ?」

「なんだそれ?なぎ…なに?」

「おいらは《たきち》田佶だぞ、ぼくとか、きみって、変だなおめぇ、頭でもおかしくなったか?」

 彼は慶太のはずだけど、違うと言い張る。僕も渚沙のはずだけど、名前が違う。

 理解ができない状況だ。それに、僕と彼の服装も気になる。

 薄汚れて、少し泥がついた、白色の法被のような着物。歴史の教科書で見たことある。恐らくだけど、江戸時代くらいのものだろう。

 この服装は下人、つまり身分の低い人が着ていた服だ。

「吉永、あっちの方に良い寝床を見つけたぞ!ついてこい!」

 僕はここで口論しても、なにも進展しないと思ったので、とりあえず着いていくことにした。

「なんだここは?!ここが寝床?」

 思わず口に出してしまった。

「ひでぇな、結構探したんだぞ」

 森の中、岩と岩の隙間にどこからか持ってきたのであろう藁が積まれていて、上にも木の枝を支えに藁でできた屋根が作られていた。

「作るの大変だったんだからな、これなら屋根もあって雨風が凌げるぞ、前の寝床は見つかっちまってあらされたからな、ここなら誰にも見つからねぇ」

「おめぇの持ってきたもの見せろよ」

「なにを見せるんだ?」

「食いもん持ってくるのがおめぇのやることだっただろう」

 田佶は徐に僕の胸元へ手を突っ込んだ。

 すると、そこから小ぶりな柿が二つ出てきた。

「あるじゃねぇか!良くやった!これで今日はご飯にこまらねぇな!」

 田佶は嬉しそうに、絵に描くような飛び上がりを見せていた。

 僕はこの状況が掴めなかったが、目の前で喜んでいる田佶を見て嬉しく思った。

 それから僕たちは、寝床で柿を食べながら話した。 

 ことの経緯、僕は渚沙ということ、彼が慶太に似ていること、どうしてこうなったか、など沢山話した。

 田佶からも吉永との関係や、どうしてこんな生活を送っているのか、全て話してくれた。

 彼は理解が柔軟で、あまり驚かずに聞いてくれた。

 全てを聞き終えた田佶は空を見上げながら語り出した。

「その未来っつうのは、いいなぁ、おいらも行ってみてぇや。慶太もおいらと同じで親がいないのかもしれないけど、それでも幸せだろうなぁ」

 確かにそうだと思う。ここまで酷い生活に比べたら、僕たちの時代は恵まれている。

 寄り添う者は全てに対応できない。そのため、一定数こういった苦しむ人間も出てしまう。それが世界のバランスだから。悲しいけど、受け入れるしかない。

「なぁ、さっき話してた虚っつうやつだけどよ、多分俺の中にもいるぞ、吉永が言ってたから」

 僕は目を見開いた。なぜいるんだ?本当だったらまずいんじゃないのか?

「吉永はよぉ、すごい良いやつなんだ。だけど、最近では虚の話ばっかしてきてよ、どうしちまったのか」

「だから今日も別の名前を言い出したからとうとう頭がおかしくなっちまったのかと思ったんだよ」

 そうだとしたら、恐らくこの身体の持ち主である、吉永という人間は寄り添う者の可能性が高い。そして、田佶の虚を追い払おうとしていたのかもしれない。

 自分と酷似する状況だったので、理解がスムーズに進行していった。

 なにかヒントになると思った僕は田佶に確認した。

「その、吉永は虚に関してなにか言ってなかったか?どうしたらいなくなるとか?」

「いいや、いなくなるどころか、ちっとも消えてくれないって嘆いていたよ。おいらにはなんのことかさっぱりだったけどよ」

「あっ、けど少し前に珍しく明るい顔してたなあいつ、なんか、約束してきたから大丈夫とか言ってたぞ」

 約束ってなんのことだ?誰と?先生とか?だけど、先生は直接虚に手を下すことはできないはず。

「その、約束相手って誰のことかわかるか?」

「虚って言ってたぞ」

 僕はその言葉を聞いて、なんとなくだけど、この二人が今後どうなるのかがわかった。そして、それは僕が知っている、あの出来事の可能性ということも。

「おいらは、ただ、吉永と一緒にいられればそれで良かったのによぉ、あいつが離れていっちまってる気がして、おいらも胸のところが空っぽになっていくんだ…どうすればいいのか」

