第9話 お手々を繋いで森の中
踏み締める緑の音が響くほど鬱蒼と繁る草花の上に似つかわしくない茶色の大きな編み籠が上下に揺れている。小柄な背丈程の大きさを物ともせずに元気に歩いていく少女の左手はがっしりと強く青年と繋がれていた。時には身体を預け、時には逆に預かるようにお互いを思いやりながら進むその二つの背中はこの森の中では似つかわしくない程の平穏を纏っていた。
「さぁまだまだ行くですよ! ね、まだまだ交代には早いですよね? そうですよね?」
「あ、あぁ……そうだな。もう少し一緒に歩こうか。ははは……」
宗一は顔を引きつらせながら答えた。声が若干上擦っていたのは背中に刺さる二つの視線に恐ろしさを感じているからである。
「リーナ、どうやら私達の出番はまだのようだぞ」
「ふんっ、そのようだな。しかし貴様等二人は長い間宗一と手を繋いでいたのだし、私の時間を優遇する措置があってもいいよな?」
「何故そうなる、いや……決めるのはあくまで宗一だからな。宗一に考えを訴えてみればいいのではないか?」
「そうだな……おーい、宗一! 聞こえただろー! そろそろ交代してもいいんじゃないのかー?」
「……んもー、二人とも五月蝿いですよ! 余り邪魔をすると二人の番の時に目に物を見せてやるですからね!」
「くっ、邪魔をするなら自分の番が終わってからにするべきだったか……」
二人の野次をヴィルナはしっしっと手で追い払うと宗一に顔を向けて「全くしょうがない二人ですぅ」と笑った。
「あ、足下に石があるですよ。気を付けるです」
ヴィルナに言われて宗一は石をひょいっと避ける。それを見てヴィルナが満足そうに頷いたので、宗一は「なんか、まるで保護者のお姉さんみたいだな」と呟いた。
「むふふー、それはそうですよ。私だってこう見えて宗一からしたら立派なお姉さんですからねー!」
宗一がその言葉の意味を計りかねてヴィルナに顔を向けると、ヴィルナは悪戯な笑みを隠すように口許に手を当てていた。
(お姉さん……ねぇ……?)
その言葉を頭で反芻しながら、宗一は改めてヴィルナの身体を上から下まで観察した。少し緑がかった小柄な身体に背中全体を覆うような籠を背負い、決して長くはない跳ねた銀髪の奥に赤い瞳を揺らめかせ、此方を試すような目付きをして微笑んでいる少女。それが今現在宗一が抱いているヴィルナという少女である。
「あー、その顔はなんか失礼な事を考えてるですねー。もー、宗一はまだまだ私にとっては子供みたいなものなんですから、あまり生意気な態度をとっちゃ駄目ですよ?」
ヴィルナは人差し指を立ててまるで子供に言い聞かせるような態度だが、宗一はそれにも不満顔である。何故ならそうやって見上げるヴィルナの姿はどう見積もっても自分より幼く見えるからではあるが、この異世界に於いては自分より数段先輩であるのは否めないので、宗一は一連の事をそう折り合いをつけて胸に落とし込んだ。
「もー、また宗一はそんな顔してー。でも私はお姉さんですから広い心で許してあげます。だけどあまり度が過ぎてるとまた背中ばーんってするですよ!」
「……それは止めてね、本当に。しかしお姉さんと言われてもな、こうして手を繋いで歩いていると可愛い妹にしか思えないけど……」
「むー、私は小柄ですからそう見えるかもしれないですけど……私はこれでも27歳ですから……宗一よりはきっとお姉さんです……よね?」
「へぇ……27、27ねぇ……え?」
宗一は足を止めてヴィルナを見た。
「そうです! 人間達は短命種ですから短い年月で成熟しますけど、私達オークは人間達よりは長命ですから。でも私はこれでもまだまだオークの中では子供ですけどね」
(そうか……異種族だと寿命も違うのか。自分達の尺度で考えてると駄目なんだな……つまりヴィルナは年上、リーナも俺よりは上だろう。それならセーニャは?)
