第一章 俺と彼

 俺、香山慶太かやまけいたと彼、夏目渚沙なつめなぎさとの出会いは小学生に遡る。

 愛知県知立市ちりゅうし、都会と田舎の中間のような街に俺たちは住んでいた。

 東京の街のように発展しているわけではないが、かと言って過疎化しているような街でもない。

 簡単に言うと住みやすい街だ。

 俺たちはこの知立市の小学校で、5年生の時に出会った。

 長い付き合いだと出逢いを懐かしんだりするものだが、正直いうと俺は出会った時の渚沙の印象を特に覚えていない。

 忘れてしまったというよりも、出会った時から、特になかった。

 気付いたらそばにいて、ずっとくっついてくるような存在だったからだ。

 なぜそこまで印象がなかったかというと、当時の俺は他者に構えるほど、自分に余裕がなかったからだと思う。そこには、俺が学校でいじめられていたことが関係していた。

 自分でいうのもなんだが、今となって思い返してみても、結構酷いいじめだったと思う。

 原因は小学生ながらに、当時からわかっていた。

 俺の両親は2010年、当時小学3年生、9歳のときに父親、母親の二人ともいなくなっている。

 いなくなったというと、亡くなったと印象を持たれやすいが、死別したわけではない。

 望まずして両親を亡くしてしまった人に対して、不謹慎かもしれないが、死別した方がマシだったと思ってしまう。両親が俺に負の遺産を残すくらいなら。

 母親の香山恵美えみは俺が小学3年生の夏に万引きをして警察に捕まった。

 近所のスーパーで常習的に犯行に及んでいたらしい。

 被害総額は約3万円。

 そこまで大きくない金額に思えるが、考えてみて欲しい。

 スーパーの代表食材、キャベツで例えると、大体1玉160円くらいだから、3万円分だと、約187玉盗んだことになる。

 勿論キャベツだけ盗んでいたわけではない。ジャムの瓶やお刺身など、キャベツよりも高額な商品も盗んでいたのだが、こうやって考えてみると、スーパーにとっては大損害となっていたことがわかる。

 同じ店舗で半年前から少しづつ犯行に及んでいたそうで、不審に思った店側が万引きGメン(※万引き犯を捕まえる職員)を雇い、逮捕へと繋がったらしい。

 息子ながら、今となっては、同じ場所でずっと犯行をしたら見つかるのは時間の問題だし、そもそも、なぜそんなことをしたのかと、呆れてしまう。

 我が家はお金に然程困ってはいなかった。父親の給与明細を見たことはないけど、一般企業、確か自動車関係の営業職だったと思う。年収は大卒入社だから450万円程度だろう、日本では一般的な水準の収入だと思う。

 母親も、パートで工場の梱包作業をしていて、共働きだったから尚更、困っていたはずはないと思う。

 勿論借金をしていた、なんてこともない。

 それなのに犯行に及んだ理由は、平凡な毎日に嫌気がさして、一度盗んだらスリルが病みつきになってしまったから、らしい…

 大人になって、祖母からその理由を聞いたときは呆れ果てたが、意外に万引き犯にはこういった動機で動く人が多いらしい。

 生活には困っていなくても、スリルが与える興奮への欲求に駆られてしまう心理の人が多いというのを、ニュースやドキュメンタリー番組を見て知った。

 大人でなくても、子供がピンポンダッシュをしてしまう心理と似ていてスリルを求めるのは人間の本質に眠っているのかもしれない。

 ただ、どちらにしても人に迷惑をかけることをやっていい理由にはならないが。

 ともかく、こうして母は捕まったのだが、割と早く、小学3年生の俺は、その事実を知った。

 知ったというより、、というほうが正しいのかもしれない。

 母が捕まってから、1週間後、家に母方の祖母の鮎川万智あゆかわまちが来た。

 祖母は長野県に住んでいて、今回の一件を知り、飛んできたらしい。

 我が家は築15年2LDKの賃貸アパートなのだが、そこのリビングで父の香山さとしと祖母が話しているのを聞いてしまった。

 盗み聞きをするつもりはなかったが、祖母の声は大きかった。

 俺には聞こえないように、小声で話しているつもりだったと思うが、祖母の小声は一般人の談笑くらい大きかった。

 そんな大きさでは、廊下を挟んで向かいの子供部屋にいた俺の部屋まで、当然のように聞こえてきてしまい、嫌でも知ってしまった。

 たまに父が「お母さん、もう少し小声で」と声をかけていたから、父も俺に聞かせないようにしようと配慮していたのだと、今では思う。

 母がいなくなった理由を知った当時の俺は、至って冷静で、取り乱すことはなかった。

 子供の頃の俺は、いつも物静かで、周りの出来事に興味がわかない性格だったため、自ら主張することはしなかった。傍から見たら、良い意味で落ち着いていて、悪い意味で積極性がなく、ませているように見られていたと思う。