 僕は答えられなかった。この先二人に待っている残酷な運命を、とても伝えることなんてできなかった。

「次は大丈夫だよ…」

 僕はこんな言葉しかかけることができなかった。

 だけど、田佶は微笑みながら「ありがとう…」と返してくれた。

 その瞬間また目の前が光に包まれた…


 目を覚ますと、そこは馴染みのある、慶太の家だった。

 横でゲームをしている、小学生の慶太。

 この状況を僕は覚えている。そして、この後起こることも。

 寝転ぶ慶太。僕は慶太の顔を見ている。心の中でダメだと止めようとしても、まるで操り人形のように身体が動く。過去のレールは確定条件のように、逸脱せず真っ直ぐ向かっていく。それに抗うことなんてできなかった。

 僕は目を力強く瞑りながらなすすべなく、慶太に顔を近づけた。

 後少しで触れてしまいそうになった瞬間、慶太から声が聞こえた。

「お前はどうしたい?…」

 僕が目を開くと、慶太も目を開けていた。

 再度聞いてくる。

「お前はどうしたい?虚を消す取引をしてもいいんだぞ」

 この声は慶太だけど、話しているのは違う、色の本で触れていたから、直感的にわかった。これは虚だ。

「取引なんてしない。僕は過ちを繰り返さない」

「良いのか?取引しなければもうすぐこいつはいなくなるが?」

「僕は…」

 言葉が詰まった。強気で言ったのはいいが、どうすることもできないとわかっていたから。

 そのとき、また別の声が聞こえた。

「渚沙はどうしたい?」

 この声は慶太だ。一瞬だったけど、虚ではなく慶太が話した。

 その声を聞いて心が決まった。

「僕は慶太と一緒にいたい。それだけだ」

「それがお前の答えか、面倒だが、結局お前はお前だ。なにも変えることはできない…」

 そう言って目を閉じた慶太。

 僕は迷わず慶太の口に触れた。

 またしても目の前は明るくなり、気がつくと、図書館の地下室に戻っていた。

 先生は僕を微笑ましい顔で見ている。

「お帰り、渚沙。手を見てごらん」

 言われた通り手を開くと、そこにはハートのペンダントが握られていた。

「これは…」

「私が作る色の本はあくまで様々な想いが本のように形を成したもの」

「渚沙はそのペンダントだったということだね」

 僕はやり遂げた、まだ慶太を助けなければいけない使命は残っているけど、自分自身を助けることはできた。

 もう迷わない。揺るがない想いを見つけることができたから。

 ミラが読ませてくれた本と、先生のおかげで、気付くことができた。

 輪廻転生、生まれ変わり。このような概念は人間が作ったものだ。死を恐れるのではなく、新しい世界が待っていると幸福に向かえるよう考えた。

 僕には彼の記憶はない。だけど、心が覚えている。過去、彼だったはずの僕が心の中にいる。

 あの頃の記憶を取り戻したいとは思わない。だけど、寄り添う者として、また生まれることができた僕は、今度は同じ過ちを犯してはならない。

 一番大切なことを忘れていた。なんのために寄り添う者なのか。

 僕は虚に侵食されていく、慶太を守りたい。それ以外考えていなかった。

 本当に大切なのは、僕と慶太が幸せなことのはずなのに…

 自分がこれから取るべき行動がわかった。

「先生ありがとうございます!」僕は足早に出口へと向かった。

「久しぶり…わかったのね…」

 地下から出てきて、出口へと走る僕に対して、ミラは微笑みながら呟いた。

 僕は頷きながら、図書館を飛び出した。

 ハートのペンダントを握りしめて…


 今日11月24日は慶太の誕生日、彼とはいつものようにファミレスで会う約束をしていた。

 今日が先生から告げられたタイムリミットだ。

 僕に残された手段はただ一つ、このペンダントを慶太に渡すことだ。

 明日以降、僕は直接慶太に干渉することができなくなる。

 仕事を終えた僕は、一度家に帰り、ファミレスへ行く準備をしていた。

 これが最後かもしれない。僕の想いがこもったこのハートのペンダントが一体、慶太にどんな幸福をもたらすのか?もしかしたら、これが不幸の元になるかもしれない。

 先が読めないこの状況が、本当の人生のような気がした。

 今までは、なんでも指揮をして導いているつもりだった。慶太のことを支えながら、良い方向へ導く、指導者のような気分だった。

 慶太と出会ってから、無我夢中で歩んできた十数年。本当の意味で、自分と彼を信じて進むしかない、初めての経験が訪れていた。

 僕はハートのペンダントを握りしめて、祈った。少しでもこのペンダントに力がこもるように祈った。

それしかできなかった。

 ファミレスへ早めに着いた僕は、慶太を待った。

 席に座った僕の所へ、水を持ってきたのは、僕たちがこの店で会うようになった当時から働いている、遠藤さんだった。

 遠藤さんはいつものように水を渡してきて、

「ご注文が決まりましたらお呼びください」と言って去ろうとする。

 しかし、今日はいつもと違い、去る直前にもう一言付け加えてきた。

「今後もお二人でお越しくださいね」

 突然言われたから、びっくりしたが、遠藤さんは一体なにを感じたのだろう?

