第三章 ハートの扉
その日も渚沙とファミレスで会う約束をしていた。
お互い仕事形態が完全週休二日制というやつで、月曜日から金曜日まで働いて、土日休みとなっている。そのおかげで、俗に言う華金か土曜の昼間の予定が合わせやすかった。
2023年11月24日、今日は俺の22歳の誕生日だ。
丁度華金だったから渚沙とは、仕事終わりにいつもの会を開く予定だった。
誕生日だからって特別なことをする訳ではない。いつもと同じように3時間程度、渚沙から哲学的な話を聞かされて、少しぐったりしながら終わりを迎える、そんな、なんてことのない会になるだろうと俺は確信していた。
今までの誕生日がそうだったから。
俺たちは腐れ縁といえるほど長くの時間を過ごしてきたが、お互いに誕生日を祝ったり、プレゼントを渡したことはない。それが不満にすら思っていなかったから、物を渡すという仮定での関係性は育まれなかった。
第一、俺は渚沙の誕生日を知らない。知ろうとしなかったわけではない。渚沙には何度か聞いたことがあったが、ここでも出身地を教えてくれなかったように、はぐらかされてしまっていたから、真実は迷宮入りしていた。
誕生日も出身地も知らず、友達と言えるのか?という疑問に関しては正直ごもっともだと思う。
それを深く追求せず、今まで流れに身を任せすぎた、俺の怠惰が招いた関係性なのかもしれないと最近ではよく思ってしまう。渚沙の素振りからは別に気にしていないように思えるが、実際のところどう思っているかはわからない。
そんな、今までの人生で人に興味や関心を持たず、上辺だけで生きてきた俺が文句を言えるような立場でないことは明白だった。
だから、渚沙からプレゼンとをもらえなくても、何一つ不満を抱かなかった。
ただ、今年は今までの関係性とは少し違う結果となった。
お互い仕事上、1時間程度の残業がよくあったから、定時の午後5時を過ぎても午後6時頃までは働いていた。だけど、月の残業はそこまで多くなかったから、ホワイト企業なほうだと思う。よくネットでブラック企業の動画を見かけるが、本当に世の中こんな会社があるんだなと思い、恐ろしいと感じた。早く辞めればいいのにと思ったが、俺も新入社員で入ったときは、入った会社をすぐに辞めようなんて思えなかったから、実際のところは辞めたいと思っても社会的責任が絡みつくせいで辞められないのかもしれない。
海外のビジネス事情はわからないが、ホワイト、ブラックという括りが横行する日本社会は、過度な気遣いやサービス精神が人々を蝕んで、狂わせているのかもしれないと俺は思う。
話が飛躍してしまったが、世の中で言うホワイト企業に勤められている俺たちは金曜日に会を開くとき、残業を見越して、いつも午後7時頃に集合時間を設定していた。
予定通りに仕事が終わり、午後7時前、ファミレスに着いた。辺りはすっかり暗くなり、本格的な寒さの到来を予感させる風が頬にあたり、皮膚の感覚が薄れていく中、黒色のダウジャケットのポッケに両手を突っ込んで、足早にファミレスへ入店した。
中に入ると、奥の席に渚沙が座っていた。俺より早く着いていたようだ。
俺はいつもより少しだけ陽気な口調で「早く着いてたなら連絡しろよ、それともなに?俺が誕生日だから早くきてサプライズでも準備してた?」と冷やかしのつもりで言ってみた。
しかし、そんな適当に発した言葉に対して、渚沙から変な返答が返ってきた。
「どうでしょう。なにかが違うかもね」
渚沙はいつもの微笑みを見せてこう言った。
「なにがだよ」
俺は反射的に言った。
渚沙は「まだ内緒」と猫のような上目遣いで見てきた。
彼女じゃあるまいし、なんでこんなやりとりをしているんだ。俺は心で思ったが決して口にはしなかった。
話す内容は、いつものように渚沙から問いかけられる哲学のお決まりコースだと思っていたが、確かに今日は違った。
席について、俺は鉄板ハンバーグステーキを頼んだ。お腹が空いていたのでフライドポテトも頼んだ。
渚沙はミートソーススパゲティを頼んだ。
「お前またそれかよ」
俺は呆れながら、ツッコミを入れた。
渚沙はよくミートソーススパゲティを頼む、たまにカルボナーラだ、ただ、大体この二つだ、頼まないときは俺のを少しつまむくらい。
多分パスタが好きなのだろうが、理由は知らない、こういった些細なことも今まで聞いてこなかったからだ。
渚沙は俺のツッコミを華麗に受け流して、店員に淡々と注文していた。
店員もなにを注文されるかわかっているような振舞いで手際よく、聞き取りから、注文内容の復唱までを済ませていた。
俺たちはこの店員を知っている。注文以外で話したことはないが、胸についている名札を見るに、名前は、遠藤と言うらしい。
遠藤さんは俺たちがこのファミレスで会を開くようになった二年前から働いていた、30代ほどの女性店員だ。
長い黒髪を後ろで一つに束ねていて、清潔感のある女性だ。
正社員なのかアルバイトなのかはわからないが、他の店員によく指示をしていたから、恐らくバイトリーダーか正社員のような、それなりの地位にいるのだろうと推測している。
出会った当時からそんな立ち振る舞いだったから、恐らく俺たちがこの店に通うようになったもっと何年も前から、勤めているのだろう思う。
まだ社会人としての経験が少ない俺には、他の店員への的確な指示と、落ち着いて場を回している姿が無償にかっこよく見えて、世間話すらしたことがない他人に尊敬の念を抱いていた。
俺たちが遠藤さんのことを認識しているように、遠藤さんも俺たちのことを認識していると思う。
だから、俺たちがなにを注文するか、大体把握しているのだろう。特に渚沙は二択だし、わかりやすかった。俺も基本はプレート系の脂っこい料理が多かったから、系統は掴めていたと思う。
注文を聞き終えた遠藤さんが、にこりとこちらに笑みを向けてから離れていった後に、渚沙がこう切り出した。
「慶太は僕になにか聞きたいことでもあるの?」
「えっ?」
突然の問いに、思わず声が出た。
普段勝手に話し始める渚沙が、俺主体で会話をスタートさせようとするなんて。
確かに昨日の寝る前、渚沙に聞いてみようと考えていたことはあったが、まさかこんなタイミングよく聞かれるなんて思わなかったから、エスパーなのかと思った。
少し同様したが、丁度良い機会だと思い、とりあえず会話のキャッチボールとして、セオリーな返しをしてみた。
「どうしてそう思うんだ?」
すると渚沙は全てを見透かした面持ちで話し始めた。
「二年前、丁度、慶太のおばあちゃんが亡くなったあたりから、慶太、どこか僕を見るとき、つっかえてる感じがしたから」
凄い人間観察力だ、ずっと気になっていたわけではないが、確かに、心にはしこりがあったから渚沙の言っていることは当たっている。
それなら、なんでもっと早く言ってこないんだと思いつつも、せっかく渚沙から聞いているのにそれを言うのは野暮だなと、自分に言い聞かせて、俺は二年間聞けなかったことを確かめてみた。
「実はその通りで、俺、おばあちゃんのお見舞いに行ってたとき、言われたんだ。渚沙は俺にとって必要な人ってさ、理由は教えてくれなかったんだけどな」
「あと、もう一つ、これを言うのは失礼かもしれないんだけどさ、悪気はないからな」
二つ目の内容を話す前に俺は念を押してから伝えることにした。
「おばあちゃんが死んだときの顔が、お前の微笑む顔と凄く似てたんだよ」
「それが不思議でさ…」
「こんなことを聞いてなにを求めてるかっていうと、要はお前は俺にとってなんなのかなってことと、お前はなぜよく微笑むのかってことかな」
今まで伝えられなかったことを、上手くまとめられず、照れ臭そうに語る俺に対して、渚沙は表情一つ変えずに話し出した。
「そういうことね、一つずつ答えようか」
「まず、僕が君にとってどうして必要なのかは、君が自分で知る必要がある」
「そして、それがわかればもう一つ言ってた僕の微笑みもわかると思うよ」
用意していたかのような饒舌な返答に俺の中から吐き出した疑問は更に膨れ上がった。渚沙はなにを知っているのだろう?持ったえぶらずに教えてくれよ。
そう思い、俺は渚沙に対して真実を聞き出そうと準備し出した寸前、渚沙は自分の座っているソファの太ももあたりから、あるものをテーブルの上に置いた。
「これなんだよ?」
俺は突然現れた目の前のものに驚いた。
そこには小さなペンダントがあった。
よく見ると、ステンレスか銀でできたハートの飾りがついているチェーンのペンダントだった。