 そんな性格は、家族だろうと変わらなかったので、今回母が起こした一件に関しても、驚きはしたものの「お母さんが悪いことをしたから、警察に叱られて戻って来るんだな」と楽観的に考えていた。

 しかし、ことはそこまで単純には行かなかった。

 祖母は、非常に義理人情の厚い性格で、長野に一度遊びに行ったときは、近所の人たちが普通に祖母の家にいた。そして、まるで家族のように暮らしていたのだ。

 当時小学1年生だった俺は理解ができず、祖母に「この人たちは誰?」と尋ねたら、祖母は「みんなおばあちゃんを助けてくれる人たちだよ」と答えた。

 当時はヒーローみたいな人なのかなと思っていたが、違った。

 いわゆるご近所さんだ。

 祖母はご近所付き合いを自然と当たり前に行えるくらい、人情に溢れた人間だった。

 田舎ならではの人付き合いなのかもしれない。

 俺だったら、頻繁に他人が来たら嫌になってしまうと思う。

 そんな人情味溢れる人なら、家族関係も良好で、頻繁に帰省していてもおかしくないはずだが、俺が祖母の家に一度しか行ったことがなかったのには、理由があった。

 祖母と母は昔から仲が悪かったらしく、結婚、出産報告はしていたらしいが、報告で二回帰っただけで、俺が生まれてからは一度も顔を見せなかったらしい。

 俺が生まれてから、一度だけ長野に行ったのも、父と連絡先を交換をしていた祖母が、孫の顔を見たいと言って父に説得するよう頼んで実現したと、数年前、祖母から聞かされて、初めて知った。

 見たいのはではなく、だったので、やはり仲は悪かったのだろう。

 そんな祖母が、今回、万引きの一件で「あんたみたいな恥晒しは、息子おれを教育できる立場ではない」と母が刑務所から釈放された後に言い放ったそうだ。

 そう言われた母は「それなら私は一生縁を切ります。息子は貴方が正しいと思うその教育方法で育てればいい」と、謝るのではなく逆上したらしい。

 こんな会話があったことは最近になって祖母から教えてもらった。

 恐らく、お互いが勢いで口論をしてしまったのかもしれない。しかし、両者の自分に対する自尊心と、相手を見下すプライドのせいで、お互い引くに引けなくなり、その結果、本当に母はいなくなってしまった。それだけ、二人が歩んできた人生の確執は、血が繋がっていようと、膨れ上がっていたのだろう。ただ、被害を受けた俺からすると、なんて幼稚なことなんだと思ってしまうのが率直な感想だ。

 自分たちの意地のために、母を失って犠牲となる息子の気持ちを考えたのかと、今ならあの時、二人を前にして言ってやりたかった。

 そんな最中、父はというと、俺と似て物静かな性格だからか、祖母と母のやりとりに圧倒されて口も出せていなかったそうだ。

 こうして、俺から母親という存在がいなくなった。

 万引き騒動の後、母がいなくなった家はとても静かに感じた。

 それだけ、一人の人間がいなくなったことは大きな穴を開けていた。

 そんな虚しさの残穢が残る家に、俺は父と二人で暮らすようになるのだが、家にはたまに祖母が訪れるようになった。流石は義理人情の厚い性格なだけあって、わざわざ長野から愛知に来ては、俺の面倒を見てくれていた。

 祖母の立ち回りは上手く、程良い距離感で俺と父に接していたから、かなり気を遣っていたのだろう。

 そんな祖母の優しさに甘え始めたのは俺ではなく、父だった。

 そして、不幸は続き、俺が小学4年生の春に父が別の女性と子供を作りいなくなった。

 父は万引きの一件もあって、母がいなくなるタイミングで離婚しており、親権は父にあった。

 親権がある以上、子供を育てる責任はあるはずだった。

 しかし、祖母が頻繁に俺の様子を見に来てくれるのを良いことに「仕事が忙しい」と祖母に嘘をついて、自分の寂しさを埋めるために、合コンで知り合った女性と頻繁に会っていたそうだ。祖母はなんとなく察していたものの、強くは言えなかったらしい。

 そして、二人の間に子供ができるまでには二ヶ月とかからなかった。

 やがて父は、新しく出会った女性と、そのお腹にいる子供にばかり気持ちがいってしまい、俺のことは二の次になった。

 それは、父とその女性との関係を知る前から、なんとなく俺に対する接し方が、素っ気なくなっていたから、感じていた。

 例えば、俺が友達とお泊まりしたいと言ったら、前までは「向こうのご両親に挨拶しなさい」とか「夜は絶対に外に出るなよ」とか最もらしいことを言っていたのに、二の次になってからは、同じ状況でも「何時に帰って来る?」とか「良いんじゃない」とだけぶっきらぼうに言われた。

