涙を枯らす

相上おかき

第1話

 どうして全員死んでいる? 標的も衛兵も全員だ!

 生気を失った屋敷に、何も知らない月光が棘のように差し込む。恐ろしいほどの静けさ。虫の音も、風の音も凪ぎ、大理石の床を駆ける音だけが反響する。

 俺への依頼は「資産家ジェイドを枯らすこと」だった。しかし、ジェイドは既に殺され、食堂の椅子に座らされていた。背中から刺された傷が複数と、首を絞められた痕が付き、引きずられてきたのか、食堂の床には所々血溜まりができている。ジェイドは上座に座らされ、十人ほどの衛兵たちも順番に並んでいるが、一ヶ所---上座の正面は---誰も座っていない、空席の状態だった。

「お前が座れ」と囁かれるような、まとわりつくような、心臓にベタベタと血糊をつけられる、そんな恐怖に襲われた。揺らめく蝋燭ろうそくの炎が、死体の影を大きくしていく。今すぐにでも襲ってきそうな勢いだ。

 誰もいないと分かっていても、屋敷に誰か残っていることに望みをかけ、俺は食堂から逃げ出した。腐肉の匂いで満たされた肺に、急いで空気を取り入れる。だが、喉や鼻の粘膜から血の生臭さが消えず、何度も吐きそうになる。

 屋敷の外の門に着いたが、資産家の屋敷に忍び込んだのに、高値で売れそうなものを一つも盗んでいないことに気がついた。手ぶらで帰るわけにはいかない。あの空間に戻るのは気が引けるが、再び屋敷に向かって走り始めた。

 他の部屋の扉に比べ、豪華な装飾が施されている場所があった。期待できそうだと、音を立てないようにゆっくり扉を開けた。もちろん中には誰もいない。壁一面に置かれた古い本、文書の散らばった幅広い机、まだ湯気がたっているコーヒーカップ。ここは、おそらくジェイドの書斎だろう。

「何か売れそうなものは……」

 部屋を一周しながら、品物の見定めをしていく。

 美術品はダメだ。持ち主が突き止めやすいから、盗んだことがすぐに分かる。

 古文書もダメだ。買い手が少なく、売っても値段は高くない。

「これは?」

 本棚の一角に置いてあった木箱を取り出す。開けてみると、涙一粒大の透明な球がいくつも瓶に入れられていた。ガラス球かと思って覗き込んだが、月光を吸収しているのか、微かに青白く発光している。それは、誰かの涙のように冷たくて悲しい青だった。瓶をポケットにそっと入れ込むと、風のない空間で、湯気が横になびくのが見えた。

「誰だ」

 手袋を外し、臨戦体制をとる。しかし、入り口に立っていたのは、見知った人間だった。黒い外套とシルクハット、丁寧に磨かれた革靴に、薄気味悪い笑顔。ここに俺がいると分かっていたのか、帽子を外し、「こんばんは。枯らし屋」と、深々挨拶をしてきた。

「標的が死んでしまって残念でしたね」

「はぁ、バラン。俺の仕事を何回邪魔すれば気が済むんだ?」

 自らを調停者と称する男、バラン。何年も前からの付き合いだが、俺はバランのことを何も知らない。ただ知っているのは、毎回のように仕事に横槍を入れてくる、暇人か変人かってことだけだ。今も、標的が死んで残念、とか言っているが、そんなことは微塵も思っていないはずだ。

「バレていましたか。今回も素晴らしかったでしょう? 食堂の扉を開けたら、そこには大量の死体が晩餐会の如く座っている。料理も用意できればよかったのですが、あいにく調理は苦手でして」

「俺が稼げなくなるだろ」

 どうして分かりきったことを聞くのか、と不思議そうに首を傾げた。感情を読み取りづらい糸目と口元は、バランの薄気味悪さを増幅させている。

「君の稼ぎが無くなってしまえば、嫌でも私に手を貸してくれると思ったのですが。表の世界で有名な資産家が、裏では政治家に賄賂を送ったり、宝石の違法採取をしたりしている。『粛清』するのに何か問題がありますか?」

「大問題だよ。お前のふざけた計画に賛同しろって? 冗談だろ」

「冗談ですよ」

「……」

「確かに私は、枯らし屋である貴方に手を貸して欲しいですが、それは……」

 バランは俺の左腕を掴み、指で手首を一周するように肌をなぞった。爪で微かに白い痕を付け、「ここから手までの話です」と、貼り付けた笑顔で笑う。

「チッ。誰が貸すか」

「とても、とても残念です。貴方の能力は美しいのに」

 美しい? 物を枯らして灰にする能力のどこが美しいんだ。死しか生まない能力を美しいと言う神経が理解できない。これのせいで俺は人を傷つけてしまったのに。

「気持ち悪ぃ」

「すぐにとは言いません。次に会う時までに決めておいてください。良い返事を期待していますよ」

 そして、また深々と頭を下げ、部屋を出ていった。だがしばらくすると、戻ったのか、扉から顔を覗かせ、

「今、倉庫に生き残りを見つけたので処理してきました。私は忙しいので、食堂の下座に座らせてもらえるとありがたいです。では」

 とだけ言って去っていった。

「は?」

 誰もいない部屋に、俺の声が反響した。

 ああ、バランはそんな人間だった。花を摘み取るように人の命を奪い、自分の目的を果たすためなら手段を選ばない。罪悪感も、恐怖も何も感じず、障壁をひたすら取り除いていく。被害者の人生なんてどうだっていい。彼の目には、『世界の平等』しか映っていないのだから。

 俺は倉庫に向かった。バランのためではなく、自分のために。

 扉は、ただの倉庫とは思えないほどに何重もの錠前で閉ざされていた。鍵が必要なものや、ダイヤル式のものなど、開けるのに時間がかかりそうなものもあった。だが、俺には関係ない。

 手袋を外し、そっと指先で錠前に触れる。開かないはずの錠前が、一瞬で砂のような小さな粒となり、さらさらと枯れていく。

 扉ごと枯れせれば早いだろうが、俺は人間大のものまでしか枯らせない。出来るだけ時間をかけないように、余計なものに触れないように、確実に枯らしていった。

 最後の錠前を枯らし、扉をゆっくりと開けた。扉の先には、冷たい大理石の床が広がり、一枚の薄い毛布や、食事を入れるための皿が転がされ、分厚い本が何ヶ所も積まれている。広さの割に物が少なく、牢屋を模した空間。そこには紅い服を着た少女が床に伏せていた。

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