自分が今から渚沙を問い詰めようとスタートラインに立っていたのに、渚沙は別のレーンから先手を打ってきた。
今日が俺の誕生日だからプレゼントのつもりなのかと思った。
さっきまでの話が気になっていたが、目の前のペンダントの方が、今目に見えるものだったからか、気を取られてしまった。
「これプレゼントなのか?有難いけどハートは流石に恥ずかしいぞ」
俺はテーブルに置かれたペンダントを手に取らずに目で眺めながらそう言った。
渚沙は表情を一切変えないで、目の前に置かれたペンダントについて説明を始めた。
「今年は違うって言ったでしょ、今日はこれをつけて寝て欲しい、一生のお願いだよ」
表情は変わらずとも、その口調から本気なのが伝わってきた。
渚沙は自分の素性についてはよくはぐらかすが、俺のことに関しては、冗談を言わないやつだった。だから、このお願いも冗談ではなく本気なんだと感じ取った。
まして、一生のお願いなんて言葉を口にする渚沙は初めてだったから尚更だ。
俺は頭の中で今の状況を整理しながら話した。
「まてまて、一生のお願いなんて、そんな簡単に使うものじゃないぞ、プレゼントをくれたのは嬉しいけど」
「あと、なんでペンダントなんだ?」
俺は一応そのネックレスを手に取って話した。
普段アクセサリーは一切付けないし、付けたこともないから、物珍しかった。
ハートのペンダントは意外に重みがある、結構しっかりした作りをしていた。アクセサリーに関して素人だから、勝手に重い=高価と感じてしまい、少し慎重に手のひらで優しく確認した。
「慶太だから一生のお願いを使いたいんだよ」
ペンダントに釘付けの俺に対して、渚沙は念押ししてきた。
そんなことよく言えるなと思いながら恥ずかしさと、少しの嬉しさが俺を包んだ。
ペンダントを渡した理由や、寝るときにつける理由、もっと言えば、始めに話した渚沙への質問など、何一つ解決していなかったが、渚沙の念に圧倒された俺は、とりあえず渚沙のお願いだけに対して返答した。
「まあ寝るときだろ、それならつけてやってもいいけど」
そう言うと渚沙は、くりんとした目を見開いて、瞳の中に星があるのではと錯覚するような眼差しをこちらに向け、嬉しそうに微笑んだ。
それからはなにかの不安が払拭されて、心が軽くなったかのように、安心していた。そして、いつもみたいに、哲学染みた話をし始めた。
「おい、俺の疑問は何一つ解決されていないぞ、お前だけ楽になるなよ」
俺は渚沙の話を遮って、早口で伝えた。
「もうその話はいいの」
「お願いだから聞かないで」
渚沙はまるで俺がこの話を何度も、何日も聞いてきて、うんざりしているかのような雰囲気を出して返してきた。
さっき一生のお願いを使っておいて、またお願いとは、図々しいやつだ。渚沙も今回ばかりははぐらかすことはできないと思ったのだろう。強引に話を終わらせようとしてきた。
俺はそう言われても引くつもりはなかったはずなのに、なぜかお願いだからと言ってきた渚沙に対して、反抗ができず、喉の奥で言葉が詰まってしまった。
「わかった…」
俺から出た言葉は抵抗ではなく服従だった。
情けない話だが、俺は目の前にいるこいつに嫌われたくないと思ってしまった。
だから、これ以上深堀して、嫌われるリスクを避ける行動をとった。
この行動が正解かはわからないが、渚沙の嫌そうな顔は見たことがなかったからこそ、驚きと危機感が過ってしまい、早く元の顔に戻させたかった。
俺の行動は正解だったらしく、渚沙はすぐに元の微笑みへ戻って、楽しそうに哲学的な話を始めた。
ここまでのやりとりでまだ30分程度しか経っていなかったが、俺のお腹はすでに、言葉と言う食材で一杯になっていた。だから、今渚沙が話している哲学的な内容は全く頭に入ってこなかった。
しばらくして、料理が運ばれてきたが、目の前のハンバーグステーキにも追加で注文したフライドポテトにも、全く食欲がそそられなかった。
そんな俺を尻目に渚沙は美味しそうにミートソーススパゲティを頬張り始めた。
俺もとりあえず目の前のご飯を口に運びながら、話半分で渚沙の話題に返答していた。
面倒だったが、いつものやり取りに戻った分、心が不安になったり、驚いたりと、揺さぶられることなく気楽だった。
話し始めて、ふと店の掛け時計に目をやると、午後9時を過ぎていた。
あれからもう2時間たったのかと思いながら、いつものルーティンで「そろそろ帰るか」と渚沙へ促し、会計を済ませた。
店の外に出た俺たちは、それぞれ駐車場に止めた車の元へと歩み始めた。
今日は変だったな、そんな感想が頭を巡る中、いつも通り、じゃあなと声をかけようとした。
すると、渚沙から「誕生日おめでとう、これからもよろしくね」と声が飛んできた。
そういえば、プレゼントという驚くイベントがあったせいで、そこについてくるはずの、お祝いの言葉がなかったことに気が付かなかった。
「今かよ」
そうツッコむと渚沙は少し照れ臭そうに笑った。
俺も少し照れてしまったが「ありがとな。じゃあな」と言った。
お互い、なにかを渡したり、祝う機会がなかったから、こういった状況に慣れていなかった。そこからきた恥ずかしさだと思う。
再び車へ向かおうとしたとき、渚沙が突然大きな声で「慶太っ」と叫んできた。
何事かと思い俺はすぐ振り返った。
渚沙はそんな大きな声を滅多に出さない、学生時代の体育の授業ですら声が小さくて先生に注意されていたくらいなのに。
振り向いた俺に映ったのは、なにかを言いたそうだが、言えなそうに口を窄ませている渚沙の姿だった。
俺も大きな声で「どうした?」と尋ねてみたが、返答は返ってこなかった。
これ以上待っても続きがある気がしなかったので、変なやつだなと思いながら、再び「今日はありがな、じゃあな」と言って帰った。
その背後から微かに「頑張ってね」と聞こえたのは幻聴だったのかもしれない…
渚沙と別れてたから、愛車の赤色の軽自動車に乗って5キロほど離れた自宅に戻った。
この車は19歳の時に購入した中古車だ、購入時の走行距離は6万キロと、まあまあ走っていたが値切り交渉をして諸々50万円だったから即決した。
年式は2010年式の古い車だが、なんの縁か、俺が苦労に満ちた時期と同じ年代に発売した車だった。まあそんなことは車の購入と全く関係のない話だから、気にしないようにしたが、当時の印象が脳裏に焼き付いているせいで、ふと思いだしてしまった。
人間、トラウマや辛い経験など、悪い印象ほど、ふとしたきっかけで思い出すものだと思う。俺はそれがいじめの経験だった、というだけの話だ。
ボロいが、初めての車だし愛着は湧いた、初めて渚沙に見せたときに赤色の車体を見て、「オシャレだね」と褒めてくれたのを覚えている。
正直、古さは外見からにじみ出ていたし、自慢できるような高級車ではなかったから、どんな感想がくるか不安だったけど、良いところを見つけて言葉にしてくれたことが嬉しかった。
俺は渚沙が学生時代に人気のある生徒だった理由がなんとなくわかった気がする。
物事の良い面を見つけて伝えてくれるというのはとても気分が良くなるし、前向きに考えるきっかけになるから、それができる渚沙にみんな惹かれたんだと思った。
そんな渚沙の言葉があったから、俺はこの車を愛車と呼べるようになるまで気に入ることができた。
愛車を運転して辿り着いた家は、築17年1Kの木造アパートだ。
少し古いが、中はリノベーションされていて、白基調に統一された内装は、新築に引けを取らいレベルだと思う。まだ社会人なりたてで、お財布に余裕がない俺からすると、値段と質を天秤にかけたとき、車同様、値段が勝った。
だから、今の生活には結構満足している。
現状に不満はないから、しばらくこの生活水準で生きていく予定だが、将来的にはSUVを新車で買って、新築のマンションに住みたい、なんて人並みな夢は持っている。
彼女もいたことがなく、友達と呼べる存在は渚沙くらいで、家では祖母といたから一人暮らしを始めた当初は寂しさを感じたが、交友関係が少ない分、一人の状況にも慣れていたから、寂しさはすぐに薄れていった。
たまに、本当にたまにだ、渚沙が女だったらなとか思ってしまったりもする。こんなことを考えてしまうのは、きっと生まれて二十年以上、彼女がいなかった影響だと思う。きっとそうだ。
今日はそんな彼女のいない寂しい俺に、渚沙が、初めてプレゼントを贈ってくれた。
仕事用リュックの外ポケットに入れていたペンダントを取り出す。
やっぱりなんでこれを選んだのか不思議だった。なぜハートなのか?なにか意味があるのか?
