第6話

 ガラカラガラと荷車を引き、住処への道を進んでいく。白い光を放っていた太陽は傾き、橙の筋を溢している。街に長居しすぎたな、と思いつつも、服の袖に縫われた小さなレースをずっと眺めているラルカを見ると、そんなことはどうでも良いように思えた。

 住処に着き、荷物を室内に入れるために扉を開けると、一人の男が椅子に座って本を読んでいた。黒いシルクハットと外套を向かいの椅子に掛け、足を組みながら優雅にページをめくっている。俺が帰ってきたことに気がついたのか、本を閉じ、薄気味悪い笑みを浮かべた。相変わらず腹の底が見えない表情をしている。

「バラン」

「こんばんは。帰るのが遅かったですね。私、ずっと待っていたんですよ」

 どうしてここを知っている? なんて愚直なことを聞くつもりはない。俺の仕事に毎回横槍を入れてくる奴だから、住処を割り出すことくらい容易なはずだ。

「何の用だ」

「もちろん、昨日の返事を聞きに来ました」

「俺は手を貸さないと何度も……」

 断ろうとすると、バランは目を見開き、銀の虹彩に俺の姿を映す。その虹彩は鏡のように美しく、全てを呑み込む危うさがあることを、その刹那に感じ取った。

「いいえ。貴方は私に手を貸したくなりますよ。それが今でなくとも必ず、ね?」

 バランは再び微笑み、俺の隣にいるラルカに目を向けた。品定めするような、嫌悪を向けているような、そんな目。もしかしたら、不思議がっていたのかもしれない。始末したはずの生き残りが目の前に立っているのだから。

「枯らし屋。石の子を治療したのですか?」

「悪いか?」

「いえ、とても素晴らしいと思います。ただ、彼女が死んでいる方が私の計画が綺麗に進む、という話ですので」

 また計画。それに、ラルカが死んでいる方が都合が良いとは、どういうことだ。バランは何をしようとしている? 以前少しだけ聞いたのは、裏社会で力を持つ人間を殺す(彼が言うには粛清する)こと。調停者を名乗るくらいの人間だ。自分を神か何かかと勘違いして、世界を平等にする自分に酔っているように俺の目には映る。

「まぁ、枯らし屋が石の子を見ていてくれるなら、私は手を出しませんよ。くれぐれも泣かせないようにして下さいね」

「言われなくとも」

 俺の返事を聞くと、バランは「また来ます」と言って、窓から帰って行った。

「あの人、おじさんの知り合い?」

「まあ、良い知り合いとは言えないけどな」

「そっか」

 それから、荷物を室内に入れて、夕食を作った。山羊のミルクを使ったシチューだ。部屋全体にほのかな甘い香りが広がると、ベッドの上で本を読んでいたラルカも近づいて来て、料理が出来上がるのを見ていた。

「この白いの何?」

 最後に入れようとした山羊のミルクを指して、ラルカはそう言った。

「山羊のミルクだ」

「みるく?」

「飲むか?」

「うん」

 コップに少しミルクを入れて渡すと、ラルカはじっと見つめた後、ごくごくと飲み、一言、「おいしい」と呟いた。そして、上唇に付いた液をぺろと舐め、口元を拭った。

「ウラハのところで食べたパンもおいしかったけど、これもおいしいね」

 ジェイドの屋敷では何を食べていたのだろう。ミルクやパンも知らなかった。特別なものではない。むしろ、主食として好まれる一般的なものだ。

 涙が石になる少女。その希少さ故に囚われ、傷つけられていた。ゾッとするほど白い檻の中で何年も。気が狂いそうだ。しかし、ラルカはそれを表情に出さない。出せないのかもしれないが、それが彼女の普通だった。継ぎ接ぎの感情を胸に抱えて、無機質な涙を頬の上で転がす。彼女は何を幸せと感じるのだろうか。

「出来たぞ。食べよう」

 木製の器にシチューを注ぎ入れ、俺とラルカは机を囲んだ。ラルカは一匙ずつゆっくりと掬い、口に入れるたびに笑みを浮かべていた。幸せを感じられる心が消えていないなら、彼女には幸せになってほしい。誰にも傷つけられない、安らぎのある生活を。その隣に自分がいれば、と願ってしまうが、俺は誰も幸せには出来ない。

「おじさん、大丈夫?」

「ん?」

 ラルカは何度も俺に話しかけていたようだ。顔の前で手を振られて、ようやく気がついた。また思考を遠くへ飛ばしていた。

「双子に話しかけられた時も、おじさん変だった」

「変?」

「どこか遠くを見てた。何回も声かけてたのに、聞こえてないみたいだった」

 あの時は、俺の過去を見透かされたような気がして怖かった。双子の言っていたことに動揺していたのは確かだ。人間は過去に引きずられる生き物なのか? 綺麗さっぱり忘れるのが大事、過去は過去のこと、と言っておきながら、実際に前だけを見て歩いている人は多くない。もし忘れたとしても、何かが引き金になり、再び脳内に浮かび上がる。過去に囚われるのだ。永遠に。

「あの双子が言ってた。ルミラー教は居場所になるって」

「わざわざ宗教に頼らなくても……」

「おじさんも一緒に行こうよ」

 その言葉に俺は何も返さなかった。

 腹部の傷が塞がってから、という条件でラルカと共にルミラー教を訪ねることになった。一ヶ月はかかると思っていたが、その日の夜に包帯を替えようと腹部を見ると、あんなに生々しかった傷は綺麗に塞がっていた。不思議に思っていると彼女は、月の光を浴びると大抵の傷は治る、と教えてくれた。身体の傷だけだけどね、と空笑いを付け加えて。

 数日後、俺たちは再び街へと向かった。

 街に入ると、以前と同じように市場が開かれていた。人々の首元を見てみると、ウラハの言っていたように鏡のペンダントを身に着けている人がほとんどだった。着けていないのは俺たちだけに思えるほど、信仰が広がっているのが分かる。

 通りの向こうで、あの双子が街行く人に話しかけ、新しい信者を探しているのが見えた。気付かれないように近づいたつもりだったが、声が聞こえる位置に来た瞬間、双子はこちらを振り向いた。

「あ」「あ」

 柔らかい笑みを消し、心を閉ざした表情になった。真っ直ぐ目を合わせても、何も感じ取れない。ラルカの諦めの淵の目とは違う、他者を受け入れまいとする隙のない目。

「何しに来たの?」「入信するの?」

 俺の隣に立っていたラルカが、ゆらりと一歩前に踏み出た。

「ルミラー教は居場所をくれるの?」

「もちろん」「そうだよ」

 双子は手で口元を隠し、ふくくっと笑った。肩を揺らす仕草でさえ、ズレることはない。精巧に作られた人形が動くのを目の当たりにしているようで、精神を逆撫でされる不気味さがあった。

「スレイ様を呼んでくるね」「少し待ってて」

 双子は俺たちに教会に行くように言い、街のさらに奥の方に走って消えた。そして、その拍子に足元に一本のペンが落ちた。細かい金の装飾が綺麗な万年筆。艶があり、温もりを感じられる高級そうな一品だ。ラルカはそれを拾い上げた。

「これ、さっきの双子のかな」

「また会った時にでも渡せば良いんじゃないか?」

「そうだね」

 双子に言われたように、俺たちは教会に向かった。教会は街の中心部に位置する趣のある石レンガ造りの建物だ。入り口のすぐ上の大きな鏡が、先ほどいた市場と朝日をちりちりと反射している。

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