「……俺はまだ17だし、年で考えるとヴィルナの方が確かにお姉さんだな。それならセーニャはいくつなんだろう、ヴィルナなら分かるか?」
「セーニャはですねぇ……エルフ、しかもクインの里となると余り情報が無いのでわからないです。エルフは長命種な上に色々ありますから……一桁から三桁までのどれかだと思うですよ」
「そ、そんなに幅があるの!? 嘘だろ?」
宗一は驚愕して振り返りセーニャを目で見た。背丈は自身と変わらない程だが、整った顔立ちにモデル顔負けのプロポーションを身に付けておりながらこれで一桁の年齢もありえるというのだから異種族というのはつくづく己の慮外の物と考えなければと宗一は感じた。
「むぅ、宗一……なにか用か? それとも交代の時間か……?」
「セーニャ……落ち着いて聞いてくれ。お前の年齢って……もしかして八歳くらい?」
「お前が落ち着けっ! ばかっ!」
ぱこっと軽快な音が宗一の額から鳴った。セーニャが額に軽く手刀を下ろしたのだ。するとぐいぐいと右手を引かれた感触を覚えた。
「あっ、もー宗一ったら駄目ですよ! 年齢を知られちゃ駄目な種族だっているんですから……それに……」
「それに……?」
「どんな種族でも女性に年齢なんて話題に踏み込んじゃ駄目です! 私は気にしないですけど……そんな軽薄な事を言う子はお姉さんぷんぷんですよ!」
ヴィルナはまたも人差し指を立てて宗一を諭すように叱った。成る程……これは確かに俺より随分とお姉さんだな、と宗一は尚も頬を膨らませて怒るヴィルナを見て思った。
それからはヴィルナと二人で他愛ない会話をしながら歩いていく。ヴィルナはセーニャよりは外界……この森の外の事を知っているようで、宗一はまた一つこの世界について深く知ることができた。
「それにしてもこれだけ歩いているのに何にも出会わないというのも不思議だな……」
森の道中は決して平坦な道ばかりではないのだが、それでもそれなりの距離を歩いたにも関わらず時たま空に見える鳥達以外は野生の動物らしき気配を宗一は感じられなかった。辺りを警戒しているであろう他の三人も特に何かを見付けた様子は無い。
「……大分洞窟に近寄ったですからね。あれ以来、あの辺りは他の動物達も近寄らなくなったです。正気を失った仲間達も森の中をうろうろと徘徊しているだけですから、このまま出会わないといいですけど……」
二人の繋がれた手に力が籠る、宗一はその手をぎゅっと握り返すと「そうだな……」と曖昧に返した。その程度の返事しかできない自身に不甲斐なさを感じつつも、何とも言い様もない漠然とした不安が己の身体に纏わり付いてそれ以上の言葉を紡がせてはくれない。
「……宗一、そろそろ交代しないとセーニャ達の時間が無くなってしまうですよ。暗くなる前には野営の準備もしなくちゃならないですし……」
「ん……? うん、そうだな。野営の準備もあるんだよな、気付かなかったよ。ありがとう、ヴィルナ」
如何に一日が24時間とはいえ、いや、この世界が正しく24時間周期だとは断言できないが数日過ごした感覚ではそう大して変わらないはずだ。その中で平等に三人平等に六時間ずつという訳にはいかないよな。ヴィルナに気を使わせてしまった。これもヴィルナの言うお姉さんの為せる技なのかもしれない、と宗一は最後にぽんっとヴィルナの頭に手をやった。
「あんっ、もう……宗一はまたそうやって私を子供扱いするですねぇ?」
そのぷーっと膨れたヴィルナの頬を宗一は軽く撫でながら「そんなつもりはないんだけどな……」と笑う。しかしそうしながらついつい撫でたりしてしまうのもきっとヴィルナお姉さんの責なのかもしれない。