 不思議とその言葉は僕を勇気づけてくれた。

「もちろんです。ありがとうございます」

 僕がお礼を言うと、笑顔で厨房へと戻っていった。

 ペンダントを見つめながら待つ中、店の入り口に設置してあるベルが鳴り響く。

 扉を開けて入ってきたのは、慶太だった。

 店内を見渡して、僕を見つけた慶太は、少しだけ笑みを浮かべながら、嬉しそうにこちらへ向かってきた。

「俺の誕生日でも、準備していたのか?」

 誕生日プレゼントを渡し合ったことなんてなかったから、冗談のつもりで言っているのだろう。

 だけど、今回は誕生日プレゼントとして渡すのに相応しいものを用意してある。

 きっと驚くだろうと思った僕は、なにかが違うと、慶太に伝えた。

 慶太は反応に困っている。この後まさか自分が贈られる側になるとは露知らずに。

 席についてから、注文を終えるまで、どこか心ここに在らずといった面持ちで、とりあえず口を動かしているように見えた。

 僕はきっと、なにか聞きたいことがあるんだと感じた。それは、恐らく慶太の中でずっとしこりのように残っているものなんだと思う。

 難しい原理はわからないけど、僕にはそういうのが感じ取れる。

 だから、注文を終えたタイミングで、中々言い出さない慶太に、きっかけを与えることにしてみた。

「なにか僕に話したいことでもあるの?」

 そう言うと、慶太の瞳孔はわかりやすく開いた。

 そして、心配そうな表情をして訪ねてきた。その表情は、昔一緒にトランプタワーを作ったときに見せた、緊張と不安が混じったような顔と似ていた。

 きっと万智さんに関係する話だろう。

 あの人が亡くなったときから、慶太はなにかを胸に秘めていた。それも感じ取っていた。

 だけど、あえて聞かないでおいた。

 自分から聞きたいと思わなければ、意味がなかったから。

 その考えは正しかったようで、どうやら、万智さんから、僕のことが大切な存在だと伝えられていたらしい。

 そして、そんな万智さんが亡くなったときの顔が一瞬微笑んでいるように見えて、それが僕と似ていたのが気になっていたそうだ。

 彼女は慶太にとって、とても重要な存在であり、生きる希望になっていたと思う。だからこそ、大切な人から伝えられた言葉や、表情が印象に残っていたのだろう。

 答えは出してはいけない。きっと万智さんもそう思っているはずだ。だからこそ、抽象的にしか助言をしなかったんだと思う。

 僕は探し求めた。次は慶太の番だ。

 彼の探し求める先に、きっとその答えはあるはずだから。

 僕はそこで、答えを教えなかった。

 慶太もそれを感じ取ってくれたのか、それ以上深くは聞いてこなかった。

 会話が途切れ、しばらくの沈黙が続く。ペンダントをいつ渡せばいいのか迷っていた僕はこの沈黙が絶好の好機に思えた。

 ただ単純に、なんの脈略もなく渡せばいいのかもしれない。だって今日は彼の誕生日なのだから、プレゼントを渡すことは、別に変なことではない。

 だけど、このペンダントは、なにがあっても受け取って欲しかったから、余計な力が入ってしまっていた。

 僕はさっきまで席の横に置いていた、ハートのペンダントを握りしめて、取り出した。

 机の上に置かれたペンダントを見て、慶太は時が止まったかのように、目を動かさないでいる。

 誕生日プレゼントだと思ったのだろう、きっと誰しもがそう思うはず。

 だから、僕はこのペンダントをそういうことにした。その方が都合が良いから。

 慶太は、言葉に困っていた。

 プレゼントを贈られたらことに対する感謝の言葉は受け取ったが、プレゼントの内容に対する感謝の言葉は言えないでいるようだった。

 それもそのはず、慶太は普段アクセサリーを付けないし、ましてや、ハートのペンダントなんて、男性が付けるのには抵抗があると思う。

 慶太から、付けづらいと言われたが、ペンダントを渡す前から、ずっと付けていて欲しいと思って渡すつもりではなかったから、それでも良かった。

 付けることを拒絶している慶太に対して、僕はある提案をした。

「このペンダントを今日、寝る時に付けて欲しい」