深いことは考えたところで当事者の渚沙はいないのだから、わかるはずはないと、心の中で呟いてそっと考える脳に蓋をした。
とにかくあいつはペンダントを付けて寝てって言ってたな、とりあえず風呂にでも入るか。
身体を綺麗にした後、いつものルーティンでテレビを見る。
画面の中では今話題の若手芸人やタレントが、惜しげもなくタメ口で目上の人に話して、笑いを取っている。
俺はこういうのがあまり好きではない、やっぱり日本人なら敬語は使った方が相手を不快に思わせないだろうし良いと思う。
俺みたいなやつが老人になったときに、煙たがられて、陰で正論モンスターとか老害とか言われるのかなと思うと、少し心が締め付けられた。
自分から悲観するのは馬鹿らしいしやめよう。
そんなことを考えていたらテレビの上にある時計はすでに午後11時を指していた。
毎日これくらいの時間に寝ているので、いつも通り座椅子の横に敷いてある敷布団にそのままダイブした。
おっと、忘れるところだった。親友との約束だもんな。
思い出した俺は、テーブルに置いていたハートのペンダントを首に付けた。
首にぶら下げたペンダントは手で持ったときよりも、少し重みを感じて、付け心地は決して良いとは言えなかった。俺がアクセサリーを付け慣れていないのが原因かもしれないが。
俺は今日の出来事で沢山脳を使ったせいか、疲労から、激しい眠気に襲われていた。だから、首元にぶら下がるアクセサリーの違和感もすぐに忘れるだろうと思い、案の定その通りとなった。
テレビと電気を消して、静寂に包まれた部屋で、木造の壁から感じる冷気を、布団に包まり遮断しながら、あっという間に、深い深い眠りへと落ちていった。
目が覚めて時計を見ると、午前9時だった。
今日は土曜日だから目覚ましのアラームはかけていない。
普段は6時30分には起きて、8時の始業に間に合うよう身支度をしているが、休日は会社のことを気にせずに起きれるから、凄く心地が良い。
大きなあくびと同時に力一杯身体を伸ばすと、肩や腰の関節がポキッと鳴った。これが案外気持ち良い。体の形が整う感覚があるからだ。実際は、あまり関節をポキポキ鳴らすのは関節の間にあるクッションが減ってしまうからよくないらしいが。
わかっていてもやってしまうのが人間というものだ。俺は将来のことより、今の快楽を優先させる行動をとって、身体を起き上がらせた。
いつもと変わらない休日の日常、呆然としながら無心でスマホを開き動画配信サービスを視聴して、ネットサーフィンに勤しむ。これが俺の休日ルーティンだ。
今の現代人は大抵このルーティンだろうと、得意気に正当化してみる。
「おっ、あの配信者、最新の動画投稿してる。見てみよ」
視聴を開始したのは、企画を主体とする配信者グループだ、例えば『街中の人にインタビューしてみた!』とか『衝撃の展開!?みんなで街中かくれんぼ!』とか大規模イベントから小規模な検証までこなす、そこそこ人気な配信者だ。
確かチャンネル登録者が100万人くらいいた気がする。
さぞかし億万長者なんだろうなと思いながら、その動画を再生した。
「どうも、みなさんこんにちは!今回の企画は街中の人、100人にインタビューできるまで帰れませんです!」
ありふれた企画だろうが、この人たちがやるから需要があるんだろうなと思いながら、俺は寝起きの覇気のない目で見続けた。
「まず一人目です!お名前をどうぞ!」
東京の新宿でインタビューをしているようだ。マイクを向けられたのは20歳後半くらいの女性だった。
「佐藤愛梨、26歳です。」
「おいおい、あんまりこういうのでフルネームは出さないほうがいいぞ」
俺は画面に映る、危機感のない女性に思わず呟いた。
配信者の男性は続けて質問する。
「愛梨さんの最近あった辛い経験を教えてくれませんか?」
人の不幸は蜜の味なんて言葉があるが、これで再生回数が伸びている日本社会はよっぽど蜜が好きな人種が多いんだなと思った。勿論この動画を見ている俺もその一人なのだが。
彼女はこう答えた。
「私、彼氏がいるんですけど、私が生理の日、お腹が痛かったのに、なにも助けてくれなくて、しまいには、鬱陶しいって言われたんですよ」
女性の日というのは、個人差はあれど、とても苦しくて辛いものだと聞く。俺は男だから体験はできないが、自分が望んでもいないのに、吐き気や腹痛、苛立ちが不規則や周期的に襲ってくると思うと、確かに辛いと思う。
その彼氏も理解がないんだなと、暴露された彼氏を少しだけ哀れむ気持ちになった。
こんな調子でいつもと変わらず動画の視聴が終わると思っていた。
しかし、次の瞬間、自分の耳を疑う発言が彼女から飛び出した。
「お前はうるさいから必要ないって彼氏に言われて、私も彼氏がいらないって思っちゃって、どっちが消えるか争ったら私が生き残れました」
なにか、言葉のあやか、例えか?
家を出ていくとか、別れるとかそういう話だろうと思ったが、そのすぐ後に今度は、配信者もありえないことを言い出した。
「では貴方が殺して生き残れたんですね!」
はっ?意味がわからなかった。
目の前に映る映像に脳の思考が停止している俺をよそに、彼女は満面の笑みで答える。
「はい!」
こんな会話をSNSで流していいわけがない、炎上してしまうぞ、そう思いながら少し好奇心をくすぐられている俺がいた。
しかし、続きを待ちわびる俺の前で、彼女の「はい」という返事の後、なぜか動画がフリーズした。
スマホが壊れたのか?
叩いたり揺らしたりしても変わらない。電源ボタンを長押しして、強制シャットダウンもできない。
突然の出来事に戸惑っていると、急にスマホの画面が真っ黒になった。
そして、画面の暗闇から、通話もしていないのに鼓膜が振動するほどの声が聞こえてきた。
「これは俺自身だ」
突然の声に驚いて、俺はスマホを布団に投げつけた。
それからスマホは、うんともすんとも動かず、使いものにならなくなってしまった。
今起きている状況が全く理解できず、しばらく固まってしまったが、今まで散々辛い経験をしてきたお陰で、望まずして、こういったトラブル時、冷静に整理をする術を、俺は身に付けていた。
目を瞑って、まずこれが夢ではないことを確認する。腕をつねっても痛い。
5回ほど目を瞑って確認したが、状況は変わらなかった。
この仮定から、これは夢ではないと、俺は冷静に判断した。
次に、このスマホから聞こえてきた声、これは聞いたことがある、そう香山慶太、俺自身の声だった。
いくら思い返してみても、俺は「これは俺自身だ」なんて声を録音した覚えはない。ましてや、こんなことすら言った覚えがない。
だからこれは俺ではない、誰かのはずだ…
それから1時間くらいだろうか、スマホを復旧させようと格闘したが、スマホが治ることはなかった。
俺は、声のことや動画の続きは気になるが、まずはスマホを修理に出すことを優先的に考えた。
あの配信者は恐らく、炎上して酷いバッシングを受けているだろうが、俺は他人だから別に気にする必要はない。今は自分に被害が出ている、スマホの問題に関して、やるべきことがあるから行動しよう。
そう思い、着替えて外に出る準備を始めた。
肌寒くなるこの季節、いつも着ている黒のダウンジャケットと淡い色のジーンズに着替えて、俺は外に出ようとした。
玄関まで来て扉に手をかけた俺は、思い出した。
「あっ、そうだ、昨日もらったペンダントは外しておこう、ハートは恥ずかしいからな」
付けてほしいのは寝るときって渚沙に言われていたし、もう付ける必要はないと思った俺は、なんの罪悪感も抱かずに、首元にぶら下がっているペンダントを外そうと、手をかけた。
しかし、ペンダントを触った瞬間、俺に衝撃が走った。
朝起きてから立て続けに起きた、動画配信での不気味なやり取りや、スマホから突然聞こえた俺に似た声よりも、もっと明確に不気味で衝撃的な事態が発生した。
ペンダントは間違いなく首にかかっているのに触ろうとすると、まるで蜃気楼やCGのように透けてしまい取れないのだ。
やっと落ち着きを取り戻していたのに、また頭の中が混乱しそうだ。
触ることすらできないペンダントを外そうと何度も試みてみたが、取ることはできなかった。俺は、朝からどうすることもできない現状ばかりに見舞われ、疲れてしまったことで、逆に冷静さを取り戻していた。
「どうすることも出来ないのか…」
肩を下げて、ため息と一緒に呟いた。
「それならまずは、スマホを治してから、このペンダントを渡してきた渚沙に連絡して、問い詰めるのが今日のプランだな」
自分のやることを声に出しながら、背中を後押しした。
家を出る寸前にトラブルが発生したせいで、スタートダッシュが遅れてしまったが、急ごう、問題は山積みだから。
時計の針は午前11時を指していた。
街中へと出ると、そこには住み慣れたいつも通りの世界が広がっていた、ある一つの違和感を除いて。
目の前に見える個人居酒屋、少し右手の先にはコンビニ、道路脇に立ち並ぶ木々、見慣れた情景が目に入ってきたが、空間の大部分を占める、あの音がないのだ。
そう、車のエンジン音だ。
見える景色の中に、車が一台も走っていないのだ。人々は歩いている。自転車も走っているのに、車だけが走っていないのだ。
こんなにも車が無いだけで静かになるものなのか。まるで、車通りが極端に少ない、祖母の田舎にいる気分だ。
今日はマラソン大会で道路が規制されているわけではないはずだから、この光景が不気味に感じた。
土曜日の昼間というのに、車通りがないのは明らかにおかしかった。俺のコミュニケーション能力が高かったら、そこら辺に歩いている人たちになにがあったのか聞けるが、俺は人見知りで、自分に直接的な被害がない場合、黙認して生きてきた。だから、この状況もいずれわかるだろうと、後回しにしてやり過ごしてしまった。
実際のところ、まだ、車がない違和感だけで良かったと、安心した部分があった。
部屋の中では、おかしなことが多発していたせいで、もしかしたら、街に宇宙人なんかがいるのではないだろうかと、非現実的なことを割と本気で考えていたからだ。
もし、それが現実だったら、きっと、俺はすぐに部屋へ戻って一生外出をしなかっただろう。
街の違和感に気を取られてしまい、一瞬、目的を忘れそうになったが、すぐに気を取り直して、駐車場に停めていた車の元へ向かった。
そこで、またしても目を疑う現実を突きつけられる。
車がなかったのだ。
確かに、昨日まであったはずの俺の愛車がない。
盗まれたのか?
