緊急ミッション!─目の前の危機を乗りきれるか!?─

遊月奈喩多

法悦の余韻は、あっという間に

「ありがとうございましたー」

 別に言わなくていいのかも知れないが、短くない年数生きてきて染み付いてしまった小市民の感覚が勝手に紡ぐ言葉をボーイに言ってから、俺は自宅から電車を乗り継いで1時間くらいの場所にある、駅前のソープランドを出た。

 2時間近く薄暗い室内にいたからだろう、別にカンカン照りというわけでもなく、どちらかというと曇りというのが相応しい空模様にも関わらず、昼前の空はとても眩しく感じた。思わず目を細めながら歩いていると、後ろから声が聞こえた。


「あれ、海音かいとくん?」

「え?」


 反射的に振り向きそうになった先にいたのは、同棲相手のゆかりだった。きょとんとした顔でこちらを見ている──それはそうだ、今日は本当なら仕事の日、仕事で通うのとはまったく違うこの場所にいるわけなんてないはすなのだから。


「うお、」

 危うく振り向きそうになったのを翻して、前へ向き直る。どうにか他人だったと思ってくれ──そんな願いも空しく、紫は更に問いかけてくる。

「どうしたの、こんなとこで? 今日休みだったの?」


 それはこっちの台詞だ~~~なんで紫がこんなとこにいるんだよ??? いや待て、そんなの問い詰めるわけにはいかない。

 質問されてるのは俺の方だ、質問に質問で返すのは、紫の2つしかない『嫌いなこと』のうちのひとつ。そんなことしたら、爆発したような怒り方をされてしまうに違いない──普段穏やかな分、そんなキレ方をした紫は本当に怖いんだから!

 まさに危機一髪。

 どうする……どうするよ、俺!!???



 別に、紫とうまくいっていないわけではない。関係は良好だと思うし、セックスだって学生時代みたいな頻度ではないにしてもレスというわけでもなく、お互い負担にならない、程よい頻度でできているとは思う。

 だが、紫との関係に疲れたとか浮気したいとかそういうのではなく、ただ何も考えずにセックスしたいときだってあるのだ。ここ最近の情勢の変化もあってだろう、元々はゴム装着がルールだった店舗でもそれが変わっている場合もあるし、何より変に常連みたくならなければ後腐れがないのも好ましかった。

 避妊のことも特にこちらで考えなくていいし、出禁になるようなことさえしなければ──つまり人と接するうえで最低限の礼儀さえ持っていれば──気軽にセックスできるのだ。もちろん払う金額は決して安くもないが、それに見合うだけのいい思いをして帰れる場合が大半だ。だから、ごく稀に……いや稀に、いや時たま、本当にたまに……2ヶ月に1回くらいのペースで、俺はわざわざ有休を使ってソープ巡りに費やす日を作っていた。

 別に、仕事をサボっているわけではない。

 だけど、何となく紫には後ろめたくて普通に仕事へ出ている風を装っていた──もちろん、今日も。

 誓って言うが、俺は別に浮気をしたくなったわけではない。時々SNSをフォローしてくる出会い系アカウントはスルーしているし、時折上司が男物の香水をプンプンさせながら自慢してくるような女遊びには嫌悪感すら覚えているくらいだ。ただ、ついソープに通いたくなるときがあるってくらいで。

 自分の小遣いの範囲で楽しむ分には構わないだろうと開き直る心がないわけではない。それでもやはり、後ろめたいところはどうしてもある。いや、後ろめたいというか、紫からしたら俺が隠れて行動しているという時点で不快なのではないだろうか? 俺は……俺だったらどうだろう、紫が隠れて他の男と会っていたら……。



「あの……?」

 自問自答を繰り返していたら、紫が不審者を相手にするような声音を俺の背中に投げ掛けてきた。そりゃそうだ、普通別人ならさっさと去ればいいわけだし……待てよ。

 その言い方、もしかして紫にはまだ俺が海音だという確信がないんじゃあないか?? それなら……切り抜けられるかも知れない!


「あ、」

 口に出す直前、最後の躊躇が俺の脳を駆ける。

 さすがに無理がないか? そんなんで切り抜けられるほど紫は甘い相手なのか? 白々し過ぎて引かれやしないか?

 いろんなことが脳裏を掠めては消えていく。……いや、やらない理由はいくらでも作れる。だが今はやらなきゃならない。やるしかない!!


「えっと、……」

「あ、すいません! 知ってる人とすごく似てたから話しかけちゃっただけで……。そんなされたら困っちゃいますよね~。そうだよね、海音くんがこんなとこにいるはずないし」

「……あ、あーー! あ、ありますよねそういうの! ぼ、僕もあなたが恋人に似てたからついびっくりしちゃって……!」

 紫が先に考え直してくれたーーーー!!

 ちょっと前に世の中には似た人間が3人くらいはいるらしいという話題で盛り上がったことがあったが、もしかしたらそのお蔭で勘違いしてくれたのかも知れない! ありがとう都市伝説バラエティ、ありがとうドッペルゲンガー特集!


「じゃ、じゃあこれで……」

 せっかく勘違いしてくれたし、さっさと退散しようと思い、紫に背を向けて前へ進もうとしたとき。

 

「わわっ!?」

 慌てたような声が聞こえて振り返ると、どういう経緯でそうなったのか紫が転びそうになっている!


「危ない!」

 条件反射で駆け寄り、紫の身体を支える。ったく、昔から危なっかしいところはあるけど、これいつか事故ったりしちゃわないか……? そんな心配をしつつ、どうにか紫を転ばせずに済んだことに安心していた俺の耳元で。


「ありがと~、そういうとこも海音くんそっくりですね」

「あ、あぁ……、はい」

 本人だからなんて反応したらいいかわかんねぇ……そう思いながら紫を立たせたときだった。


「わたしたち、会ってないからね?」

「────、」

 クスッ、と楽しそうに囁かれて思わず身体が強張る。理由はふたつ。ひとつはまぁ、やっぱり誤魔化せてなかったんだなっていうこと。

 そして、もうひとつは。


「ありがとうございました、海音くんのそっくりさん♪ それじゃ、さよならです!」

 いつもの可愛らしく穏やかな笑顔で去っていく彼女の髪や、さっきすぐそばに近付いた首筋から、会社でうんざりするほど嗅いでいる香りがしたから。


 ……そうだ。

 俺は今日、紫とは会ってないんだ。


 一難去って、また一難。

 鼻先の空気にまとわりついた新たな危機に呆然としている俺を、雲間の太陽が静かに見下ろしていた。

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緊急ミッション!─目の前の危機を乗りきれるか!?─ 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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