 慶太はなぜ?と言わんばかりの面持ちをしていたが、僕の一生のお願いが効いたのか、細かいことは聞かないでくれた。

 寝る時に付けて欲しい、これには理由があった。

 今日僕たちが別れた瞬間から、慶太には一切の手出しができなくなる。そうなると、虚の独壇場だ。虚は心の奥に潜んでいる。だから、侵食を始めるのは現実ではなく無意識下の空間、つまり夢だ。一番危険なのは今日の夢。きっと攻めてくるに違いない。そんなとき、このペンダントで少しでも慶太を守りたかった。

 これで、僕のやれることは全部終わった。

 実際のところ、このペンダントにどれほどの力があるのか?どんな効果が発揮されるか?なんて細かいことはわからない。

 先生は知っているのだろうけど、僕は聞かずに無我夢中で飛び出してしまったから、今となっては知ることもできない。

 だけど、なんとなくわかる。きっとこのペンダントが慶太を守ってくれるということが。

 曖昧で説明のつかない感情に見えるが、どこか確信的な信頼感を感じる。それがこのペンダントに対する僕の評価だ。

 食事をした後、慶太とお別れをした。

 帰り際ある言葉を伝えてないことに気がついた。

「誕生日おめでとう、これからもよろしくね」

 咄嗟に伝えた。これからもよろしくねと言うのは僕の希望だ。これから、なんてあるのかわからないのに…

「今更かよ、ありがとな」

 照れ臭そうに笑う慶太を見て、微笑ましかった。

 再び車へと向かう慶太。その姿が遠のくにつれて、僕は胸が苦しくなった。もう会えないかもしれない、会えないだけならいい、もしかしたら、もう慶太が慶太でなくなってしまうかもしれない。

 一歩一歩、足を出す度に、不安が増していく。

「慶太!」

 一瞬だった。誰の声かと思うほど大きい声。慶太が驚いて振り返る。

 そこで初めて気づいた。今の声は僕が発していたことに。

 自分でもこんな声がでるとは思わなかった。

 学生時代の部活ですら大きい声を出すのが苦手だったのに。

 振り返った慶太に、全てを伝えたかった。今まで一緒にいた理由、僕が何者なのか、これからどんなことが起きるのか、全てだ。

 伝えてはいけない、それでは慶太自身のためにはならないとわかっていたから。

 喉の奥から吐き出そうな声を堪えていると、再び去っていってしまう慶太。

「頑張って…」

 最後に発したのは虚しく響く、励ましの言葉だけだった。

 

 家に帰った僕。やれることは全てやり切ったはずなのに、心のざわめきが一向に治らない。

 正解なんてなかった。もし正解を辿るのであれば、小学生の時まで巻き戻す必要がある。それくらい取り返しなんて、とっくにつかなくなっていたのだから。

 僕に今できるのは、願うことだけ。ただひたすらに、自分自身が作り上げたペンダントと、慶太のことを信じるしかない。

 この先、慶太が堕ちた人生、取り戻した人生、どちらを辿ったとしても、僕はそれを知ることはできないだろう。

 だから、この先は、今後先生から告げられることがなければ一生わからないままだ。

 不安をかき消すように、布団を被って、ひたすら願った。そうしていたら、気づくと眠っていた。

 気がつくと、僕は夢の中にいた。

 あり得ないことだった。僕たち寄り添う者は夢を見ないからだ。

 眠りにはつくが、あくまで身体を休めるためであって、夢という概念そのものがないのだ。

 辺りは光に包まれている。この空間にはなにもないが、まるで先生を見ているような心地良さは感じた。

 この感覚は本を作ろうとした時に感じた、あの心地良さと似ている。

 しばらくこの不思議な空間を歩き続けてみた。

 行き止まりもなければ、目立った変化も見られない。

 しかし、しばらく歩いていると、変化は訪れた。

 右前方に光のような、なにかが見えた。

 近寄ってみると、そこにはガラス窓のような霧が立ち込めていた。そのガラス窓の奥には風景が映し出されている。この風景は誰かが道を歩いている映像だ。どこから映し出されているのかはわからない。そもそもこの空間のことすら分からないのだから、なに一つ考察が進まない。