嫌な考えが過ったが、否定できるはずもなく受け入れるしかなかった。
なんでこんな災難に見舞われるんだ。二十年以上生きてきて、褒められた人生ではなかったけど、バチが当たるほどの、悪さを働いたことはないはずだ。
なんで俺ばっかり…
そう、悲壮感に打ちのめされながらも、俺はなんとかして、現実を受け入れた。
予定がまた増えてしまった。被害届を警察に出さないといけない。
人間、苛立ちを覚えると、一番明確で当たり易い相手に想いをぶつけようとしてしまうものだ、それが今の俺の場合、車を盗んだやつや、不良品のスマホを作った会社ではなく、ペンダントを渡してきた渚沙だった。
渚沙に会ったときに苛立ちをぶつけることをエンジンとして、俺はその足でキーを回し、歩き始めた。
契約している近くのケータイショップへは約2キロの道のり。歩いて行けない距離ではないことが幸いだった。
俺は、いつも車で向かう道を今日は久しぶりに歩道で向かった。
歩いていても、やっぱり車は見かけない。心なしか人通りも少ない気がする。あと、すれ違う人全員、あさっての方向を向いていて、なんか不気味だ。普通、人とすれ違うとき、一瞬は目が合ってもおかしくないと思うが。誰一人として合わない。
まるで、ゲームのモブキャラのようだ。
今起こっている現実は、絶対なにかがおかしいのはわかっているが、夢でないことは確認済みだし、今騒ぎ立ててもどうすることもできないから、ケータイショップ目指して、不気味な街を歩くしかなかった。
ケータイショップまで辿り着けたとして、次はペンダントについて渚沙と会わなければならない。
渚沙の家は、ここから7キロくらい先にあるから、こんな寒い中、絶対に歩いて向かいたくはない。
なんとしても、スマホを治してもらって、渚沙に連絡して迎えに来てもらうしかない。
今日一日で治る問題なら良いけど、後日とかだったら、最悪だ。普段渚沙とは、メールのやり取りしかしていなかったので、電話番号は知らない。だから、公衆電話で連絡しようにも、わからない。
俺に残された道は、スマホを治すという一択しかなかった。
不安の中、歩いていると、思っていたよりもすぐ、ケータイショップに着いた。
「いらっしゃいませ」
店内へ入ると、若い女性スタッフが元気よく挨拶してきた。
ここに来たのは、前回スマホを変えたとき以来だ。
今のスマホは二年前に買い替えているから、ここへ入るのは、約二年ぶりだ。
休日だからか、少し人がいたので、予約札を発券して、ソファに座った。
店内には目新しい機種ばかりが並んでいる。
コマーシャルで見ていたケータイを実際目で見ると滑らかなボディや黒光した輝きに惹かれてしまう。
お金があったら変えたいな…
そんなことを思いながら店全体を眺めていると、
目の前で接客を受けている客と店員が目に入った。
30才ぐらいの若い男性客が、同じく30才ぐらいの男性店員へ、険しい形相で話している。
「このプランは高すぎる、俺は年収350万で妻と子供二人がいる。養育費が払えなくなるからこんな高いプランはやめろ」
自分の家庭環境を赤裸々に暴露してまで、料金が払えない理由を嘆いていたのだ。
公の場で、そこまで家庭環境を赤裸々に話す必要はないだろと思いながら、二人の会話に聞き耳を立てていると、店員も驚くことを言い始めた。
「では貴方が妻と子供を殺せば一人になれるからそれでよろしいのではないでしょうか?」
店員もとより、人あるまじき猟奇的な発言に恐ろしさを覚えた。
俺は口を半開きにして唖然とした。
そんな店員に対して、男性客はというと、自分の妻子を愚弄する発言をされたのにもかかわらず、一言、「確かに!」と言った。
その直後、まるで人生の悩みが全て解決したかのような、晴れやかな顔立ちをして、徐に立ち上がり、足早に帰って行った。
店員も笑顔で「ありがとうございました」と言っている。
おかし過ぎる光景に、あたふたする俺を目の前に、今度は他の客と店員からも似たような会話が聞こえてきた。
「親からお金を盗めばいい」「保険金が必要です」「このプランは貴方程度の人間では高すぎて釣り合わない」
頭がおかしくなりそうだ、そして、客はどれだけ暴言を吐かれても、誰一人反発せず、満足そうに納得して、足早に帰っていくのだ。
この空間でまともなのは俺だけだった。
いつの間にか、店からは客がいなくなり、気がつくと客は俺一人だけになっていた。
「香山様どうぞ」
先ほどの男性店員が呼び掛けてくる。
俺はさっきまでの会話に対して、意を唱えたかったが、恐怖から口が窄んでしまい、小さく「はい」としか返事ができなかった。
硬直していた足を叩き起こして、俺はゆっくりと席に座った。
「今日はどうされました?」
店員がまるで作り物のような笑顔で聞いてくる。
自分が店に入るまで待っていたスマホに対する怒りの感情はすっかり消えていた。
それより、先ほどまでのやりとりが問題ない出来事なのかが気になってしまっていた。
「あの、先ほどの口論は大丈夫だったんですか?」
俺は思い切って聞いてみることにした。
しかし、店員は表情一つ変えず、
「今日はどうされました?」と、被せ気味に聞いてきた。まるで音声認識システムのついた、ロボットのようだった。
不気味な圧を感じで、本能的にこれ以上聞いてはいけない予感がした。
俺はなんとか不気味な恐怖を払拭して、壊れた自身のスマホを取り出し、ことの経緯を簡潔に伝えた。
「見ての通り今朝スマホが急につかなくなってしまいまして、これってデータとか復元できますか?」
光を放たないケータイを見て、店員は言う。
「あー、これは貴方が壊れているから壊れたんですね」
「消えた方がいいかもしれませんね」
…ん?
なにかの聞き間違いか?
「俺が壊したってことですか?」
「俺はなにもしてませんよ?」
そう訴えたが、次の瞬間店員は勢いよくデスクを叩いて立ち上がった。
「貴方は聞き分けのない子供ですね!世界は貴方を必要としていない。だから黒く消えてしまったんですよ!」
そんなに訴えても、クレームを入れたわけでもないのに、堪忍袋の尾が切れたかのように暴走しだした。
あまりの迫力に、この歳で少し泣き出しそうになっていた俺は、震える声で抵抗した。
「訳がわかりません!治せるのかって聞いているんですよ?」
そう言うと、店員は厳しい訓練を受けてきた軍隊かのようなスピードと、キレで着席した。そして、満面の笑みを向けてこう告げた。
「これ以上の発言は貴方を消す材料になりますよ」
なにもかも意味がわからない、この状況が息苦しい、人間、自分が理解できないことが矢継ぎ早に降りかかると、こうなるのか。
過呼吸寸前の俺は周りに助けを乞おうと、見渡した。目に入った、他の店員五人も同じように薄気味悪い笑みを浮かべている。
俺はなんの根拠もないが、本当に殺さらてしまうかもしれないと感じ取った。
店を出ようと思い振り返ろうとしたが、金縛りのように、身体が動かない。叫びたくても声が出ない。
そして、じわじわと周りの店員が近づいてくる。
本当にダメかもしれない…
俺は心の中で感じた。
突然訪れた死の局面に俺は諦めを感じていた。走馬灯なんてものはなく、ただただ、虚しい感情しか浮かばなかった。
抵抗することもできずに、運命の終わりを覚悟した、その瞬間。
首元から胸にかけて暖かみを感じた。
なぜかその暖かみのおかげで身体の緊張がほぐれ、金縛りが解けた。
原因もわからないまま、突然開けた好奇に、俺は咄嗟に身体を動かして、店員に触れられるぎりぎりのところで、店の外に向かって飛び出した。
焦る俺の背後からは、入店時と変わらないトーンで「ありがとうございました。またお越しくださいませ」と不気味に聞こえてきた。
夢中で走り続けた俺は息切れと同時に立ち止まった。大体500メートルくらい走っただろうか、寒さを感じないほどに、身体が熱っていた。
なにはともあれ助かった。束の間の落ち着きを取り戻し、首元を確かめる。
先ほど感じた暖かみの正体は、ペンダントからくるものだった。これのおかげで助かったのだ。
家を出るときはあれだけ外そうとしたペンダントに対して、今は外れなくて良かったと安堵している。そして、このペンダントをくれた渚沙への怒りは全くなくなり、泣きつきたいほど感謝の気持ちで溢れていた。
後ろを見ても、店員は追ってきていない。
薄々わかっていた。
夢であろうとなかろうと、被害が降りかかっている現実。
この世界は絶対になにかがおかしいと…
俺は近くにあった公園のベンチに座った。
外は寒かったが、冷たさなんて感じなかった。温度を感じるために必要な心の隙間がなかったからだ。
漠然と空だけを見上げていた。
なにも考える必要がなかった。いくら考えたところで夢以外で説明がつかないから。
俺が今までいた世界とは、根本的に倫理観が違う。だから、論理的に考えたところで、俺の目線で見てしまう以上、今日起こっている現実は何一つ説明をつけることができない。
頼れるのは、自分自身と渚沙がくれたペンダントだけだ。
街を行き交う人々には話しかけられなかった。
みんな、あのときケータイショップにいた店員に見えてしまったから。
目も合わせてくれない人々は全て不審者に見えた。この世界では、無理やり話しかけてはいけない、誰からも教えられたわけではないが、そんな気がした。
不審者に近づくな。小さい頃から教えられてきたことだ。