 恐らく、俺がいない間、女性を家に呼んでいたのだろう。これはあくまで俺の憶測だが。

 当時は自分の息子として、見ていたのかすら、疑問に感じてしまう。

 それだけ、父の俺を見る眼差しは虚しく見えた。

 自分は楽しんでいるくせに、二の次になった俺には玩具の一つも買い与えてくれなかった。11月24日、俺の誕生日でさえも…

 俺は昔から駄々を捏ねなかったが、流石に誕生日がなにもないのは傷ついた。

 せめてもの救いは、悲しむ俺を見兼ねて、後日、祖母が遊園地に連れて行ってくれたことだった。

 母との別れは、祖母の一言が要因でもあるが、この時は素直に嬉しかった。

 母を失った家庭は崩壊寸前まで突き進んでいた。

 そして、事態は更に悪化する。

 俺が小学4年生に進級した春、父は祖母に俺を育てるように言い放ち、親の責任を放棄した。

 あの時、父から告げられた言葉は、今でも鮮明に覚えている。

 あの日は強い雨が一日中降っている日だった。ガラス窓に当たる激しい雨粒の音が初夏の蝉のようにうるさく鳴り響く中、父は話し合いをしたいと言い、俺と祖母をリビングに呼んだ。

 祖母は話し合いのために長野から呼ばれていた。

 午後5時、もう夜ご飯の時間だったが、食卓の上にご飯はなく、なにも置かれていないダークオークのテーブルに俺、祖母、父の三人は座っていた。

 しばらくの沈黙は、まるで裁判が始まる前の法廷のような、異様な静けさを醸し出していた。

 初めに口を開いたのは祖母だった。

「智さん改まってどうしたの?今日は」

 その言葉に父は深く深呼吸をして答えた。

「単刀直入に言います。私は別の家庭を持つので、貴方たちとは縁を切ります」

 溜めて言い放たれたその残酷な言葉に、俺は呼吸ができなくなりそうだった。

 外から激しい雨粒が侵入してきて、その水が部屋を満たし、海の中にいるみたいだった。

 そこからの会話はよく覚えていない。

 祖母が目頭に涙を浮かべながら、必死に父を説得する姿や、死んだ魚のような目をして気力と興味をなくした父の姿しか覚えていなかった。

 全てを話し終えた後、父は、祖母に向かって「あなたの娘さんが万引きをしなければこうはならなかった」と言った。

 その言葉に祖母はなにも言い返せていなかった。

 義理人情が邪魔をして、自分の娘が父を苦しめた事実に負い目を感じていたのだと思う。

 最後に父は呆然とブリキ人形のように無表情に座る俺に対して、語りかけてきた。

「ごめんな」

 この一言には様々な葛藤があったのかも知れないが、俺からしたら知ったことではない。

 どんな理由であれ、なぜ息子を捨てられるのか全く理解ができないし、理解もしたくなかったからだ。こんな言葉はかけないで欲しかった。

 それからすぐに、父は荷物をまとめて出て行った。

 そして、俺から父親という存在もいなくなった。

 この家の賃貸契約は解約された。

 行く宛のない俺に、祖母は長野で一緒に暮らそうと提案してきた。

 だけど、地元の小学校を離れたくなかった俺は、その想いを伝えると、祖母は特に理由を聞かず、この知立市でアパートを借りて一緒に移り住んでくれた。

 離れたくなかった理由は、当時、もうなにも考えたくなくて、新しい環境に慣れることすら億劫に感じていたからだった。あの時の俺は、全ての気力を失っていた。

 母の万引きで祖母が来たときは、母に対する頑固な態度が少し憎らしかったが、今では助けてくれた恩人と思っている。

 そして、小学4年生の春の終わりから、祖母との二人暮らしが始まった。

 祖母との生活には、全く苦を感じなかった。

 父がいなくなる最後の方は、祖母が面倒を見てくれていたようなものだったからだ。

 やっと安心できる生活を送れる。

 そう思っていた矢先、不幸は更なる不幸を呼んだ。

 昨年起こった母の万引き事件から、今年の父の件と、立て続けにトラブルに見舞われたことによって、俺は精神的に疲弊し、たびたび学校を休んでいた。

 昨年から今年にかけて、何回も休んでいると、噂はすぐに広まった。それが学校というものだ。

 まず、母の万引きが広まり、次に父に捨てられたことが広まった。

 情報源はわからないが、いずれは広まっていたと思う。

 そして、俺はのレッテルを貼られた。