 その映像をしばらく見ていると、微かに声が聞こえてきた。

「確かこっちか…」

 この声は、慶太?確かに慶太の声だった。

 なにかを求めて彷徨っているのは慶太だった。

 僕は映像から見える目線で察しがついた。これは丁度胸元辺りからの映像だ。つまり、僕が渡したペンダントの目線からだと考えられる。

 今慶太がいる場所は恐らく知立市内。普段出歩くことがない慶太が、彷徨っているのは珍しいが、目的はわからなかった。

 僕はガラス越しに声をかけた。

「慶太!今どこにいるの?渚沙だよ!」

 必死に問いかけてみても、反応は一切返ってこない。僕は見ることしかできないのか。

 途方に暮れていると、また映像から声が聞こえた。

「ここだ。ケータイショップ」

 ケータイショップの目の前に立っていた慶太。彼は一体、ここでなにをするつもりなのだろう?

 店に入って待っている。

 僕は彼がここに来た理由が早く知りたかった。

 しかし、そんなことはどうでもよくなる出来事が目の前で起こり始めた。

 店員と客の言い争いがあちこちで始まったのだ。

 会話の内容を聞いて一瞬で理解した。

 死を慈しむ概念がない彼らは虚だと。そして、今慶太がいる世界は、虚の世界だということが。

「慶太!逃げて!」

 必死に叫ぶが、届かない。慶太はひどく動揺している。

 店員に囲まれてしまった慶太はそれでも動かないでいる。

 まともに会話なんてできない。それは彼も理解したと思う。だけど、一瞬の出来事すぎて、まだ身体の反応が追いついていないのだろう。

「慶太!慶太!」

 どれだけ叫んでも届かない。

「慶太!走って!」

 ギリギリのところで最後に伝えた言葉は慶太に届いた気がした。

 それと同時に彼は走り出して、店から出て行った。

 間一髪だった。もしも、あそこで襲われていたら、きっと慶太は今頃…

 考えるだけでも恐ろしい結末を避けられたことに一安心していた。

 店を出て立ち止まった慶太から声が聞こえる。

「渚沙…」

 僕は胸が熱くなった。きっと、僕の想いを感じ取ってくれたんだと思う。

 慶太は今、虚の世界に囚われている。それは夢という形を経由して現れた世界だ。

 この世界には、恐らく出口なんてものは存在しない。抜け出す方法はただ一つ。自分の想いを理解すること。

 虚に奪われ続け、抜けていった感情を取り戻すことが、ここから出るための手段だ。

 だけど、今の僕にはそれを伝えるすべがない。

 慶太は理解していないと思う。それは行動から見て取れる。

 今は、ペンダントとして一緒に寄り添って危険を伝えることしかできない。

 無力な自分に絶望してしまう。

 行き交う人々とすれ違うたびに、絶対接触してはダメだ!と念じながら慶太の道中を見守った。

 彼も疑いの目で見ているようで、誰とも接触していなかったのが幸いだった。

 進んでいる道を見ていると、なんとなくどこに向かっているのかわかった。

 恐らく終着点は僕の家だろう。

 慶太はきっと僕に逢おうとしているんだ。

 そして、この状況を説明して欲しいのだと思う。

 だけど、辿り着けても僕はいない。仮にそこに僕がいたとしても、それは虚が作り出した僕だ。

 ただただ、終わりに向かって歩み続ける慶太を見ていることしかできない。

 そんな最中、慶太はある人物と出会った。

 目の前から歩いてきたのは、宮坂秀樹だった。

 彼は小学生の頃、慶太と僕をいじめていた主犯格だ。

 久しぶりに見た彼は昔の面影を残したまま大人へと成長していた。

 彼は虚が作り出した存在ではなかった。

 こちらの世界に呼び出された、現実に存在する宮坂秀樹、本人だった。