今の俺にはこの世界の全てが不審だった。
解決のできない現状で、俺に残された選択肢は一つだけ。
渚沙に会うことだ。
このペンダントをくれた渚沙なら、なにかを知っているかもしれない。仮に知らなかったとしても、今、頼れる人は渚沙だけだった。
早く会いたい…
俺の心はこの感情で埋め尽くされていた。
公園の時計は午後1時を指している。
朝からなにも食べていなかったのに、お腹が空いていない。空腹を感じないほどに不安なのだと思う。
しばらく休憩したおかげで、身体の疲れは少しとれた。また歩き出せる体力が充電されたので、勇気を出して、渚沙の家へ向かうことにした。
渚沙の家はここから大体5キロの道のりだ。
山道ではないから、道路沿いをひたすら歩いて向かった。
こういう時、家族がいたらどれほど心強いか。
頼れる家族もいない俺がなんでこんな目に遭わなければならないんだ。積もっていくやるせなさと、不快感、変えられないとわかっていても過去の後悔がフラッシュバックする。
たまに人とすれ違ったが、ケータイショップの出来事の影響で、この世界の人間が、皆、恐ろしく見えてしまい、顔を合わせたくなかった。すれ違う瞬間は顔を斜め下へ向けて通り過ぎるように心がけた。
ただ歩いているだけなのに、凄く神経を使っているからなのか、疲労感がいつもの倍に感じた。
緊張に束縛されながら、歩いていると、遠くに駅が見えてきた。
この街では主要な駅だ。他の街からの線路がこの駅を経由して向かうため、それなりの規模がある。
電車は走っていなかった。そして、人の気配はなく、淡々と路線案内のアナウンスだけが響き渡っていた。
普通だったら異常な光景だけど、俺はもう驚かなかった。
この街もとより、この世界がおかしいと認識したから、いちいち異変に驚いていたら脳が疲れてしまう。
自分に危害が及ばない限り、俺はお得意の無干渉を発揮するようになっていた。
こんな環境でも、人間しばらく過ごすと、順応してくるようで、車が走っていないのが当たり前のように錯覚している。
変化に適応できない生物が絶滅していったように、俺もこの変化に適応していかなければ、消えてしまうかもしれない。そんな突拍子のないことが頭をよぎっていた。
駅を通り過ぎて、渚沙の家まであと4キロほどのところで、俺は立ち止まった。
遠くから現れた人影に目を奪われたからだ。
大人になってからは会っていない。だけど、あの時の面影が鮮明に残っていたので、すぐにわかった。
小学生の頃、俺をいじめていた主犯格、宮坂秀樹だ。
体型はあの時とそこまで変わっていなく、中贅中肉、背は170センチくらいだろうか、俺とそこまで変わらなかった。
遠くからでもわかった。彼は俺の目をしっかり見つめてきている。あさっての方向を向いていた今までの人とは全く違う。
うまく表現できないが、魂が宿っているような目つきをしていた。
俺は彼との再会に思わず安堵した。
きっと昨日までいた世界で出会っていたら、顔すら見ずに逃げていただろう。関わりたいなんて思わないほど、憎悪の感情が強かったはずだから。
だけど、憎しみを抱いていた相手でも、こんな世界で会うと、頼りたいと思ってしまうものだ。
彼は俺を見つけると、驚いた様子で小走りに駆け寄ってきた。
「お前、香山慶太だろ?わかるか?俺は宮坂秀樹だよ、小中と同じだった」
彼も直感的に俺の目に魂が宿っていると感じたのか、いじめっ子ではなく、仲の良い友人のような態度で話しかけてきた。
そんな態度に少し苛立ちを覚え、冷たく返した。
「ああ、わかるよ。久しぶりだな」
「小学生のときはいじめてしまって悪かった。あのときは俺もお前も子供だったからな、ごめんごめん」
「それよりこの街なんか変じゃないか?」
「車も走ってないし、人もみんな変だし」
にこやかに秀樹が話す。
あっさりと過去の謝罪をされた俺は、心の底から腹が立った。どれほど辛かったか、苦しんで、耐え抜いて生きていた学生時代。
そんな人生を、お互い子供だったなんて簡単な言葉で締め括られたことが許せなかった。
今の俺はあのときとは違う。だから、はっきり言えた。
「お前、昔俺になにしたか覚えてるか、そんな簡単に謝るな、許すつもりなんてないんだよ」
眉間に皺寄せ、怒りを露わらにした俺に、秀樹は狼狽えていた。
予想外だったのだろう、俺が反抗してくるとは思っていなかったから。
「ごめん。許してくれなくてもいい、だけどこの街がおかしいんだよ。助けてくれ、お願いだ」
切羽詰まった顔で秀樹は訴えてきた。
このまま過ぎ去ってやりたかったが、事実、俺も困っていたし、唯一まともに会話できそうな相手と巡り会えたチャンスを逃すわけにはいかなかった。
こんなやつでも、一人より二人の方がマシだと思った。
「俺もこの状況がよくわからない。だから、今だけ協力してやる」
納得いかなかったが、そう吐き捨てた。
「ありがとう。本当にありがとう」
白い息を吐きながら、感謝の言葉を繰り返す秀樹。
それから、彼と一緒に行動を始めた。
まずはお互いの状況、俺の目的を話して、どうしていくべきか、どうしたら、この世界から抜け出せるのかを考えた。
どうやら、彼は今大学生で、実家暮らしをしているそうで、朝起きると、家族が全員いなくなっており、不審に思い外へ出かけたら、車が走っていない光景に驚いたらしい。
彼は驚くことに躊躇なく近くを通りかかった人に話しかけて、この状況について確認したのだという。
なんて危機感がないやつだ。
しかし、話しかけた人にはみんな無視をされてしまったらしい。
そして、お腹が空いた彼はそのままコンビニ入ったという。
彼が焦っていた理由はこのコンビニでの出来事が原因だった。
レジに唐揚げ弁当を出した彼は、店員に尋ねた。
「車もなにもないから変ですよね。なにか交通規制でもかかってるんですかね?歩いてる人に聞いても無視されるし、意味わからないですよね」
すると、店員はこう言ったそうだ。
「唐揚げ一点、あなたの人生一点、合計金額0円、頂戴します」
感情がないその言葉の後に、店員は背後にあった掃除用のモップを取り出して、振り下ろしてきたという。
秀樹は間一髪のところでそれをかわして、反抗しようとしたが、そのときに見た店員の目が全て真っ黒だったという。
その目を見た瞬間、本能的に、関わってはいけないと悟り、無我夢中で逃げだして、今に至るそうだ。
秀樹は俺よりも、もっと明確に襲われていた。
話を聞き終えた俺は、率直に良かったと思った。
もし俺だったら逃げきれていたか、わからない。確かにそんな恐怖体験をしたら、いじめていた相手でも頼りたくなる気持ちは、理解できる。選択している暇なんてないだろうから。
一連の出来事を話し終わった秀樹はやっと打ち明けられる相手が見つかって安心したのか、その場にしゃがみ込んだ。
昔から感情の起伏が激しく、コントロールができないやつだったから、リアクションも大きくなるのだろう。
「お前も大変だったのか、お互い無事で良かったな、この後どうすればいいんだ?」
しゃがんで下を向きながら、弱々しい声で秀樹が言った。
どうすればいいなんて言われても、俺だってわかるわけない。だけど、必要な知恵が一人増えたから、少しは解決の糸口が見つかるかもしれない。
「どこかこの世界の情報を見る方法はないか?」
「お前、スマホ持ってないか?俺のは使い物にならないから」
そう言うと、秀樹は首を横に振りながら言った。
「家を出るまでは使えたんだけどさ、コンビニから逃げてきて、スマホを見たら、電源すらつかなくなってたんだよ」
ポケットから出てきたスマホは俺と同じく画面が真っ暗で、ボタンを押しても反応しなかった。
「香山の話を聞く感じ、ケータイショップには行かない方がいいよな」
お互い行き詰まって考え込んでいると、秀樹が「あっ」と大きい声を出した。
「なんだよ!お前急にそんな声出すなよ!」
俺は驚いて、強く叱った。ただでさえ今日は心臓に悪い出来事が多発しているのに、こんなときでも驚かされるのに腹が立った。
秀樹は照れ臭そうに謝りながら、自分の思いついた作戦を話してきた。
「スマホが使えないならさ、近くの家電量販店に行って、テレビを見てみるのはどうだ?」
「あそこなら、ずっとテレビが流れてるだろ」
確かに良い案だと思った。こういうところは頭がキレるやつだ。昔はそのキレをいじめのために使っていたが、今は自分にもメリットがあることに使ってくれているから、少し頼もしい。
ただ、行動することによる、デメリットも考える必要があった。
「確かにそれは良いかもしれない。だけど、店に入るということは、また店員に襲われるかもしれないから、なるべく店員とは会わずに、テレビだけ見てすぐに出よう」
俺は店に入ってからの行動を細かく指示した。
秀樹もそこは納得していた。
「間違っても話しかけたりするなよ」
俺は念を押して伝えた。
渚沙には会いに行くつもりだが、まずは秀樹の提案を先行して進めることにした。
情報収集をしてから会った方がトラブルにも対応できると思ったからだ。
こうして、俺は渚沙の家への道のりをそれて、2キロほど離れたところにある、家電量販店へ秀樹と一緒に向かった。
道中では、お互いの近況報告をしていた。
秀樹は、大学で経済学を学んでいるらしく、将来的にはIT系の会社に就職したいと考えているという。
なんでも、IT系は成長企業だから、今後、更に発展してくようで、未来があるそうだ。
