第2話

 最後の錠前を枯らし、扉をゆっくりと開けた。扉の先には、冷たい大理石の床が広がり、一枚の薄い毛布や、食事を入れるための皿が転がされ、分厚い本が何ヶ所も積まれている。広さの割に物が少なく、牢屋を模した空間。そこには紅い服を着た少女が床に伏せていた。

 静かで寂しい月光は、少女を照らしていた。月明かりの部分だけが浮き、そこだけが切り取られた別世界のように思える。少女の青白い世界に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。他者を拒む冷たさが肌にじりじりと染み込むと同時に、生臭い血の香りが鼻を刺す。

 紅い服だと思っていたものは、腹部に刺されたナイフ傷の血で染められた白い服だった。鮮血の赤と、酸化した深紅が模様のように広がっている。痛々しくもあり、どこか美しい恐怖にも思えた。

 ナイフの角度からして、窓から投げられたのだろうか。窓を見上げると、数メートル上に小窓があった。人の通れない、月光を取り入れるためだけに付けられたような窓。

 満月と目が合う。月は静かに微笑んだ。

 それに反応したのか、足元の少女は小さく「たす、けて……」と声を出した。

 命の灯を消さないように必死に耐える姿。重傷を負っているとは思えないほど、生命力に満ちた瞳が髪の隙間から覗き込む。

 俺は手袋を付け直した。間違っても少女を枯らさないよう、傷つけないよう、少女に触れた。持っていた布で軽く止血をし、少女を背負うが、あまりにも軽い身体だった。

 屋敷の外の深い森を走っていると、木々が重なり、夜の影が深まるのを感じた。所々から差し込む月光を頼りに住処へと向かう。

 しばらく走ると、背中で少女が動いた。起きたのだと思い、声をかけようとした時、少女が先に口を開いた。

「どこへ、行くつもり?」

 今にも途切れ、消えてしまいそうな声。落ち着いた様子で俺に問う。

 知らない人間に運ばれていて、驚かないのかと不思議に思った。

「俺の住処だ。お嬢さんを手当させてくれ」

「必要ない」

「だって、君が、」

 君が助けてと言ったんじゃないか。そう言いかけた口を閉ざす。

「いや、俺が助けたいんだ」

「……」

 それから住処に着くまで、お互い話しかけることはなかった。背中にいる少女がどんな表情をしているのか、どんなことを思っているのか分からない。だが、見ず知らずの俺に身体を預け、信用してくれた温かみだけは伝わってくる。

 住処にあるベッドに少女を寝かせ、壁に吊るしている薬草や道具を取り出した。複数の薬草をマツ油と共に練り潰した軟膏を器に出すと、爽やかな香りが広がったが、すぐに草の臭いにかき消されてしまう。

 人を治すのは何年ぶりだろうか。

「手当をする。痛かったら言ってくれ」

 少女は頷き、そのまま目を閉じた。

 服を腹まで上げ、左腹の傷の様子を観察した。出血はほとんど止まり、傷もあまり深くないように思える。しかし、ふと思った。たった五センチの深さの傷で、服全体が染まるほど出血するだろうか、と。

 腹部に包帯を軽く巻き、傷の上に軟膏を塗りつけた。その上から包帯を再び巻きつけ固定する。適切な処置とは言えないだろうが、何もしないよりはましだろう。

 全てが終わった後、俺は眠っている少女をじっと見た。

 群青と黒の混ざった夜空色の髪。絹にも負けない清らかで透き通った肌。可愛らしくて、綺麗な顔立ち。目を閉じて眠る様子はまるで小国の姫のようだった。

 月が沈み、陽が昇り、朝露が乾く頃に、少女は目を覚ました。

 ゆっくりと数回瞬きをして、左腹の傷に手を伸ばす。自分に何が起きていたのか確かめるように、何度も何度も優しく触れていた。

「治してくれたの?」

「丁寧ではないけどな。調子はどうだ」

「わからない」

 少女は俺の目を見た。その黒い瞳は感情を読み取らせないほど深く暗い。

「痛くないって言えばいい?」

 痛がる様子を微塵も見せず、少女は立ち上がった。しかし、じわじわと包帯に血が滲み、生々しい傷が残っている。本当に痛みを感じていないのだろうか?

「あ、いや、大丈夫なら良い」

「おじさん」

「おじっ……」

 いきなり呼ばれて驚いてしまった。まだ三十二歳なのに、そんなに年齢が上に見えるだろうか。いや、顔は布で覆っているし、声は息が漏れてしゃがれた音だから無理もない。

「私を屋敷に帰してほしい」

「どうしてだ」

「あそこにしか居場所がないから」

「無理だ」

 すると少女は手で目を覆い、何かを絞り出すようにしゃがみ込んだ。カツンカツンと小石がぶつかり合う音が部屋に響くと、少女は立ち上がり、手のひらに乗せた十粒のガラス玉を差し出してきた。

 それは俺が屋敷から持ち出した涙一粒大のガラス玉と同じものだった。

 ガラス玉を差し出す手は微かに震えていた。

「私を屋敷に帰して」

 これを代金として屋敷まで運べ、ということか。

 一体、少女はどこからガラス玉を用意したのだろう。少女が元々持っていたようにも見えず、俺の家から取ったにしても、そんなものは置いていない上に、少女から目を離した時間なんてなかったはずだ。

 不思議に思って少女を眺めていると、少女は眉を下げ、困ったような表情を浮かべた。

「もしかして、これじゃ足りない?」

「い、いや、そういうわけじゃない」

「ジェイドはこれを出したら、うれしそうにするのに」

 少女の顔に陽の光が差す。朝だ。

 ガラス玉は少女の手のひらの上で光を呑み込み、やわらかな七色の光を放ち始めた。掴めないはずの虹の光で部屋は包まれ、暮らし慣れた場所なのに、どこか知らない所にいる感覚。屋敷で感じた刺すような冷たさではなく、頬を撫でられる温かさがあった。

 少女は光に目を細め、ポケットにそっとガラス玉を仕舞い込んだ。

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