 虚がなぜ彼を呼び出したのかはわからない。

 だけど、少なくとも慶太と深く関わった時点で、僕同様に、虚が心に入り込んでいた可能性がある。

 万智さんのように心が強くなければ、米粒のような虚が入り込むだけで、いつの間にか心全体にまで広がって蝕まれていたはず。

 引き込まれるということは、秀樹の心が弱かったということを物語っていた。

 慶太は信用はしていないようだったけど、この世界を生き抜く協力者として、秀樹を利用しているように見えた。

 こんな世界で人を信用するのは難しい。小学生の頃いじめていた人間なら余計できないはず。

 懸命な判断だと僕は思った。

 慶太と秀樹は一緒にこの世界を生き抜くため奮闘していた。

 彼らの会話は全て聞こえていたが、どちらも曝け出しているようで、本音は隠している。お互い、いじめた側といじめられた側の対局であり、密接に関わった関係だからこそ、少しの歪みで崩れ落ちるのを恐れていたのだろう。

 この世界で唯一まともに話せる相手を見つけた二人にとって、その歪みは重大な問題へと繋がってしまう。

 どちらかと言うと慶太の方が強気で話していたけど、会話ではなく報告に聞こえた。

 二人は今置かれた環境を確認しに行くようだ。

 家電量販店へ向かい、そこでテレビを見ている。

 僕は寄り添う者として凄く気分が悪くなった。虚が作り出す世界は、吐き気がする。

 生物を個としてではなく、自分の支配する餌として捉えるその概念に嫌悪する。

 人間にも家畜という概念があり、生きるために生物を食しているが、虚のそれは、食欲ではない。

 欲ではなく、自分を埋めるための探求に近いものだ。どれだけ埋めても埋まるはずがないのに、それを理解しながらも止まらない探求、それに今までどれだけの存在が犠牲となったか。

 一つですら、共感してはいけない。それだけ強大な暗闇が存在しているのだから。

 二人はテレビを見て、どうすることもできない、現状を理解したようだ。

 悲しみに暮れる中、秀樹より慶太の方が落ち着いて物事を見ていた。

 二人はすぐに、僕の家へ向かうという本来の目的を遂行しようと歩き始めていた。

 不安しかないのだろう。だけど歩むしか道はない。

 虚が探求するのであれば、こちらも探求するしかないのだ。自分の感情を。

 僕は、映像を見る中、一つ気がかりなことがあった。たまに映る秀樹の姿に違和感を感じていたのだ。彼は家電量販店で、テレビを見た後から、色が変わり始めている。慶太はまだ白に近い色を保っていたが、秀樹はというと灰色に近づいていた。

 このままではいずれ、黒になってしまい、虚に取り込まれてしまう。

 二人の意思は崖の寸前で保っている。少しの綻びで簡単に崩れてしまう可能性が高い。

 秀樹に情はないが、寄り添う者として、見過ごすことはできなかった。

 僕は秀樹にも大丈夫と想いを伝えるように努力していた。

 この想いが届いているのかはわからない。

 やがて、この二人の物語にも終わりが近づいていた。

 後方から車のエンジン音が聞こえる。

 この車は二人の横で停車した。

 中には慶太の両親と万智さんが乗っていた。いるはずのない存在。決定づけられた異常性に慶太は声を荒げていた。

 恐怖を怒りでかき消すように。

 秀樹は染まった。自分でも理解できない現状に絶望して、なす術なく黒に染まっていった。

 そして、無慈悲に虚へと取り込まれていった…

 なにもできなかった。どんな人間でも、別れは辛い。秀樹がおこなった昔の過ちは許されるものではない、だけど、大人になった今でも、後悔しているのであれば、少しの許しを与えても良かったはずだ。