 俺が好き好んで万引きをしたわけでも、捨てられたわけでもないのに。

 子供は残酷だ、俺はすぐに仲が良かった友達からも、そうでない人からもはぶられた。

 先生も哀れみの目を向けてくる。

 最悪な環境だった。

 俺は物静かな性格だから、当時4年生の時、ガキ大将の立ち位置にいた、宮坂秀樹みやさかひできという男に目をつけられてしまった。

 秀樹はお世辞にもイケメンとはいえないが、4年生にしては大柄な体格だったため、皆どこかで怖がっていた。秀樹は、そんな怖がられる自分に酔っていたのだと思う。

 自分が強い狼だとしたら、獲物に弱い羊を狙うのは自然の摂理だ。俺は秀樹から羊に見られてしまった。

 それからは、やつと子分の取り巻きで、俺をターゲットにした様々ないじめが始まった。

 下駄箱の上履きを隠させるのは当たり前、ノートをゴミ箱に捨てられる。

 黒板にと書かれる始末。

 いじめと聞いて多くの人が思い浮かべるような代表的な行為は一通り経験したと思う。

 いじめとはどのような行為なのか?という定義に対して、代表例が人々の脳裏に浮かんでしまうというのも、皮肉な話だが。

 ただ、そんないじめを俺は全て黙ってやり過ごした。小学生ながらに、反発すると悪化してしまうことを、本能的にわかっていたからだ。

 しかし、俺の毅然とした態度が気に食わなかったのか、ある放課後の帰り道、秀樹とその取り巻きに学校から少し離れた公園へと連れて行かれてしまった。

 公園で、少し眉間に皺を寄せ、苛立ちを見え隠れさせる秀樹が言ってきた。

「お前だろ。みんなに迷惑かけてるんだから謝れよ」

 なぜ俺が謝らないといけないんだ。

 そう思いながらも、プライドより、面倒臭さが優った俺は落ち着いて謝った。

でごめんね」

 それを聞いた秀樹は自分のことを下に見られて、いなされているように感じたのか、更に怒りを露わにしてぶつけてきた。

「お前が生きてるせいで、みんなが迷惑してるんだよ、死ねよ」

 みんなっていうのは誰のことだよ。俺は心ではそう思って反抗していたが、表には見せず、至って冷静にやり過ごした。死ねという言葉に対しても、それほど傷ついた素振りを見せないで、再び謝った。謝ることで、この場が過ぎればそれで良かった。

 しかし、その行動が返って火に油を注ぐ形になってしまい、秀樹の感情は更にヒートアップした。

 今まで、いじめは沢山受けてきたが、どれも、物を隠されたり、暴言を吐かれたりと、自分の身体に直接的な被害が出るものではなかった。だが、この日は違った。

 怒り狂った秀樹は、自分の言うことを聞かない目の前のおれを邪魔な存在とみなして、自慢の大きな体を使って殴りかかってきた。

 顔は避けて、お腹や足に、蹴りやパンチをいれてきた。顔だと誰かにバレるから、子供ながらに判断してお腹や足にしたのだろう。妙に頭がキレる奴だった。やることは非常に幼稚だったが。

 殴っている最中も、ひたすら「死ね!」と連呼していた。

 流石に俺も痛いのは嫌だし、殺されると思ってしまい、必死に抵抗した。

 周りの取り巻きも、さすがに、秀樹が手を出すとは思わず、驚いたのか、必死に止めようとしていた。

 大体5分くらい続いたと思う。人通りが少ない道に面した公園だったが、運良くおじさんが通りかかった。

 現場に遭遇したおじさんは、大きな声で「お前らなにやってる!」と怒鳴ってくれた。

 そのおかげで、秀樹含めた全員が、焦って逃げていった。

 足に擦り傷や、あざができていた俺に対して、おじさんは心配してくれたが、俺は恥ずかしくなってしまい、その心配を無視して逃げてしまった。

 その日は家に帰ると、祖母に怪我のことを凄く心配されたが、俺は転んだと言って、よくある嘘をついた。

 あのときの祖母が、いじめられていることを察していたのか、ただの喧嘩と思っていたのか、それとも、本当に転んだと思ったのか、それは今でもわからないが「そうかい」と返してきた祖母の言葉には、包まれるような暖かみと僅かな不安が混じっていたのを覚えている。

 学校で今まで受けたいじめのことや、公園で殴られたことを先生に言えばよかったのかも知らないが、先生も全員、俺の境遇に哀れみの目を向けてくるから、俺はその目をする人間に頼りたくなくて、意地を張ってしまい、伝えることができなかった。