こいつもしっかり考えているんだなと少しだけ見直した。
キャンプサークルに入っていて、休日には大学の仲間とキャンプに出かけているらしい。
こいつは俺と違って、周りの目を気にしないからこそ、相手の懐へ簡単に入れるのかもしれない。
人間関係で先手を取れるタイプなのだろう。
俺はいつも顔色を窺うせいで、後手にまわってしまう。
社会人になって痛感したことが一つあった。
それは、学歴や知識よりも、コミュニケーション能力が最も大事ということだ。
大体のことは人間関係を良好に築いていればなんとかなるし、助けてくれる。
俺はほどほどの人間関係で生きてきたから、社会人になって、上司に特別気に入られたわけでもないが、それなりに上手く立ち回れているとは自負している。
秀樹はコミュニケーション能力が高いから、社会人になってからも、上司に気に入られて、出世していくのだろう。
自分を不幸に落とした相手との、力の差を見せつけられた気がして、惨めに感じてしまった。
そんな俺の暗い顔を気にもかけずに、相変わらず能天気に自分語りをしている。
やっぱり、こいつとは合わないと思った。
渚沙も能天気で、俺の話をしっかり聞いてくれているようには思えないが、俺への気持ちが行動として現れているから、口だけのやつより、よっぽど信頼できる。
よりにもよって、なんで、一番憎いやつと出会ってしまったのか、神様は残酷なことをしてくれる。
そういえば昔、渚沙が、神様にハートはあるのかと、言っていたことが、ふと頭に過った。
今なら言える。こんな運命を与える神様にハートなんかあるわけないだろうと。
気持ちが落ち込んだまま、歩いていると、目の前に家電量販店が見えてきた。
大手チェーンの店だから、それなりの規模がある。
店の前までついた俺たちは、再度段取りを確認してから、入店した。
「いらっしゃいませ」
店の奥から数名の声が聞こえてきた。
ただの挨拶だから、恐怖心なんて芽生えないはずなのに、人の怖さを実感していた俺たちはその声にも怯えながら、最短ルートでテレビまで向かった。
走ると目立つから、早歩きでお互い周りを警戒しながら、辿り着いた。
途中、何人か店員を見かけたが、絶対に目は合わせなかった。
テレビはしっかりと映っている。
番組は幸運なことにニュース番組のチャンネルになっていたので、しばらく見続けることにした。
「昨夜未明、東京都新宿区で事件が発生しました」
画面の中でアナウンサーが淡々と報道している。
「32歳会社員、田中誠司容疑者は被害者で妻の田中結衣に殺されることを拒絶しました」
「田中誠司容疑者の浮気が原因で、妻の田中結衣から死ぬように言われたのにも関わらず、それを拒絶し、逃亡しました」
「逮捕された田中誠司容疑者は容疑を認めており、死刑は明日執行されます」
一連の報道が流れた後、コメンテーターたちが口を開いた。
「悲しい事件ですね」
「死を拒絶するなんて、痛ましいです」
俺と秀樹の顔は青ざめていた。
この内容について、考察なんて必要ない。
ただ、疑念が確信に変わった。
おかしいのはこの街だけではなく、この地球上、全てだと。
「香山、俺たちどうしよう」
秀樹は頼りなく怯えていた。
「とにかく店を出よう。これ以上見ていてもなにも解決しない」
俺は秀樹を促して、店の出口へ向かおうとした。
すると、後ろから声がしてきた。
「お客様、なにも買わないんですか?」
振り返ると、不気味に笑った店員が立っていた。
俺たちは一瞬、身体が硬直してしまった。すると、次の瞬間、急に全力で走ってきたのだ。
俺と秀樹は、声を上げて、全力で逃げる。
なんとか、店の外に出た俺は、後ろも振り向かず逃げ続けようとする、秀樹の服を引っ張った。
「まて!止まれ!見てみろ」
そう言って秀樹を振り向かせる。
俺は案外冷静だった。
店を出た瞬間振り向くと、店員は外までは追ってこないで、そのまま引き返していた。恐らく店の外には出れないのだろう。
秀樹はそれを見て大きくため息をついていた。
「なんなんだよ、もうわからないよ!」
秀樹が喚きながらぶつけられない怒りを吐き出している。
「とにかく落ち着け、騒いだって、どうしよもないだろう。とりあえず状況を整理しよう」
俺までパニックになったら共倒れだ。一旦状況を確認しながら並べる作業に入った。
「まず、この世界は人の死については、倫理観がおかしい。すぐにどちらがいなくなるのか選択している」
「次に、公共交通手段は使えないということだ。タクシーは勿論、電車がダメなら、恐らく飛行機や船もダメだろう」
「最後に人との接し方だ。店は危険だから入らない方が身のためだ。歩いている人は関わらなければ危害はないと思う」
「これらのことから、俺たちは…」
その先がすぐに出てこない。
だからどうするんだってことを、自分でも理解してしまっているから。
「渚沙に会おう…」
俺の口は勝手に動いた。
秀樹は目を点にしてこちらを見ている。
「話しただろ、このペンダントのことも、渚沙のことも。だから、どうすることもできない今、あいつに会うのが最善策だと思うんだ」
俺はなにも言わない秀樹に向かって、街頭演説のような熱量で説得した。
「そうだな、それしかないよな」
秀樹は落ち着いたのか、どこか諦めを見せながら返答してきた。
俺たちは一言も話さずに、渚沙の家へ向かって歩き出した。
お互い疲れ切っていた。
内心、もうどうにでもなればいいと思っていた。
死ぬのは怖いが、死んだら元に戻れるかもしれないとまで考えた。
寒空の中、静まり返った街を歩き続ける。
吐く息が白くなることで、自分の体温を感じられて、生きていると実感できる。
どれぐらい歩いただろう。
渚沙の家まであと2キロくらいだろうか。
踏みしめる一歩一歩が重い。まるで靴が鉄でできているみたいに。
寒さで足先の関節が痛む。
歩き続ける俺たちの姿は、はたから見たらこの街の住人と変わらないのかもしれない。
たまに横にいる秀樹を見たが、俺と同じ様子だった。
ここまでくると、二人でいる安心感も消え去っていた。
この状況では、何人いようが変わらないと思う。相手は世界中の人なのだから。
絶望の最中、歩く傀儡となっている俺たちの後ろから聞き覚えのある音が聞こえてきた。
振り向くと、赤色の軽自動車が向かってきていた。
しかも、よく見ると、それは俺の愛車だった。
車が走っていることに加えて、それが自分の車という驚きが襲ってきた。
秀樹も同じように驚いている。
希望的な変化を期待していた俺たちにとって、車の登場は光だった。
だけど、不安が残る、それは、俺の車だからだ。
秀樹は俺の車ということを知らないから喜んでいたが、一言「あれ、俺の車だ」と伝えると一気に顔から喜びが消えた。
どんなやつが乗っているんだ。それしか頭になかった。二人で身構えながら車が横に来るのを待ち構える。
車を盗まれた苛立ちと、狂気に満ちた人々に対する恐怖心が入り混じる中、車は俺たちの目の前で停車した。窓越しに見えた光景に、本日何度目だろう、恐らく一番の衝撃を受けた。
車には運転席に父、助手席に母、後部座先に祖母が乗っていたのだ。全員、俺の目の前からいなくなったはずの家族だった。
俺は父と別れたあのときのような、呆然としたブリキ人形の表情になっていた。
そんな混乱する感情をよそに、車の窓はゆっくりと下がっていき、中から、運転席にいた父が話しかけてきた。
「慶太乗りなさい、渚沙くんのところまで送ってあげるから」
続けて母も言う
「そうよ渚沙くんに会いたいんでしょう」
そして祖母までも
「あんたはあの子に早く会わないといけないでしょ」
この三人の中で渚沙を知っているの祖母だけだ。
呆気に取られて自分を見失いそうだったが、俺でもわかる、これはまやかしだ、どう考えても夢だと。
目覚められないのが辛いが。
俺は咄嗟に、秀樹に逃げようと言おうとして、振り返ったが、そこには目を疑う光景が広がっていた。
なにもなかったのだ。
さっきまでいたはずの秀樹の姿はなく、ただの景色が広がっていた。
俺は叫んだ。
「秀樹!どこにいるんだ!逃げたのか!」
しかし、俺の声は空へと響くだけで、返ってこなかった。
目の前に広がる家族の光景と、突然いなくなった、この世界では唯一まともだった、元いじめっ子。
俺はパニックになった。
全てがどうでもよくなり、口から溢れ出る感情を抑えずに、なにもかも、目の前の家族にぶつけた。
「俺の車になに勝手に乗ってるんだ!浮気野郎!
万引き主婦も降りろ!おばあちゃんは良い人だけど、もう死んでるはずだろ!」
「全員降りろ!俺の前から消えてくれ!」
俺は振り絞った声で言った。
三人はどんな反応をするかと思ったら、びくともせず、無表情だった。
ただ、淡々と決められた発言かのように乗りなさいと同じ言葉を繰り返してくる。
俺は無視して渚沙の家まで歩き出そうとしたが、ケータイショップで店員に襲われそうになったときのように、身体が動かなくなってしまった。
なぜか、絶対にこの先、渚沙の家まで歩いて向かうことができない気がしていた。
歩きたい気持ちはあるのに、身体が動かず、暗示のように、歩けないと言い聞かせられているみたいだ。
この車に乗るしか渚沙のところへ行く手段はないと思ってしまう。
俺の目の前には存在しないはずの人間が乗っている車に、俺は乗らなければいけないのか?
