第6話 月下の思い、月下の不安

 そこは宵闇とはならずとも折り重なる木々が月光を遮り、オーク達の集落に夜の帳を下ろす。暗闇を照らす篝火はもう灯っておらず、木々の間から僅かに漏れる月明かりだけが集落に穏やかな光を届けていた。その中の一角、古ぼけな布を合わせた簡素な寝床の上で宗一はもぞもぞと目を覚ました。


「うん……?」


 誰に言うともなく呟いた言葉に意味は無かったが、意識がはっきりとしていくと同時に催してくるのを感じた。隣には静かな寝息が二つ聞こえる、セーニャとリーナだ。宗一は二人を起こさぬようにゆっくりと静かに寝床から立つと、そのまま忍び足で歩き始めた。とはいえここは急造の集落であり、何処に定まった便所があるのかも宗一は知らない。


(しまったな……ヴィルナかオークの誰かに便所の事を聞いておけばよかった。まさかそこらへんに垂れ流すわけにもいかないし)


 幸いといっていいのか宗一の尿意に緊急性は無く、半ば夜中の散歩のように集落を進んでいく。夜中とはいえ警戒の為か篝火の幾つかはそのまま灯されていて、それに照らされたオーク達が適当な寝床で寝ているのが見えた。そこには鼾をかくのも居れば、静かな者も居て自分達人間となんら変わりない生活の姿がある。それを見ているとやはり近くで垂れ流すのも気が引けると、宗一は集落の外れへと静かに歩いて行った。


 宗一が歩き続けていると篝火の明かりが届かなくなり、いつの間にか自身が月の明かりを頼りに歩いていると気付いた時、目の前に開けた丘が見えた。丘は荒れている様子がなく、見晴らしが良さそうで足が自然と向いた。


 鬱蒼とした森を抜けるとそこは丘陵の一角であり、宗一は思わず足を止めた。夜中だというのに月明かりが妙に眩しく、またはっきりと全てを照らし出している。宗一の視線の先、盛り上がった小高い丘の先には……。


「ヴィルナ、こんな所でどうしたんだ?」


 丘の上にある少しだけ地面から顔を出すように隆起した石の上に、ヴィルナがちょこんと座っていた。月光を浴びたヴィルナの銀髪は輝きを増し、ヴィルナが振り向く動作ですら幻想的に演出した。


「……宗一こそ、こんな時間にどうしたですか?」

「ん……まぁ、散歩みたいなものかな」


 宗一はそう取り繕った。少女に面と向かって用を足すとは言い辛かったからである。そのまま「隣、いいかな?」と続けると、ヴィルナは静かに頷いた。


 二人の間に暫しの静寂が訪れる。しかしそれは二人の間だけのもので、耳を澄まさなくとも風が葉を擦る音ですらこの場所では大きく響く。その涼やかな喧騒が宗一には心地よかった。


「……お月様をね、見てたんです」


 ヴィルナは二人を照らす月を見上げる。宗一も同様に月を見上げるが、どうにも落ち着かない気分である。


「……集落に居た頃は、お月様なんていつでも、いつまでも見れると思っていたから、こうして見上げるなんて事はなかったですけど……兄上や他のオーク達から逃げ出して、ここに住むようになってからはこの丘でよくお月様を見てるんです」


 宗一は静かに耳を傾ける。オーク達を襲った異変にヴィルナにも思うところがあるのだろう、宗一には掛ける言葉が見当たらなかった。それからまた少しの間、お互いに口を噤んだ。居心地が悪いわけでもなく、だからといって大袈裟に身ぶり手振りを交えながら話す雰囲気でも無かった。


「……宗一は怖くないです? 私達は夜が明ければ洞窟に向かうです。あの洞窟を実際に見たから言うですけど、あれは……きっと、足を踏み入れたらいけない領域なのですよ。だから誰の命の保証も出来ないです、いつ、誰が死んでもおかしくないのです」


 きっとヴィルナの言葉に嘘は無いのだろう。だからこそ宗一は答えなければいけないと、そう感じた。


「怖くない、なんて言えないな。俺はセーニャやリーナに比べれば強くもないし、何が出来るって訳でもない。でも、あの時ヴィルナが助けて言ったとき、助けたいと思ったんだ。俺なんて役に立たないかもしれない、それでも誰かが助けを求めてるのなら手を差し伸べたい」


 それは宗一の嘘偽りの無い言葉、本心であった。


「……でも、私はオークです……よ?」


 ヴィルナが宗一を覗き込むようにして身体を寄せた。その燃えるような深紅の瞳が何処か人を試しているような、また警戒心を感じさせたが、宗一にはその真意が見抜けなかった。


「兄上がまだ健在だった頃、王国へ自身と数人のオークを連れて出稼ぎに行った頃時がありました。その年は鉱石が余り取れずに集落を維持する食料を確保できなかったのです。しかし年の瀬を迎える頃には兄上は見事な量のお金と食料を持ってきたです」


 その目は何処か誇らしげで、ヴィルナが如何に兄を慕っていたのかが伺えた。


「……だけど兄上はそれに納得していない様子で『人間供にいいように使われた、奴等は俺達オークを頑丈な道具としか見ていない。ヴィルも奴等には気を付けろ』と言っていたのです。宗一も……宗一も私達オークを道具だと、そう思っているですか?」


 そうか……ヴィルナは俺を、人間という種族を測りかねているのかもしれない。兄から聞いた話と併せてヴィルナ自身もそういった扱いを受けていた可能性だってある。宗一は少し逡巡して目線を外すが、やがて口を開いた。