 公園の出来事から、秀樹はやり過ぎるとバレるかもしれない危険性を感じたのか、殴ってくることはなくなった。

 しかし、エスカレートしなかっただけで、相変わらずいじめは続いたし、はぶられていた。

 毎日家で夕食を食べているときに、祖母の「今日は学校どうだった?」と聞かれるその言葉に、笑顔を取り繕うのが当たり前になったのは、いつからだろうか。

 俺のわがままで、祖母が長野からわざわざこっちに来てくれた手前、今更長野に行きたいとは言えない自分がいた。

 表面上では物静かに振る舞っていても、内心は嫌で嫌で叫びたかった。

 ご飯を食べ終えて自分の部屋に戻るたびに、死のうと思っていた。

 だけど、俺にはそんな度胸はなかった。

 目が覚めたら死んでいないかな。

 持病もなく、健康な俺の身体が、突然、都合良く機能を停止させるはずもなく、目を瞑ると朝日は当たり前に昇っていた。

 そんな苦痛の4年生を一年間も耐え抜き、俺は5年生へと進級した。

 相変わらずいじめは続いていたが、そんな俺にも幸運と呼べる変化が訪れた。

 それは、5年生へと進級した最初のホームルームで彼、夏目渚沙がこの小学校に転校してきたことだ。

 彼はどうやら帰国子女らしい。

 見た目は少し大きめの目に身長は小さく、痩せている。

 ハーフっぽく見えるが、実際のところはどうなのかはわからない。どこの出身なのかすらも教えてくれないし、毎回答えたと思ったら、日本・アメリカ・ロシアなど適当な返答ではぐらかされてしまう。

 誰も彼のことは詳しく知らない。

 俺は先生とあまり話さなかったから、渚沙のことで先生に質問はしなかったが、恐らく聞けていたとしても、先生が知っていたかは定かではない。

 そんな彼は転校してすぐに、なぜか俺に懐いてきた。

 同じクラスで席が左斜め前だったのもあるのだろうが、隣ではなく、俺ばかりに話しかけてきた。

 渚沙の隣の席は男子だったから、思春期の男子によくある、女子だから話しかけづらい、とかはなかったはずなのに。

 初めは、いじめられていた俺に同情でもしたのかと思っていたが、休憩時間も放課後もずっと俺についてきた。

 善意でやっているのであれば、大きな勘違いをしている。

 別に友達が欲しいわけではない。

 ただ、耐え抜いてこの日々が過ぎればそれでいい。

 変化なんて余計に疲れてしまうからいらない。

 俺は、渚沙を半ば跳ね除けるつもりで「俺といるとお前もいじめられるよ」と伝えた。

 しかし渚沙は「そうなんだ」としか言わず、特に慰めるわけでもなく、俺を心配する素振りすら見せなかった。

 この時から渚沙は不思議な奴だった。

 俺がどれだけ跳ね除けても着いてくるせいで、案の定、渚沙は俺とセットと見られてしまい、巻き添えで秀樹たちからいじめられるようになった。

 ただ、彼の反応は予想外のものだった。

 上履きを隠されても暴言を吐かれても、はぶられても、泣いたり怒ったりせず、かと言って俺のように無関心にやり過ごすわけでもなく、俺に対して微笑みかけてきたのだ。

 本当によくわからない奴だった。そんな渚沙の姿を見ていると俺は馬鹿にされているように思えてしまい、不満が溜まった。

 毎日、目にする光景に俺は我慢の限界だった。

 ある日、学校の休憩時間、人気のない校舎の裏庭へ渚沙を呼び出して、聞いてみることにした。

「なにがそんなに笑えるんだよ」

 溜まった不満を吐き出し、強い口調で口走る俺に対して、彼はこう言った。

「笑顔はみんな平等にあるものだから」

 この言葉の真意は大人になった今でもわからない。

 意味不明な言葉に怒る気力が無くなった俺は、それ以上なにも言わなかった。

 そんな、不思議な彼の登場に続いて、更に不思議なことが起こった。

 小学6年生に進級する直前で秀樹たちからのいじめがなくなったのだ。それも、徐々にではなく、いきなりだった。

 変化に気付いたのは、週明けの月曜日に登校した日。クラスメイトは先週まで目すら合わしてくれなかったのに、まるで、俺に対していじめが起こっていた現実が丸々無かったかのようになっていて、みんな「おはよう」と挨拶をしてきた。

 俺は酷く戸惑った。はぶられる毎日に慣れていたからこそ、今の状況は一体、どんないじめの方法なんだと疑った。

 だが、上げて落とされるわけでもなく、クラスメイトの態度に全く悪意を感じなかった。

 それが、更に気持ち悪かった。

 いじめ主犯格の秀樹はというと、いつもクラスの後ろの席でふんぞり返って、俺に対してヤジを飛ばしてきていたのに、今日はなにも言ってこない、かと言って、大人しいわけではなく、相変わらず横柄な態度は変わらないが、俺に見向きもしない。そもそも俺に興味がないように見える。

 別に構って欲しいなんて、これっぽっちも思っていないが、あまりの変化と、この環境の異様さに寒気が走った。

 誰かがいじめのことを先生に言ったのかと思ったが、だとしても土日を挟んで月曜日にこの態度はおかしすぎる。いじめに関して、先生に呼び出されたりして、なにか対応があったわけでもないのに。