そしてついに離れた宗一の手を名残惜しそうに見詰めるヴィルナは何処か儚げに写り宗一はつい手を止めた。宗一の制止した手と顔を交互に見てからヴィルナはその手をぐいっと押しやった。
「…………また、また今度一杯手を繋いだりするから今はいいですっ! 撫で撫でも我慢するです、お姉さんですから!」
ぷいっとそっぽを向いたその表情を宗一からは伺うことはできない。ヴィルナにまた今度……と言葉を返すのは簡単だ。過去には知り合いや友達といった存在に何度もそう返事をしてきた。それは只の返礼であったり、約束にも満たない返事の常套句に過ぎなかった。だが、ヴィルナの精一杯の強がりを含んだ震えた声が宗一に二の句が継がせなかった。洞窟へと向かうこの短い旅路の果てに少女の潤んだ瞳を、震えた身体を、先に見える終焉から救うことができるのだろうか……宗一はじっと己の手を見詰める。
「……そうだな、また今度……こうやって一緒に手を繋いで歩こうな?」
宗一は意を決してヴィルナの頭を撫でた。それはこれからの事に自信があるわけではない、それでもこの少女が未来に希望を見出だそうとして自分を信じているのなら、宗一自身も少女の為に少女が信じた自分を信じるべきだと、そう思ったからだ。
頭を撫でられたヴィルナは驚いた表情のまま振り向いて、やがて「ふふふ、はい! また……今度です!」とにっこりと笑って離れていった。
「ふむふむ……宗一、大した男振りじゃないか。どうやら相当に自信があると見える……さて、では今度は私の番かな?」
「自信なんてあるわけないだろ。俺なんて皆に着いていくので精一杯だよ」
すっと差し出されたセーニャの手を宗一は握り、二人並んで歩き出した。特に順番が決まっていた訳ではないがそれがお互いに自然な流れに思えた。
「……それで実際の所セーニャはどう思っているんだ? ヴィルナもリーナも勇者としての俺に期待を寄せている。勇者ではない俺にだ。だけど俺が実際に出来る事なんて高が知れている……だけど二人には黙っているけれど此方にはセーニャという本当の勇者が居る。それで……その勇者の力で洞窟やら神殿やらはどうにかなりそうなのか?」
宗一はヴィルナとリーナに聞こえないように注意を払いながら小声で言った。自然と二人は顔を見合わせて近寄ることになる。
「んむ、そうだな……オーク達の話を聞く限り上手く行く可能性は充分にある。ヴィルナの言っていた通りに洞窟の奥に呪いの根源があるのならそれを解呪すればいい。例え出来なくとも呪いの根源を燃やしたりして原形を崩せば呪いの弱体化か或いは消し去る事が出来るだろう」
「つまり何の障害も無く上手く行けば、か……」
セーニャの言葉を前向きに捉えればそれは希望を充分に含んだ物となる。だがしかしセーニャのその前置きの言葉が宗一には棘のように引っ掛かる。
「この旅路の不確定要素として正気を失ったオークとの衝突……特にヴィルナの兄との会敵、これはできれば避けたい。あの巨体に対する武器も策も現状の私達には無いからだ」
「でもさ、四人……いや俺は実質戦力にはならないだろうから……三人とおまけでも巨体のオークを相手取る事はできないのか? あ……いや、ヴィルナに実の兄と争わせる事なんて出来ないよな……この言葉は忘れてくれ」
「宗一、その言葉はヴィルナに対して失礼というものだぞ……っ!」
それは周りを警戒した抑えた声ではあったが、怒気を孕んだ宗一に対する明らかな叱責であった。宗一は思わず身体を強張らせた。
「そう……なのかな……?」
「そうだとも。私は君のできれば相手を傷付けたく無いという考えは嫌いではない。しかし、もし私の眼前に敵が現れれば刃を振るうことに躊躇は無い。それはヴィルナも……当然リーナだって同じことだ」
セーニャは宗一を諭すようにこんこんと語りかける。