ただ、そうこうしていると、操られるように、身体が勝手に動き出してしまった。
俺は後部座席に乗り込む自分を抑えられないまま、ひたすらペンダントに向かって祈っていた。
「さっきのケータイショップのときみたいに助けてくれ、渚沙!」
俺は心で唱え続けた。
しかし、そのペンダントから感じたのは、先ほどの暖かみではなく、言葉のイメージだった。
『あと少しだから頑張って』と。
なにが少しなんだ、信用していいのか。
存在全てに疑心暗鬼する中、俺はなすすべなく後部座席、祖母の隣へと座り、車は発進した。
恐怖や緊張、不安、マイナスの感情がひしめくなかでも、俺はできる限り冷静に周りの状況を観察していた。
確かに道は渚沙の方面へ向かっているな、この人たちは本当に渚沙のところへ送ってくれているのかもしれない。目的はわからないが。
警戒していると、突然母が話しかけてきた。
「慶太、私知ってるのよ、万引きした私をゴミを見るような目で見ていたこと。仮にも母親にあんな目を向けるなんて酷い子だったわ」
その言葉に続いて、父も話しかけてきた。
「慶太、俺がお前を捨てたのは、別の家族が恋しかったのではなく、お前と離れたかったからだ。お前は俺が母さんと別れてから父親ではなくゴミを見るような目で俺を見続けていた。俺はそれに耐えられなかったんだ」
最後に祖母も言った。
「あんた、私が病院で目覚めたとき、泣いてたでしょ、あのとき、必死に口角が上がるのを押さえていたんだろう。おばあちゃんは知ってるんだよ。あの涙は悲しさではなく、嬉しさだったってことを。私がもうすぐいなくなるとわかって、喜んでいたことを」
次々と浴びせられる偽りの真実。俺が思っていたことと真逆の現実、今まで被害者と思っていたことが加害者だったのかと、優しさは偽善だったのかと、自分すらも信用できなくなるような、その問いかけに、俺は思わず塞ぎ込んだ。
「違う!」と叫んだが、内心揺らいでいた。
俺はゴミを見るような目で見ていたのか?
祖母と離れたかったのか?
わからない。だけど、絶対違うとも言えない気がしてしまう。
目を瞑って「やめろ!」と叫んでもひたすら聞こえてくる。
嫉妬や憎悪を象徴するような、リアルな問いかけが。
俺には悲しむ感情があったはずだ。
人一倍悲しんで、恨んで、哀れんで、自分の置かれた環境を嘆いたはずだ。
俺が被害者だったはずなのに、なにが違うっていうんだ?
俺は鳴り止まない罵声の中、もう一度叫んだ。
「俺にはなにがないっていうんだよ!」
するとピタッと声が止んだ。
瞬間的に顔を上げると、横の祖母と前にいる父と母が、一斉にこちらを向いて言った。
「××がない」と。
俺はその言葉を聞いた途端、身体から魂が抜けそうな感覚に襲われた。
次の瞬間、車の中にいるはずなのに、後ろから誰かに抱きつかれる感覚があった。
俺は口からこぼれ出ていた。
「渚沙…」
あたりはこの世では例えようのないほど、眩い光に包まれて、俺は目を閉じた…
「間に合った」
光が収まって目を開けるとそこには車もなければ道路も街もない。
ただ、白であって透明な空間があった。
不思議と心が落ち着く。
それは、この空間のお陰もあるが、それよりも、目の前に夏目渚沙がいたからだ。
「会いたかった」
真っ先に俺の口から出た言葉はこれだった。
渚沙はいつもの微笑みを向けてくれた。
いつもの渚沙なのだが、いつもの渚沙ではない、そんな変わった雰囲気を感じる。
不思議なのだが、とても頼もしくて、神々しい存在感を発している。
座り込む俺に渚沙は静かに話し始めた。
「今の状況はわからないかも知れない、ただ、僕は慶太に育み続けた。問いかけ続けた。見つけるのは慶太でなければダメ」
言っている意味がわからないとはならなかった。
ファミレスで話していたときは、いつもなにを言っているのか理解できなかったが、今ならなんとなく言っていることがわかる。
具体的にそれがなにかはわからない。なにかをするとか、声に出すとか、そういう次元の話でないことはわかる。だけど、身体からそのなにかが出てこない。
どうしてなんだ、あるはずなのに。
いつかはあった気がするのに。
そう思い、項垂れる俺に対して、再び渚沙は声をかけてくれた。
「僕は間違えた。一度だけ先生に助けてもらえる機会を、目先の不幸に使ってしまった」
「僕は僕という存在をかけて、慶太を助けようとした」
「お願い、優しい慶太なら消えてないはずだから」
渚沙が涙を流しながら訴えている。
思えば、渚沙が泣いているのは初めて見た。
その涙を見た俺は、なくなったものがなにか考えるのではなく、純粋に、清らかな湧き水が、溢れるかのように自然に、想いが響いた。
『渚沙に泣いてほしくない…』
突如に白く透明な空間は、立ちまち、黒くなにもない空間へと包まれていった。
そこは色があるはずなのに感じられない。なにも空間を象徴できない場所、例えるのであれば、そう、虚無だ。
もはや場所とカテゴライズすることすらできない空間。概念自体がない。
辺りを見渡すと、さっきまでいたはずの、渚沙の姿はなくなっていた。
そして目の前には俺と似た、なにかがいる。
ただ、それを知覚することはできない。
そのなにかは問いかけてきた。俺の声を真似て。
「早くなくせ…」
「芽生えさせるな…」
「もう虚なのだから…」
俺は知覚できないそのなにかに対して、想い、願った。
「忘れたくない!」
「なくしたくない!」
自分がなにをしているのかすらわからない。ただ、心に従って今感じている想いだけを吐き出し続けた。
声は届かない。発声することができず、ただ感情が空をきるのみだった。
繰り返される問いかけに対して、俺は必死に反抗し続けた。
すると、虚無の空間ではなく、自分自身の心の中からフラッシュバックが流れ込んできた。
小学生の俺と渚沙。
休日俺の家で遊んでいる風景。
楽しそうに格闘ゲームをする俺たちを、空から見下ろしていた。
声は届かない。
ただ、映画を眺める感覚で、二人の物語を見ることしかできなかった。
しばらく二人を見ていると、俺が寝だした。
寝ている俺を横目で見ている渚沙。
見入っていると、突然渚沙が、空から見下ろす俺に目を向けた。
驚いた瞬間に、ノイズが入って、映像は乱れた。
頭が痛い。なにかに押しつぶされそうな感覚だ。こんなに痛い経験は初めてだ。
心臓?いや、心が痛む。
まるで、目の前の俺に似たなにかが握り潰そうとしているように感じる。
あと少しでなにか掴めそうだったのに…
俺は香山慶太。
一人っ子で父と母とは仲が良い。
今日は親友と遊ぶ約束をしている。
前から俺を呼ぶ人影が現れた。
「慶太!悪い遅れて。今日はキャンプ楽しみだな!」
明るく振る舞っているこいつは、宮坂秀樹。俺とは小学生からの同級生で、大学も同じだったから、仲の良い親友だ。
「秀樹遅いぞ!いつもそんなんだから、まあ楽しもうぜ!」
こいつはいつも集合時間の15分程度遅れてくる。
ただ、愛嬌があるから、つい許してしまう。
俺の家まで車で迎えに来てくれた秀樹が降りてくる。
「お前の荷物載せるの手伝うよ」
そう言ってキャンプ用品を一緒に載せていると、玄関から父と母が出てきた。
俺の家は一軒家の二階建てだ。
「慶太、楽しんでくるんだぞ」
「山道だから気をつけてね」
父と母がにこやかに笑って、言ってきた。
「お父さんお母さん、慶太をしばらくお借りします!」
秀樹が笑いながら言う。
「俺は物かよ!」
すかさず俺も笑いながらツッコミをいれた。
そうして、全員がにこやかに笑った。
「そうだ、来週はおばあちゃんの家に行くからね!楽しみにしててね!」
母が満面の笑みで言う。
とても楽しみだ。おばあちゃんに会うのは一ヶ月ぶりだから、今日のキャンプを土産話にでも持っていこうかな。
「行ってきます!」
俺と秀樹は両親に手を振って、出発した。
目的地は三重県
車内では大学にいる可愛い子の噂や、勉強の話など、たわいもない話で盛り上がっていた。
目的地まであと1時間程度のところで、秀樹がトイレに行きたいと言い出した。
丁度、パーキングエリアがあったので、そこに入って、秀樹がトイレから帰ってくるまで、俺は車で待っていた。
結構山に囲まれたパーキングエリアだな。少し窓を開けると草木から香る自然の匂いが鼻に入ってきた。
空気が良いと、心も晴れるな。
そうして、遠くの山を見ながら脱力していると、一瞬山の中心辺りから光るなにかが見えた。
「なんだ今の?」
俺は独り言を口に出しながら、目を凝らして、その光るなにかを観察した。
その光は段々大きくなっているようだった。
そして、俺の方に近づいてきているように見える。
徐々に迫ってくるなにかから、俺は目が離せなかった。
あと少しで実体が見える。
「ドンドンドン!」
その瞬間、ドアを叩く音がした。
「お前なにしてるんだ?」
秀樹が不思議そうな顔で俺を見てくる。
「びっくりした!なんか光ってたんだよ」
「ほら、あっちに…」
驚いて身体が飛び跳ねた俺は、すぐにもう一度光の方を向いた。
しかし、その光はなくなっていた。
「変なやつだな、よし、いくぞ、お前はトイレいいのか?」
秀樹は運転席にそそくさと乗って、エンジンをかけた。
「ああ、いいよ…本当にあったんだけどな…」
よくわからないが、まあいいか、そんなことよりキャンプが楽しみだな。
ほどなくして、キャンプ場に着いた俺たちは、慣れた手つきでテントを立てて、バーベキューの準備をした。
時刻は午後1時、少し遅めの昼ごはんだ。
肉を焼いて、食べながら、昼から缶ビールを開ける。最高の休日だ。
そのあとも二人で笑い合って充実した時間を過ごした。
次の日、帰り道のサービスエリアで安永餅をお土産として買っていってあげたら、両親は喜んでくれていた。
次の週は祖母の家に行って、ご近所さんの子供と遊んだりして、楽しんだ。
俺は凄く幸せな人生で恵まれていると思う。
だけど、最近夢で見るんだ、俺の知らない人が俺に話しかけてくる夢を。
その日の夜も同じ夢を見た。
真っ白で透明な空間に俺はいる。
周りにはなにもないし、声も通らない。
ひとりぼっちだけど、自然と不安ではなかった。
「またこの夢か」
初めてこの夢を見たときは、焦って呼びかけ続けたが、今では、あるきっかけで目覚めることがわかっていたので、特になにもしなかった。
「慶太…」
きた。いつもこの声が後ろから聞こえたあとに、振り返ろうとすると夢が覚める。
「お前誰なんだよ!」
俺はいつものように振り返った。
しかし、今日は違った。振り返っても夢が終わらない。
「見てくれた!まだ戻れるよ、慶太!」
涙を流しながら訴えるのは、中性的で小柄な、男性と思われる人だった。
「誰なんだよ?」
そう言った瞬間、なにかに引きづられるようにして目が覚めた。
あれはなんだったのだろう?