 自席で硬直している俺をよそに、クラスの入り口から、渚沙が呑気な顔で登校してきた。

 俺と一緒にいたせいではぶられていた渚沙も、同じようにクラスメイトから挨拶をされていた。

 しかし、渚沙は動揺せず、まるで、みんな仲の良い友達だったかのように、挨拶を返していた。

 渚沙の不思議な性格なら、変化に動揺しないのも少しは理解できるが、あまりにも、いつもと変わらない笑顔の渚沙を見て、俺は直感的に渚沙がなにかしたと思い、その場では聞かず、下校中、いつも通りついてくる渚沙に問いかけた。

 すると、渚沙はいつもの微笑みの中に、どこか自慢げな雰囲気を纏って伝えてきた。

「先生になんとかしてもらったんだよ」

 その言葉には理解できない矛盾が沢山あった。

 なぜいじめられていた俺が、先生に確認もされず、秀樹たちからもなにも言われず、いじめがなくなったのか?なぜ月曜から急にみんなの態度が変わったのか?理解できないことだらけだった。

 しかし、渚沙の言葉を聞いたときの俺は、それ以上深く追求しなかった。

 なぜ?よりも、これが現実ということが嬉しかったからだ。

 今まで背負ってきた苦痛が、嘘みたいになくなって、とにかくほっとしていた。

 その安心が理由か定かではないが、当時の俺は矛盾のピースを埋める作業よりも、流れに身を任せることを優先させた。

 大人になってから、あのときのことに、少しだけ疑問を感じた俺は、改めて渚沙に聞いてみたが、同じように「先生になんとかしてもらった」と言われた。

 大人になった今でも、その返答に対して、なぜか追求ができなかった。

 そうして、入学からいじめられる前まで通っていた、あの平穏な小学校にタイムスリップした気分で小学5年生の終わりから卒業まで学生生活を続けた。

 俺と渚沙の関係は、初めは、ついてくる存在と、それを煙たがる存在の関係性だったが、今回いじめがなくなったことを起点として、俺の家でゲームをしたりと、よく遊ぶような仲になった。

 もしかしたら、いじめがなくなったのがきっかけというより、あくまで、それは変化点に過ぎなかったのかもしれない。本当はそれより前、いじめられているときから、そばにいてくれた、唯一の家族ではない他人の大切さを、いじめがなくなって心に余裕ができたことで、実感したからなのかも知れない。

 そんなことは今更、小恥ずかしくて言えないが。

 小学校卒業後は、お互い、近くの学区の中学校へと進んだ、幸い渚沙とは離れることなく同じ中学校に通うことができた。

 渚沙からは、満面の笑みで「良かったね一緒で」と言われたが、俺は素っ気ない態度で「そうだな、また一緒かよ」と言ってしまった。

 渚沙との関係性から、つい心無いことを言ってしまったと少し焦ったが、渚沙は相変わらずなにを言われても傷ついた素振りを見せずに、微笑んでいた。

 そんな微笑む渚沙より、恐らく俺のほうが、何倍も一緒で良かったと思っていたはすだ。

 中学校へと進学し、新しい環境で、新しい人々と接することになる変化点は、俺の脳裏にという辛い経験を蘇らせた。もし、また『万引き捨て子』が広まったら、いじめられるかもしれない。

 その不安が俺の心で渦巻いていたが、そんな不安の渦の中心には渚沙がいた。彼がいたことで、渦が弱まっていく気がして安心できた。

 仮にいじめられても渚沙がいてくれる。

 その絶対的な信頼感は、実際にいじめられていたとき、渚沙がそばにいてくれたという経験からくるものだった。

 俺は中学校へ通うことに対して、期待や希望なんて大層なものは抱かなかったが、安心があった。それだけで充分だった。

 そんな想いが渦巻く中、中学校での生活は始まったのだが、予想していた通り、小学校の同級生発信だろう、俺に両親がいない境遇はすぐに広まった。いじめを覚悟していたが、案外、みんな心が成長していく年頃だからか、特にいじめもなければ、俺の境遇について詮索もされず、至って普通に接してくれた。

 いじめを覚悟しつつも、いざ学校が始まると、渚沙とクラスが別だとわかって、不安で一杯だったが、良い意味で、拍子抜けだった。

 中学でも渚沙は相変わらず、授業の合間や、放課後に、俺のところへ来た。

 初めは心配してくれているのかと思ったが、そんな素振りは見せなかったので、単純に自分が会いたくて来ているのだろうと思った。

 むしろ、不思議ちゃんな渚沙がクラスに馴染めているのか、こっちが心配したくらいだ。

 ただ、そんな心配は無用だった。

 渚沙は不思議ちゃんだが、愛想も良く、誰でも平等に接するため、クラスメイトとすぐに仲良くなっていた。

 たまに、俺のクラスの男子から「あいつお気楽そうでいいよな」と悪気なく言われたことがあったが、お前になにがわかるんだよと、内心、渚沙のことを知った気になって怒りを覚えた。俺も渚沙のことをよく知らないはずなのに。