 きっと、僕が自ら考える機会を奪ってしまったからなのかもしれない。あのとき、先生に頼んで無理やり引き離したせいで、彼は自分の過ちを顧みないまま、成長してしまった。

 僕のせいだったのか…

 自分が憎い。こんなので本当に寄り添う者なのか?自分の存在が偽りに思えてしまう。

 残酷だが、失ったものを嘆いている時間はない。

 今は慶太を助けなければいけない。それは困難なことかもしれないけど、可能性はゼロではない。きっかけさえ作れれば可能性はあるはずだ。

 なにが起こったか理解している僕に反して、秀樹がいなくなったことに激しく動揺している慶太。

 突然、目の前にいなくなったはずの家族が現れ、唯一、まともに話せる秀樹がいなくなった。

 願っているものは離れ、願っていないものが現れたのだ。動揺しない人間はいないだろう。

 慶太は身体を動かせないでいる。

 虚が本気で堕としにかかっているに違いない。

 なすすべなく車へ乗ろうとする慶太に、僕は励ましの言葉をかけることしかできなかった。

「あと少しだから頑張って…」

 あと少し、これを乗り越えて解決するとは思えない。だけど、慶太は自分の人生と振り返る道を歩まされている。だとするならば、恐らく家族との再会は終幕に近いということだろう。

 なんとか耐え抜いてほしい。

 その先になにが待っていようとも。

 車に乗せられた慶太は僕の家に向かいながら、食い違う過去を、語り続けられていた。

 全て違うはずなのに、慶太は自分が悪いかのように卑下した面持ちだった。

 違う!そう思いながらも伝えられない。

 このままではまずい。僕は必死に映像を手で押して入り込もうとした。

 びくともしない目の前の映像へ必死に向き合い続けた。

 虚が反発してきているのがわかる。慶太はどんどん黒に近づいていっている。

 お願い!