「……それはやっぱり俺も敵を切れるようになれって事か? 言いたい事はわかるけれど、俺にはセーニャ達みたいにはなれないよ……」
宗一自身は不殺の戒律を守って生きてきた訳ではない。小さな蚊等の虫を殺した覚えもあれば期せずして爬虫類を踏み殺してしまった事もある。幼心故の残虐性が手を振るわせた事もあっただろう。振り返り、過去を省みても自身が聖人だとはとても言えない。それでも昨夜世話になったオーク達を敵になったからといって躊躇無く刃を向ける事はできそうになかった。
「うーむ、そうではなくてだな……」
セーニャは眉間に皺を寄せてあーでもない、こーでもないと一頻り唸ったあとに大きく、うむっと頷くと「例えば……」と話を続けた。
「宗一は昨夜にンポポの肉を食べただろう?」
「待て待て、セーニャが言わんとしている事は分かるが……先ず第一にオークは食べようとして斬る訳じゃないし……いや、食べるなら斬るのかという話でもないだろ」
そもそも宗一は仮にンポポとやらが目の前に現れたとしても斬ることができるのかと問われればそれには些か疑問が残る。現代社会でも自身が食べる物を自ら締める事などは滅多に無く、食肉加工から料理まで大方は他人任せであるから目の前に食べるべき動物が現れても何の抵抗も無く斬れるとは宗一自身にも思えなかった。
「宗一……落ち着け。つまり私が言いたいことはだな……皆が武器を振るう理由なんて一つではないのだ。ンポポを食べる為であったり、何かを得る為であり……誰かを守る為でもある。引いては皆生きる為に武器を振るうのだろうよ」
「……それならセーニャはヴィルナの兄が目の前に現れたら何のために斬るんだ?」
「私は……宗一、君を守る為に斬るよ」
セーニャは事も無げに涼しげな顔で言い放った。
「お、俺を守る為って……セーニャ自身はいいのかよ」
その余りに堂々たる言い様に気圧されて宗一はつい言い澱んだ。それを見たセーニャは満足したかのようにふふっと笑うと言葉を続けた。
「自分の為というのなら一目散に逃げた方が生き延びる確率は高いだろう。自分一人だけが生きていければ良いと言うのなら、仲間と群れる事など止めて孤独に生きれば良いのだ」
セーニャの視線は何処か遠くを見ていて、その言葉は宗一のみならずセーニャ自身にも言い聞かせているようだった。
「……しかし前の私には里の皆がいて、今の私には宗一達がいる。その皆を守る為になら私は地を駆け弓を射ち敵を切り払ってみせる。宗一、今は無理でも君はいつかきっと誰かの為に力を振るう事ができるさ。その時は私も守ってくれると嬉しい」
「勝手な事を言ってくれるよ、もう……」
肩を抱き抱えるように囁かれたその言葉は宗一に期待を込めてくれているかのようで、何やらむずむずとした気持ちが身体を渦巻いていた。
それからも二人は色々な話をしたが、そのどれもが宗一に相手の命を奪うという明確な決意を持たせるには至らなかった。しかしそれを察していてもセーニャは然程気にした様子もなく、揺蕩うような惑いを見せる宗一を見守るようにただ微笑むだけであった。
「……ふむ、ここは野営を構えるには丁度いいのではないか?」
一行が森を進むとそこは多少開けた場所に見え、セーニャは辺りを確認しながらそう言った。
「そうですね……ここからなら私達が以前使っていた集落も近いですから今日はここで一夜を明かすですよ!」
ヴィルナもセーニャの意見に頷いて背負っていた籠をどすんっと地に降ろした。続いて宗一がもう一生分歩いたとでも言いたそうに深く安堵の息を吐く。そうして三人が各々旅路の凝りを解す様にリラックスした姿勢を取り始めたが、ただ一人──リーナだけは目を見開き、荒らげた声を張った。