 渚沙は身長こそ小さく、背の順では前から三番目くらいだったが、顔立ちは整っていて、いわば美少年みたいな感じだったから、女子人気もそこそこあった。思春期で、男子は女子と話すのが少し恥ずかしく感じる年頃にも関わらず、分け隔てなく話しかけてくる渚沙にときめく女子も多かったのかもしれない。しかし、告白とかそういった噂は聞かなかった。

 俺はというと、身長は真ん中くらい、顔も自分で言うのは自信過剰に思われるかもしれないが、謙遜せずに中の上、良くて上の下くらいだと思う。

 だからか、学校の中で、特にモテることもなければ良くも悪くも目立たなかった。

 結局、そんな平凡でどこか暇を感じる三年間は渚沙と一度も同じクラスにならないまま、卒業を迎えた。

 だけど、渚沙とよく下校したり、休日に遊んだりしていたおかげで、関係は切れることなく続いていた。

 中学卒業後は、無事二人とも受験に合格して高校へと進学することになるのだが、お互い勉強意欲もなく、たまたま家から近くの高校の偏差値が合格ラインだったので受験したところ、お互い合格したため、合わせたわけではないが、一緒の公立高校へと通うことになった。

 高校でもお互いの立ち振る舞いや関係は変わらず、2年と3年で同じクラスになった。

 入学後、しばらくして教師から原則、部活に入る必要があることを知らされた。俺は、その説明に少し驚いた。というのも、俺が通っていた中学校では部活は理由があれば参加しなくてもよかったからだ。

 しかし、高校では部活が今後の就職や大学進学に影響するため、余程の事情がない限り、部活は絶対参加だった。

 中学の時は、特にやりたいことがなかった俺は、祖母との二人暮らしを理由にして、部活に参加していなかった。

 別に無理をしなくても、参加することはできたが、正直、余計な人間関係が原因でいじめられることが怖くて、面倒だったから逃げてしまった。

 そんな俺と同じく、渚沙も家庭の事情としか言わなかったが、部活に参加していなかった。だから二人で下校ができていた。

 しかし、今回は逃げられない。そう思った俺は、渋々部活を選ぶことにした。

 渚沙も俺も、お互いスポーツには興味がなかったから、文化系の部活にしようかと思ったが、小学生の頃、二人でやった唯一のスポーツ『バドミントン』が部活の紹介欄にあるのを見つけた渚沙は、目を輝かせて熱烈にバドミントン部を推薦してきた。その圧に負けた俺は渋々一緒に入部することを承諾した。

 バドミントンには、団体戦というルールが存在する。だけど、コート内では、個人又はダブルスで競技をするため、俺には野球やサッカーみたいなザ•チームプレーより気楽にできて、案外楽しかった。

 お互いレギュラー入りもできたし、3年生の最後の県大会、準々決勝で敗退したときは、それなりに悔しがって俺は少し泣いていた。

 渚沙はなぜか微笑んでいたが…

 そういえば、渚沙の泣いているところは見たことがない気がする。世の中には、簡単に泣かない人もいるし、第一渚沙は、不思議ちゃんだから、泣かなくてもおかしくないが、俺だけ泣いていて渚沙が微笑んでいるのが少し悔しくて恥ずかしく感じた。

 部活に入ったことで彩られた俺の高校生活は、意外にも平凡な中学生時代より、充実したものとなった。勿論いじめられていた小学生時代よりもだ。

 思い返してみると、高校生活を通して『なにかに挑戦することで人生が充実する』という啓発本に書かれているような、ありきたりな言葉を実感できた気がする。

 まあ、だからと言って、大人になった今、なにか大きなことに挑戦している、というわけではないのだが。

 印象に残っていることが、学園祭や恋愛ではなく、部活と渚沙との会話だけだった高校生活は、無事、問題なく終わった。

 その後、お互い大学へは行かずに高校卒業を迎えた18歳、俺は工場の製造オペレーター、渚沙は一般事務で働き始めた。

 ここまで一緒だと、腐れ縁というやつで、社会人になったからと言って、縁は切れなかった。

 21歳になった今でも関係は続いている。

 ルールを決めたわけではないが、毎週ファミレスで会って、仕事の話や渚沙からの哲学的な話に解答する会を開いていた。

 会と言っているが、これは俺ではなく、渚沙から提案されたからこう言っているだけだ。

 この会が発足したきっかけは、20歳を機に、渚沙と居酒屋でお酒を飲んだとき、まだ一杯目の半分程度しか減っていないカシスオレンジを片手に、頬を赤らめて酔っ払った渚沙から「慶太はもっと色々な気持ちを考えないといけない、沢山の目線を見て欲しい」と呂律の回っていない声で言われたのがきっかけだった。