 僕は願い想い続けた。

 その瞬間、映像が乱れて、まるで液体になったかのように、身体が吸い込まれていった。

 この不思議な現象に僕は身を委ねた。

「ありがとうございます…」

 きっと聴いてくれたんだ…

「間に合った…」

 あたりは光りに包まれて僕の前には慶太がいた。

 涙が溢れた。

 僕は慶太の前では泣いたことがない。そんな感情を知らなかったから。だけど、今は泣きたかった。もう一度会えたことが嬉しかった。

 だけど時間がない。恐らくこうして会えているのにも限りがあるはず。

 僕は脈略のない言葉で必死に伝えた。慶太に対する想いや、今から、どんなことがあっても慶太が自分で見つけなければならないことも全て伝えた。

 周りから虚が迫ってきていることは、わかっていたが、涙が止まらないせいで、うまく言葉が出せない。

 慶太は邪魔をせず、ただ僕の話を聞いてくれている。今なにが伝わっているかは、わからないが、信じるしかない。

 もうすぐ終わってしまう。

 僕は涙を流しながら、まるで台風に身体を飛ばされるかのように、光の空間から追い出された。

 飛ばされて離れていく最中、慶太の周りには黒い影が立ち込めていった。それと同時に、遠くの方から、小さな光が慶太に向かって飛んでいくのが見えた…


 目が覚めると、僕は自分の部屋にいた。

 目の周りは涙で赤く染まっていた。外にはうっすらと太陽が登ってきている。

 寒空の下、僕は夢中で外へと駆け出した。向かった先はミラがいる図書館だ。

 なぜここに来たのか、明確な理由はない。

 だけど、僕より知識が豊富なミラならこの現象がなんなのか、知っているかもしれないと思った。

 図書館に着くと、ミラは息を荒げる僕を不安そうに見つめながら駆け寄ってきた。

「渚沙?なにがあったの?」

「僕は…できたのかな?慶太を助けることが?」

 また涙が溢れてくる。誰かに縋りたかった。

 そうしないと、自分が不安で押しつぶされそうになっていたから。

「大丈夫。落ち着いて、きっと大丈夫だから」

 ミラは優しく励ましの言葉をかけてくれた。

 少しだけ落ち着いた僕は、昨夜なにがあったのかを、事細かくミラに伝えた。

 話を聞き終えたミラは、まだ誰もいない静まり返った図書館で教えを解くようにして、話し始めた。

「渚沙、それはね、あなたが渡したペンダントが発生させた現象なのよ」

「想いが扉となってあなたと慶太を繋げたの。言わばハートの扉ね。安っぽく聞こえるかもしれないけど、その扉は、虚でもあの方でも干渉することはできないのよ」

「知らなかった。そんな力があったなんて…」

「だけど、扉を返して伝えられるのは想いだけ、あなたは本来慶太くんに干渉できないはずだった」

「そしたらなぜ僕は最後に慶太と会うことができたの?」

「それは私にもわからない。わかるのはあの方だけだと思う」

「だけど、少なくとも寄り添う者にはそんなことはできない、だから、あなたは特別なのかもしれないわね」

 自分が特別?そんなこと今まで言われたこともなかった。そもそも僕らには優劣なんてものはない。皆、平等に寄り添う者なのだから。

「僕は特別なんかじゃないよ。救えなかった人もいたし」

 僕は自分を卑下し続けた。干渉できたかどうかが問題じゃない。自分が何者だろうと、助けられなかった人が目の前にいた事実が、形を成した呪いとなってのしかかってくる。

「渚沙、救えなかった人はいるかもしれない。私も同じ経験をしたから気持ちはわかるわ」

「ミラも同じ経験を?」

 意外だった。知識が豊富でいつでも完璧な存在、信頼できて、いざとなった時にこれほど頼れる存在はないと思っていた。

 周りからの評価も同じだと思う。

 そんなミラが僕と同じで、救えなかった経験があるなんて、考えられない。

 ミラはしばらく続いた沈黙の後、少し躊躇しながら、自分の昔話を聞かせてくれた。

「私もね、昔は図書館ではなく、多くの人と関わっていたのよ。だけど、あるきっかけから、ここにこもったの」

「今でこそ、ここの管理人なんて役目がついたけど、元々は管理人としてここに居座ったわけじゃないのよ」

「私にはね、お友達がいたの。私たちと同じ寄り添う者よ。その子はね、いつも元気で、自分の芯を持っていた。少し図々しいところもあったけど、ちゃんと役目を果たして、周りからも信頼されていた。もちろん私も信頼していたわ」

「だけど、ある時からその子は変わってしまったの」

「私も周りも助けようとしたけど、誰にも耳をかさずに虚しく堕ちていったのよ」

「その子が最後を迎える時まで、私は見捨てなかった」

「そして、その日はやってきた」

「本当の別れを迎えた時、その子は私になんて言ったと思う?」

 突然の質問に僕は戸惑ったが、冷静に答えた。

「今までありがとうっていう感謝の気持ちとか?」

 ミラは待っていた答えかのように笑顔で返してきた。

「誰もがそう思うでしょうね。どうなっても見捨てなかった自分に対する感謝だろうと」

「だけど違ったの、言われた言葉は、感謝でなく、安心だったの」

「よかった、と一言だけ残して去っていった」

「私はその言葉の意味を知りたかった。こんな人生のどこが良かったのか。全てに見捨てられて、唯一気にかけてくれたのが私だけだった。それのどこが良かったのか理解できなかったの」

「それを知るために私はひたすら図書館にこもって探し続けた」

「結局その答えは見つからないまま、最近まで過ごしていたんだけどね」


「最近ってことは、その答えはわかったの?」


「そうね、わかったわ、あなたのおかげでね」


「僕のおかげ?」


「そう、あなたが慶太くんに抱いた感情。それは今は亡きあの子が抱いた感情と同じだったと思う」

「どんな存在だって、自分の気持ちを全て理解することなんてできない。他者の気持ちなんて、もっと理解できない。だからこそ、今ある自分の想いを常に強い気持ちで持ち続ける必要がある。そうすれば、いずれ自分自身を理解できて、それが、他者にも伝わると思うの」

「だから、あなたはあなたのやれることを全てやったの。自分の気持ちを理解して、他者に伝えられるようにね」

「それ以上はなにもできない。ただ、その強い想いを向けられた、相手の心にはあなたの想いは思念となって残り続ける。きっとそれは慶太くんを再び助けてくれるはずよ」

 僕は気持ちというものに対して、わかったふりをしていた。

 そして、わかったふりをしている自分を責め続けていた。だけど、それが普通なのだと思った。

 ミラが言うように、皆、どこかで感情を理解したつもりになって上辺だけで接している。

 そんな世の中が嫌だった。

 みんなが手を取り合って生きていけるなんて世界を望んでいたわけではない。少なくとも慶太が幸せならそれで良かった。

 それこそが本当の感情だったんだ。

 殻を被って生きるからこそ、その殻を破って話せる存在がいることが幸せに感じられ、慈しむことができる。

 誰もが、その幸せを求めて生きているのだと。

「ミラ、あなたに出会えて本当に良かった」

「私も、渚沙と出会えて良かったわ、今はただ待ちましょう。きっと、あの方も助けてくれるはずだから」

「どうかよろしくお願いします…」

 僕はミラと一緒に天へ向かって祈りを捧げた…

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