第4話

 丘の麓にある住処から街までは、小さな森を抜けて、荷車がすれ違えるほどの広さの道をまっすぐ進んでいく。今日は雲がほとんど見られない快晴だ。どこか置き去りになっていた気持ちが自然と晴れていく気さえする。 

 後ろを向くと、ラルカの目には澄んだ朝の空が映っていた。まだ何色にも染まらない新鮮な世界は、黒のキャンバスによく映える。

「すごく、眩しい。それに、空が広がってる」

「あそこからでも空は見えたんじゃないのか?」

「小さい窓だよ。本当に光しか入ってこない」

 月光を取り込むだけに取り付けられたような窓。白い壁に、大理石の冷たい床。空間そのものが心を押しつぶしてきそうなほどの小さな世界に彼女は住んでいたのだ。

「本で読んだ世界が目の前にあるって不思議」

 見えない何かを掴むように、ラルカは空に手を伸ばした。何も掴めはしないのに、何度も何度も空気を握っては離していた。

 収穫を終えた小麦畑が続くこの道は、延々と空が広がり、どこかで咲くウルドゥゲの香りに包まれている。

「いい匂い」

「ウルドゥゲのことか? この地域にしか咲かない小さな花だ」

「ウルドゥゲの物語なら知ってる」

「どれだけの本を読んだんだ?」

「あの屋敷にある本はほとんど」

 ラルカのいた部屋にあった本の山を思い出した。じっくりとは見ていないが、本が平積みにされた塔がいくつも隅に立てられていた。軽く数えただけで二百は超えているだろう。それに加え、ジェイドの書斎には壁一面の本棚があった。

「時間だけは余るほどあったから」

 ラルカは多くを語らなかった。しかし、彼女は自分の持つ知識と、目の前の景色を照らし合わせるようにじっと眺めていた。目線の先を追うと、道に沿うようにウルドゥゲの花が咲いていた。夕焼けを薄めた橙色の小さな花。甘ったるいが嫌にならない匂いは、秋の終わりを静かに告げていく。

 街に入ると、朝市に多くの人が集まっていた。広場を埋め尽くすほどの人は、日用品や食料を買い求めたり、芸や演劇を見物したりしている。荷車を街の入り口付近に置き、ラルカに降りてもらった。降りるとすぐにぐるぐると見渡し、街の雰囲気を感じていた。

「すごい、人がたくさんいる。物もたくさんある。それに良い匂い」

 ラルカが顔を向けた方向には焼きたてのパンが売られ、小麦とバターの優しい香りが辺りに広がっていた。それに釣られたのか、子供たちが集まり始めている。

「街は後から回ろう。先に寄る所がある」

 雑貨屋に向かおうとすると、厚手の黒いローブを着た青年二人に声をかけられた。

「ねぇ」「ねぇ」

 顔はそっくりで、背丈もほとんど変わらない。双子のようだった。深い紫がかった艶のある髪が美しく、二人はそれぞれ別の方の目を隠している。

「貴方が深い悲しみに満ちていると、ルミラー様から告げられました」「啓示です」

 ルミラー? 聞き慣れない名前だが、神様か何かだろうか。

「すまないが、そういうのは信じていないんでな。他を当たってくれ」

 その場を去ろうとしたとき、双子の一人が行く手を阻み、話はまだ終わっていない、最後まで聞け、と言いたげな目で睨んできた。

「大事な人を失ったのは貴方のせいじゃない」「一人で背負う必要はない」

 俺のせいじゃ、ない。一人で背負う必要も……。

 話を聞く前に逃げれば良かった。腹を酷く抉られた気分だ。どうして見ず知らずの怪しい人間に、何も知らないはずの部外者に、過去の過ちを正されなければならないのだろう。俺の痛みは俺だけのものだ。俺が全て悪いのだから、誰も触らないでくれ。頼むから。

 心臓に重く巻かれる鎖が軽くなることはない。永遠に苦しみ続けるべきだ。そんなこと分かっている。それなのに、まだ繰り返す。鮮明に残る記憶を薄めるため、と己を正当化してまで枯らし屋であることを辞めない。さっさと命を絶てば良かったのに、苦しみ生きてまで生に執着する自分自身が分からない。だが、今は……。

「おじさん?」

「ん? あぁ、行かないとな」

 頭の中の雑念を振り払い、また前に進もうとした。話を聞いてもらえないと察したのか、双子はこれ以上引き留めることはしなかった。

「ルミラー教は貴方の居場所となります」「救いになります」

 神には興味がない。結局誰も救ってはくれないのだから。

 活気のある広場を後にして、建物と建物の隙間に入っていった。湿った石畳の道を進み、建物の壁に苔が生え始めた場所を抜けると、街の外れにある雑貨屋が見えてくる。一見普通の店だが、利用する人間のほとんどは狩人を装った裏稼業屋だ。外国の薬を取り扱ったり、道具の修理を請け負ったりしている。品揃えも客も癖が強いが、それの相手をする店主も相当なものだ。しかし、俺と長い付き合いをしている数少ない一人なのだ。

「ラルカ、ここには変なやつがいるが、良い人間だからな」

「?」

 小さく深呼吸をして扉を開けた。誰もいないかと思ったが、鈴がカランカラと鳴り響いた瞬間、棚を吹き飛ばす勢いで大男が走ってきた。

「あらやだ、かーくんじゃなァい!」

「かーくん?」

「俺のことだよ」

 雑貨屋の店主ウラハ。頭が天井につくほど背が高く、異常なまでに筋肉が育った熊のような人物だ。艶やかな金髪は短く切り揃えられ、白い腕に入れたれた可愛らしいニッコリマークの刺青が目立つ。厳ついのか、穏やかなのか判断はしづらいが、客からの信頼の厚さが人の良さを証明している。

「今日は何の用? そうそう、この前頼まれてた手袋の修理終わったわよ。でも、いい加減に新調したら? 新調する予定あったら、またアタシに採寸させてちょうだい」 

 どうやら裏の工房にいたらしく、手には布の裁断用のハサミを持ったままだ。

「あら? 女の子がいたなんて気が付かなかった」

 いつもなら止めない限りずっとウラハは話し続けるが、俺の後ろに隠れていたラルカを見つけて、つま先から頭の上まで興味深々に眺めていた。

「こんなキュートな子と一緒なんて、かーくんついに誘拐にでも手出したの?」

「人聞きが悪いな。この子は……」

 ウラハになら話しても大丈夫なんじゃないか、と思ってしまった。ウラハは好意的に手を貸してくれるはずだ。でも、ラルカに危険が及ぶ可能性は一切排除しなければならない。

「姪のラルカだ」

「かンわいいーー!」

 ウラハは嬉しそうにラルカの手を取り、上下に振り回している。しかし、動きを止め、再びじっと見つめていた。今度はラルカの周りを一周し、目を細めながら服を触り始めて、不満そうな表情を浮かべた。

「確認なんだけど、この格好で街を歩かせてないわよね?」

「す、少しだけ」

「ありえない! ちょっと待ってて、良いの持ってくるから」

 どうやら服が気に入らなかったらしい。

 ウラハは服を持って戻ってくるなり、ラルカを奥の部屋に押し込んだ。そして、立ち尽くしている俺に、「かーくん、面倒見は良いけど、服のセンスは壊滅的よねェ」とため息混じりに吐き捨てた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る