 あのときは酔った勢いで、いつも以上に変なことを言っているな、程度にしか思っていなかったが、後日、渚沙からメールで「前回居酒屋で話ことことだけど、今週から始めようか」としっかり会の提案をされたので、驚いた。

 まあ俺も、渚沙と話したくないわけではないから、会という響きは気に食わないが、了承した。

 この会は毎回お互いの家からの中間くらいに位置するファミレスで行われる。毎週金曜日の仕事終わりか、土曜日の昼間に会って、話していた。

 ずっと話しているわけではなく、その大半を、食事と渚沙の質問に対して、をすることに費やしていた。

 渚沙には悪いが、いつも抽象的で哲学的な質問に俺はうんざりしていた。

 初めは、渚沙に今日あった会社での出来事、例えば急に欠勤が出たせいで機械を稼働させる要員が足りなかったのに、上司が無理やり生産しろって言うから怪我しそうになりながら走り回った、という愚痴や、ボーナスが入ったらなにに使おうと思っているか、など、俺から話をするのだが、それを聞いている渚沙は、無視こそしないものの「大変だね」や「ボーナスは貯金したら?」など当たり障りがなく、それ以上話が膨らまないような返答しか返してくれなかった。

 渚沙は昔からこんな感じだったから、この言動には慣れていたのだが、問題はそこではなく、一通り俺が話し終わった後にくる、渚沙発信の話題だ。

 俺の話が終わった途端、渚沙は新しい乾電池を入れた玩具のように活発的に話し始める。

 例えば「人が生きる意味」や「嘘は必要か?」など、簡単に答えが出せない難問、もはや答えなんてないのかもしれない話題を振られた。そんな質問をされても、仕事の疲れが残っている俺には考える気力もなく、酷な話だった。

 それでも、初めの頃は真面目に考えていたけれど、半年ほど経った頃から、考えたふりをして、手を抜くことを覚えてしまった。今では罪悪感すらなく、これが渚沙との上手い付き合い方だと思い、しっかり考えない自分を正当化していた。

 しかし、一年が経った今では、渚沙も手を抜く俺に勘付き始めたのか、爪が甘い返答だと再度聞いてくることが増えたように感じる。

 普通、付き合いが浅い人間関係だったら、ここまでしつこい言動には、嫌気がさして縁を切りそうだが、俺は不思議とそうならなかった。

 長い付き合いというのもあるが、それだけではなく、渚沙と出会った小学生の頃から、高校生で勧められたバドミントン部まで、渚沙の行動は、俺のことを意味のある幸福へと導いてくれていたからだ。

 それを心の底でわかっていた俺は、どこかで渚沙が言うことには意味があると思い、気持ちを受け入れる体制が整っていた。

 だから、この会でも喧嘩をしたことはないし、約束を断ったこともなかった。

 そんな、仲良しとは言わないが、腐れ縁という言葉がお似合いの関係を、学校ではなく、今度はファミレスを舞台に繰り広げていた。

 もう渚沙と出会って十年くらいになる。

 俺と彼との出会いから現在まではこんな感じだ。

 感動的な出会いや美談ではないが、腐れ縁というのはこうして、何事もないうちにできる仲間なのかもしれないと思う。

 俺の家庭環境や小学生の時の出来事は、はたから見ても我ながら壮絶な人生だと思うが、こうして、過去を振り返るたびに思う。

 渚沙はどうだったんだろう?

 居酒屋で言われた「沢山の目線」というのが俺の中で引っかかっていた。

 いつも哲学的な話を聞いている影響で、些細な疑問にも敏感に反応してしまうようになったのが、原因だと思う。

 沢山の中で俺が知りたいと思ったのは、渚沙の目線だった。

 俺の人生を語る上で、近い存在の一人だった渚沙を、俺は知っているようで知らない。

 自慢ではないが、恐らく彼が転校してきてから一番仲が良いのは、社会人になった今でも俺だと思う。

 それだけ一緒にいたのだから。逆に渚沙が他の人といたことを知らないくらい、入る隙間がないくらい、ともに過ごした時間は長かったはずなのに、知らない。

 彼はどんな人かと聞かれたらこう答えるだろう。

 不思議だけど良いやつ。これくらいしか答えることができないのだ。

 学生時代のことをよく思い返してみると、渚沙とは一緒にいたけど、どこかへ旅行に行ったりして、思い出作りはしなかった。なぜかというと、夏休みや冬休みなどの長期休暇は、全て親の用事があると言われて、断られていたからだ。

 そんな返答にも、俺は疑問の一つも持たず、納得して受け流していたが、今考えると俺は、渚沙のことを理解しようとせず、まだ出会った時の、ついてくるやつ、というスタンスで考えていたのだろうか。

 ここ最近になって、彼について知りたいと思い始めたのは、過去を振り返る中で、二年前、癌で祖母が亡くなったときの出来事を思い出したのがきっかけだった。

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