「おい、おぉーーいっ! いや、え? ま、まだまだ行けるだろ? ほら、やはりもっと敵地に近寄らないと、な? な?」
「いや、この森でこれだけ開けた場所というのはそうあるものではない。ヴィルナの言う通りにここで一夜を明かすのが得策だろう」
「で、でも! ちょ、ちょっとまだ陽が高いだろ? お日様もカンカン照って、まだまだ我等に歩けと言っている。うん、うん。きっとそうに違いない違いない」
「いえ、これ以上先は前と比べて更に異変が起きているかも知れないです。一先ず落ち着いて策を練るですよ」
「でも、でもぉ! な? 宗一ぃ、お前もなんとか言ってやれ!」
「……俺は全面的にヴィルナ達に同意するよ、流石に歩きっぱなしで疲れてきたしな。むしろリーナはどうしてそこまで進みたがるんだ? 何かあるのか?」
「えぇっ!? いや、あのぅ……な……」
慌てるリーナを三人はじっと見詰める。リーナは視線に耐えかねるようで、所在無さげに胸の前で両の人差し指同士をこねこねと弄くりまわしている。
「ほら、な? な? わかるだろぅ……?」
言いながらチラッチラッと宗一に視線を送るが当の宗一は困惑の表情を返すばかりで埒が明かない。
「訳が分からんな。リーナ、一体何が言いたいんだ? はっきり言え」
セーニャはお手上げと言わんばかりに両手を軽く上げたが、然り気無く未だに握られていた宗一の手も一緒に持ち上げられる。するとそれを見たリーナは大袈裟に指を差して叫んだ。
「ほら、それ、それぇーーっ!」
「……んー?」
「あぁ……そういうことですか……」
リーナの叫びにセーニャは小首を傾げるばかりだが、ヴィルナは漸く合点がいったと力無く溜め息と共に言葉を吐いた。
そして宗一はリーナの指すそれが何かと理解すると照れたように視線を逸らし、「えぇと、なんだ……それならつ、繋ぐか?」と言葉を投げ掛けた。
「いや、ま、まぁ! 宗一がぁ、そんなに、そーんなに繋ぎたいと言うのなら! 言うのならー仕方がない! んっ!」
上擦った声と同時にずいっと差し出した手とは対照的にリーナの顔はそっぽを向いていたが、宗一の目から僅かに窺えるその頬は紅く染まってリーナの羞恥を表しているように思えた。
「ふん、まぁ確かにリーナの番ではあるからな。手を繋ぐ程度は許してやるか……それではヴィルナ、準備はいいか?」
「あいあいです!」
「お、ちょ、二人とも何処へ行くんだ? ここで一夜を明かすんじゃないのか?」
セーニャは宗一と繋がった手を離して答える。
「無論そのつもりだ、しかし周囲の確認と簡単な罠を仕掛けておきたい。何があるか分からないからな」
「そんなに重要な事なら俺達も──」
「いや、ここまでは宗一達に合わせて動いていたが、それでは日が暮れてしまうからな。こういうことは森での暮らしで慣れている私達に任せておいて、二人は休憩でもしながら待っていてくれ。ではヴィルナ、早く行って早目に終わらせてしまおう」
「セーニャ、ちょっと待つですよ……ちょいちょいちょいやー! これでよし、今行くでーす!」
ヴィルナは手際よく火を起こしてその周りに座れる布を敷き、残された二人が休憩できるように取り計らうとセーニャに付いて歩いて行った。そのトテトテと歩く小柄な姿はとても宗一より年上とは思えない、傍目には大人に付いて回る活発な少女にしか見えなかった。そのまま二人が森の入り口に差し掛かると不意にセーニャは足を止めて振り返る。
「……宗一、リーナ。予め言っておくが、野獣、自我を失ったオーク、まだ見ぬ何か……この森には予期できぬ危険が蠢いているに違いない。なので身に危険が迫った時には私達を待つ必要は無い、全てを捨て置いて逃げるんだぞ。では行ってくる」
「……あ、あぁ……気を付けてな」