その日の朝、変な人と会った話を両親にした。
「今日さ変なやつが俺に対して、戻れるとか言ってきたんだよね、なんなんだろうね」
俺がにやけながらそう言うと、父が返してきた。
「気にしなくていいだろ」
なぜか急に強い口調で言い返されて、俺は少し恐ろしいと感じだ。
普段温厚だから、なにか悪いことでも言ったのかと焦った。
そして一瞬、両親の目が二人とも真っ黒になった。
瞬きをした瞬間戻ったので、一瞬すぎたが、かなり驚いた俺は「あっ!」と声を出してしまった。
「今、目が黒かったけど大丈夫!?」
咄嗟に反応したが、二人は何事もなかったかのように「どうした?」と返してきた。
その一言に込められた圧が異様に強く感じたため、俺はそれ以上、なにも言えなかった。
その日は大学で秀樹と同じゼミを取っていたから、授業が始まる前に、朝の出来事を話した。
すると秀樹はこう言ってきた。
「それはどうでもいいことだろ」
同じ顔だ。朝の両親と。
「なんだよ、俺、怒るようなこと言ったか?」
少し不機嫌になった俺は、少し強い口調で秀樹に言い返した。
すると黙って聞く秀樹の目が瞬きと同時に、一瞬真っ黒になった。
「あっ!?」
驚いて思わず声を上げてしまった俺を、室内にいた全員が見てくる。
「お前変だぞ、恥ずかしいだろ」
秀樹が驚いた様子で言ってくる。
驚くのはこっちだ。絶対見間違いじゃない。朝は半信半疑だったが、確信に変わった。
黒い目は一体なんなんだ、それに、夢に出てきたあの子は誰なんだ、疑問の一つも解決できないまま、俺は大学を終えて、帰宅していた。
結局、頭の中がそのことばかりで、全く授業に集中できなかった。
名古屋の大学へ電車で通っていたから、帰りは、いつも、地元の知立駅で下車して自転車で帰っている。
今日も変わらず、知立駅で下車して、家まで2キロ程度の道のりを自転車で帰っていた。
しばらく自転車を漕いでいると、河川敷に老人が座っているのを見かけた。
近くを通り過ぎるとき、俺は急ブレーキをかけた。老人は座っていると言うより、疼くまっているように見えたからだ。
俺は自転車から降りて、すぐに老人の元へ向かった。
「大丈夫ですか?気分が悪いんですか?」
老人は覇気のない声で返答してきた。
「優しい青年。ありがとう。少し疲れて休んでいただけだよ。ここはずっといると疲れるからね」
よく意味はわからないが、無事なら安心した。
老人は痩せ細っていて、白髪だった。ご隠居生活を送っているような風貌で、落ち着いた服装をしている。
「丁度君にこれを渡そうと思ったんだよ」
老人はそう言うと徐にポッケからあるのものを取り出した。
「なんですかこれ?ハートのペンダント?」
それは女性が身につけるような、綺麗なハートのペンダントだった。
「これは君のだから返すよ」
俺はいきなりそんなものを渡されても受け取れないし、こんなペンダントを持っていた覚えもない。
ネックレスはたまにするが、ハートは身につけたことがない。
「俺のじゃないですよ、人違いです」
そう言ったが、老人は俺の手を掴んで、無理やり握らせてきた。
なぜか俺は老人のその行動に抵抗できず、されるがままに、ペンダントを受け取ってしまった。
ペンダントを握ったまま、俺はなぜか、急に話し始めてしまった。
「最近変なことが多いんですよ。身近な人が黒い目になったり、会ったことない人が夢に出てきたりして」
なんでこんなこと赤の他人に話しているんだろう?頭で考える前に、自然と口に出して話してしまっていた。
老人からしたら、急に言われても、意味がわからないはずなのだが、悟ったかのようにして、返してきた。
「黒い目は本当の姿だよ。人ならざる者は人に憧れ欲する。そうして虚構の穴をつくろうとするんだよ」
そう言ってきた老人の姿は、どこか祖母に似た雰囲気を纏っており、年の功で、全てを知ってるかのような面持ちだった。
意味は一つも理解できなかったが、俺は「ありがとうございます」とだけお礼を言って、その場を立ち去ろうと、河川敷を上がり自転車に跨った。
もう一度、さようならと挨拶をしようとして、河川敷を見ると、そこに老人の姿はなかった。
川に落ちたのかと焦ったが、川までは距離があったから、入る時間なんてなかったはずだし、突然消えたのだ。
幽霊でも見たのかと思い、寒気がした俺は、日が暮れる前に急いで家へ向かった。
家に帰ってから、両親には老人との出来事を話さないようにした。なぜか話してはいけないような気がしたからだ。
ご飯を食べてから、自分の部屋に戻った俺は、ふと、ポッケにしまっていたペンダントを取り出した。
幽霊からの贈り物かもしれないと思い、少し恐怖を感じながらも、怖いもの見たさでそのペンダントを眺めていた。
すると、突然スマホが鳴り響いた。
少しビクッと身体が痙攣して、スマホをみると画面には非通知の着信が表示されていた。
誰からだと思い、俺はその着信に警戒心なく出た。
聞こえてくるのはザーっと鳴るノイズ音だった。
しかし、よく耳を凝らしすと、奥の方からなにかが聞こえてくる。
「つけて…ね…て…」
なんだ?よく聞こえない。
「どちら様ですか?聞こえませんよ?」
俺の問いかけにも反応せず、ひたすら小さな声が聞こえる。
「つけて…ねて…」
つけてねて?どういう意味だ?
「つけてねてってなんのことですか?聞こえてますか?」
俺が聞き返していると、突然電話は切れてしまった。
一体なんだったのだろうか?つけてねてって、なんのことだ?
いたずら電話かもしれないのに、俺は真剣に考えていた。
つけてってなにをだ?ねてっていうのは、多分眠るってことなのだろうが、つけるがよくわからない。
そう考えていると、握っていたペンダントが目に入った。これのことか?俺はなんの根拠もなかったが、そう感じた。
お風呂に入っている間も、考え続けた末、結局俺は老人から渡されたハートのペンダントをつけて、眠ってみることにした。
今日は色々あって疲れたのか、すぐに眠りに落ちた。
気づくと、俺は空からある光景を見ていた。
目の先にはある部屋。アパートだろうか?その一室で遊ぶ二人の子供がいた。
誰かわからない。だけど、よく見ると一人は今までの人生の中で最も知っている人物だった。
それは小さい頃の俺だ。
俺と遊んでいる子はわからないが、変な夢だ。
二人はゲームをしていて、楽しそうに遊んでいる。
しばらく見ていると、声が聞こえてきた。
「渚沙!もう一回だ!次は負けないからな」
「慶太いつもそう言って負けたら三回勝負とかズルするじゃん」
渚沙?って誰だ?俺にはこんな部屋で遊んだ記憶も、こんなやつと一緒にゲームをした記憶もない。
その後もしばらく見ていると、今度は俺、正確には子供の俺が、疲れたと言って寝だした。
少し時間が経つと、横にいる渚沙とかいうやつが俺の方を向いた。
そして…、あれ?俺はなんで…泣いているんだ?
気がつくと俺の目には涙が溢れていた。
涙で前が見えない。わからない。
渚沙…?渚沙…?渚沙!
あたり一面が、暗闇に包まれた。
今の俺は怖くない。痛くも苦しくもない。
あの日、そう、あの日だ、暖かな日、小学6年生の春、渚沙と遊んでいたあの日、俺は寝てはいなかった。
ゲームで疲れて渚沙の横で寝てしまったが、すぐ目が覚めていた。
起きようとしたその前にあったことを俺は覚えていたんだ、なくしてしまったけど。今はわかる。
「やめろ…消せ…」
「あれは偽善だ…」
「あいつは自分の欲求を満たしただけだ…」
「ずっと美しい世界で暮らせるんだ…」
「それで良いだろう?」
俺に対して、虚な存在は、語りかけてくる。
俺はもう怯まなかった。一瞬見れた美しい人生。正直留まりたかった。あんな世界があったら俺は幸せだったのかもしれない。
だけど、違う。強靭な想いが固まっていた。
「違う、今なら言える、そんな人生は違うと」
「渚沙、俺わかったよ、だから自分で見つけないとダメって言ったのか」
「あの口付けは『相愛』だったと」
「やめろ!あと少し、あと少しだったのに…」
核心をついた想いを虚に向けると、やつは酷く歪んだ想いを浮けべながら崩壊した。
後にはなにも残らなかった。
哀れな残像も、悲痛な叫びも、燃えるような憎悪もなにもかもなかった。なにもないから虚だった。
虚無の世界はなにもない、消えたとしても概念がないから、残らない。
眩い光だけが俺の目の前を照らした。
これでよかったんだ…
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