返事をした宗一の表情は暗い。気を付けるべきは己だと、今しがたセーニャに釘を刺されたばかりだからである。やがて二人の姿が森の中へ飲み込まれるようにして見えなくなると、ぱんっぱんっと何かを叩く音がした。
何事かと宗一が顔を向けると、そこにはヴィルナが残してくれた焚き火の前に座り込み、隣に座れと言わんばかりに敷かれた布を叩くリーナの姿があった。リーナの顔は先程と同じでやはりそっぽを向いており宗一からは表情を窺うことはできないが、リーナの艶やかな黒髪では隠しきれない小振りな耳朶が熟れた果実の様に赤く染まっているのはきっと焚き火の責だけではないのだろう。
(……まぁ、隣に座れって事だよな)
「隣……いいか?」
リーナからの返事は無い。しかし席を譲るように退けられた手が返事代わりなのだろう。宗一はそこに静かに腰を降ろした。
焚き火の前で胡座をかいて何処か開放的な宗一とは対照的にリーナは膝を抱えて座っていて、緊張した面持ちで焚き火を見詰めている。しかしやがて意を決したように大きく深呼吸をした。
「……んっ」
ただそう一言だけ添えて眼前に差し出された手を宗一が軽く握ると、リーナはガバッと勢いよく抱え込んだ膝に顔を埋めた。そしてそのままぷるぷると震え出す。
「えーと、どうした?」
「は、恥ずかしすぎて死にそうだ……宗一もこんな女は気持ち悪いだろう?」
「そんな事はないよ」
「でもっこんな年にもなって男に縁も無くてこうやって手を繋いでいるだけでも気持ちが一杯一杯なんだ! 背だけは大きくて胸も無いし宗一もこんな女は嫌だろう?」
「嫌じゃないさ、本当に。リーナの年は知らないけど、美人で背も高いし、おまけに騎士団なんだろ? 凄いじゃないか」
「……本当に?」
リーナが膝に埋めた顔を此方に向ける。
「本当だよ、本心から言ってる」
「………………えへっ、えへへへ……!」
気落ちしていた顔はどこへやら、破顔一笑とした様子でリーナはまた顔を膝の間に埋めた。そしてまた顔を此方にひょこりと覗かせると小さな声で「……ありがと」と微笑んだ。
それからは漸くリーナの緊張も解けた様子でポツリポツリとお互いに言葉を交わし始める。その会話を縫うように寄せる焚き火の光と熱がリーナの輪郭を淡く彩り、中でも火に照らされてより赤く見える唇がリーナの女性をより扇情的に見せている。
「それでだな──」
会話の合間にも彼女の表情はコロコロと目まぐるしく変わる。時には軽快な口調で身振り手振りを交えたり、また逆に重厚な語り口になると所作を緩慢にして見る者の想像を掻き立てる。そうしたリーナの表情、声、動作が満遍なく宗一に届けられるが、中でも最も宗一の理性に訴えかけたのがリーナから微かに届くそこはかとなく香る女性特有の甘い匂いであった。それがいつの間にか鼻腔に溜まり、宗一をくらくらと惑わす。
「──い、おい! 宗一! 聞いているのか!?」
「き、聞いてるよ、大丈夫大丈夫。リーナの話し方が上手いからつい聞き入っちゃっただけだよ」
「そうかな? そうなのかもな……弟と話すときにはいつも私が喋ってばかりだからな……」
「そういえば前に口にしてたけど、ルゥがどうとかって……もしかして弟の名前なのか?」
「そうそう、正確にはルゥトルという名だがな。身体の弱い弟でなぁ、お医者様に見て貰うのも薬を買うのも満足にさせてやれなんだ……」
「……ご両親は?」
「……亡くなってかれこれ数年前にもなるかな、始めは不安で弟と二人で肩を抱き合っていたが、そんな私も今ではルゥの姉であり母であり父になるまでに至った!」
「……悪い、すまない事を聞いた」
「いや、此方は気にしてはいないから宗一も気にしないでくれ。両親が居ない事など別段珍しいことではないしな」
リーナはそう言いつつ寂しげな表情で揺らめく火の奥を見据えている、それは亡くなった両親を偲んでいるように見えた。
「それから弟と二人で必死の思いで暮らしていたが、両親の残してくれた金もついに底を尽き始めてな。これではいかんと奮起して色々な事をしたものだ……」
「へぇ……と言うことはリーナはずっと騎士に従事していた訳では無いんだな」
「あぁ、今回の行軍が騎士としての初めての仕事だ」
「初めてなの!?」
あっけらかんと言うリーナに宗一は慌てて聞き返した。宗一の想像する騎士とは厳格、厳粛を胸に携え、ただ一向に主家に従事する……いわば日本で言う武士に位置するものだと考えていた。それだけに今のリーナの言葉はまるで只のバイトの様な軽薄なものに聞こえた。
(いや、ここの世界が俺の世界とは違うのにはいい加減に慣れないといけないな。きっと騎士にも色々な身分があるのだろう。江戸時代の武士にだって夥しい数の身分と階級があり、武士の身分を売買していた話だって実際にあったのだから、きっと異世界にも色々な事情があるのだろう)
「私は数多の公募を薙ぎ払い、千切っては投げ千切っては投げ……そして採用された実力派エリートだからな!」
「千切るな、投げるな」
「おほんっそれは冗談だとして……ま、最終的に決めてとなったのはやはりこれだな」
リーナは胸元の魔石を指し示している。それは昨夜の消沈した様子とは違い今も煌々と静かな輝きを放っている。
「私自身には魔装具を起動出来る程の魔力は無いのだが、こうして魔石を行使出来る人材も貴重なのだ。だからこうしてここに王国騎士団辺境調査隊の一員としてここにいるという訳だな」
「王国騎士団辺境調査隊ね……いや、これ騎士って言っていいのか? どちらかと言うと調査隊じゃないのか?」
「……騎士団員が統括している調査隊の一員なのだからこれはもうほぼ騎士みたいなもの……だと思う……駄目か……?」
リーナは自信無さげに答える。その言葉尻の頼り無さが否である答えを物語っていたが、宗一は「そうだな、ほぼ騎士だと……思う」とまた頓珍漢な答えを返すしかなかった。
「この魔装具を買うのにも借金してしまったし、ルゥの為にも今回の調査は必ず成果を挙げねばならないんだ。だからもしもの時は宗一……頼むぞ!」
「借金ってリーナ、お前な……まぁ俺に出来る事があれば力になるよ」
「なるとも。宗一は光の資質を持つ勇者なのだからな。必ず私の助けに──」
リーナは言葉を途中で切り上げて立ち上がり、槍を森の方向へと向けた。
「宗一、立て! 何か居るぞ!」
「あ、あぁ! わかった!」
宗一は訳も分からず先ず立ち上がり、近くに置いてあった筒から棒を持ち出した。そのずしりとした握り心地が非日常感を助長し、宗一に緊張を走らせる。
「リーナ……一体何が……」
「…………来るっ!」
リーナが言うと同時に森の奥からガサガサと派手に木々の枝を揺らしながら何かが現れた。二人がその生物をじっと見詰めると、リーナが喉を鳴らしてからぼそりと呟いた。
「……ンポポだ」
「あれがンポポ……」
宗一はリーナの呟きに続くようにして小さく言ったが、敵の正体が知れた今でもその緊張は溶けない。むしろ増したと言っても過言ではない。
ンポポと呼ばれた駝鳥に似た巨大な体躯の鳥を前に二人は押し黙って武器を構えたままである。
(……セーニャもヴィルナもまだ帰って来ていない。逃げるべきか、それとも戦うべきか、いや、俺はそもそも……この武器を、ンポポに振れるのか……?)
その問いに答える者は居ない。それを投げ掛けるのも、答える事が出来るのも他ならぬ宗一だけであるからだ。
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