「最初にヴィルナを見たときは状況が逼迫していたから、敵だと思ったよ。でも実際は助けられて、食事の用意までして貰って……命の恩人、かな」

「……宗一は大袈裟です」

「大袈裟じゃないさ。あのときの事は本当に感謝してる。そしてこうして話をしている今は……仲間だと思ってる。俺は余り皆の役には立たないかもしれないけど、明日からは宜しく頼むよ」


 宗一がそう言って頭を下げると、ヴィルナは「全くもう、しょうがない人ですねぇ、宗一は……」と少し微笑んだ。その瞳からは警戒心が若干薄れたような気がした。


 それから二人は他愛ない会話をしていたが、宗一はふと気になっていた事を聞いた。


「そういえば、ヴィルナは何故洞窟に戻ろうと思ったんだ?」


 オークの異変の事、ヴィルナの兄の変貌、全ての原因は確かにその洞窟にあるのかもしれない。しかし身の安全を守るならば二度とその洞窟へは近付くべきではないだろう。いや、正気を失ったオーク達が横行闊歩しているのであれば森を出るのも考慮するべきでは、と宗一はヴィルナに話した。


 ヴィルナは「んー……」と困った顔をしたが、やがて意を決したように「これは明日にでも皆には話すつもりだったのですけど」と前置きをしてから話を始めた。


「私達が洞窟から離れる切っ掛けになったのは兄上の言葉だったのです。次々に正気を失い、消息を絶つ皆に怯える一方で私達は行動を決めかねていました。しかし日々の変貌を前に虚ろになっていく兄上が『ヴィルナ、ここはもうおしまいだ。直ぐにでも皆を連れてここから、神殿から離れるんだ』と私に伝えたのです」

「神殿……? 洞窟じゃないのか?」

「はい、確かにあの時の兄上は神殿と言いました。そして私達はあそこから離れて今の場所に集落を構えたのです、が」


 ヴィルナはそこで言葉を一旦区切って深呼吸をした。そのただならぬ雰囲気に宗一は固唾を飲んで見守る。


「私達の仲間、いえ私も含めて未だに異変に悩まされているのです。正気を失い、消息を絶つ仲間は今夜も現れるかも……」

「異変は洞窟の周辺で起こるんじゃないのか!?」

「私もそう思っていたのです! ですが現実に異変はまだ続いています、今も私は誰かに覗かれて……っ!」


 ヴィルナの視線が奥に見える木々の影を向いた。宗一も釣られて視線を向けるが、そこに何かが見える訳ではなかった。


「今考えてみれば、あの時の兄上は既に正気を失っていたのかもしれないのです。そう、あの言葉は私達をあの場所から遠ざけようとして出た言葉なのかも。宗一、私達オークはこの異変を解決しなければ滅びの一途を辿るのです」

「だからあの洞窟……いや、ヴィルナの兄が言うには『神殿』か……そこに向かおうと思ったんだな?」

「そうなのです。おそらくあの洞窟への道が開けられた時、私達オーク全体を対象に呪いのようなものが掛けられたと思うのです。しかし私達オークではきっともう洞窟に踏み入れる事はできないです。でも宗一が光の資質を持つ『勇者』ならきっと……宗一、どうかその力で私達オークを助けてください!」


 その悲痛な叫びは宗一の胸を強く打った、だがそれと同時にある言葉が強烈に心に引っ掛かった。


(勇者なら、きっと……か。でも俺は勇者の成り損ないだ、ヴィルナの望みに応える事は難しいかもしれない。だけどセーニャが着いてきてくれるのなら、ヴィルナの望みをなんとか形にするぐらいならできるかもしれない)

「……俺が本当に力になれるのかはわからないけど、精一杯オーク達を助けるよ。約束する」


 宗一のその言葉に安心したのか、ヴィルナは安堵の息を吐いた。


「……宗一にそう言ってもらえて安心したのです、さぁそろそろ帰るですよ。朝早く出ないといけないですから」

「そうだな、そろそろ行こうか……」


 宗一はヴィルナに連れ立って来た道をゆっくりと戻って行く。その時宗一が自然と手を差し出したのは、ヴィルナの体型が宗一からすると幼く見えるからであろうか。流石に幼子扱いが過ぎるかもと宗一は思ったが、ヴィルナは差し出された手と宗一の顔を交互に見ると、やがて「まったく、宗一はしょーがないですねー」と差し出された手を掴み歩き始めた。その頬が淡く赤らんでいたのは、夜空の月だけが覗き見る事ができるのだ。二人は並んで集落へと戻っていった。


 宗一がヴィルナと別れて元の寝床に辿り着くと、セーニャがもぞもぞと掛け布団代わりの布から顔を出して怒りの表情を露にした。


「宗一、遅いぞっ! 何処へ行っていたんだ!」

「セーニャ? 起きていたのか」

「あのな、目が覚めたら宗一が居ないから心配したんだぞ。もう少しでリーナを叩き起こして宗一を探しに行くところだった!」


 ぷりぷりと怒るセーニャに宗一はしどろもどろだったが、そこで「あーその……」と席を外した訳を話そうとしたが、ある事実に気が付いた。宗一の尿意は未だに収まってはいなかったのだ、用を足すのを忘れていたのである。


「……実は用を足そうとして……するのを忘れていた」

「宗一……頭は大丈夫か? 物忘れに効くエルフの飲み薬でも作ってやろうか?」


 セーニャの呆れた物言いに宗一はがくりと肩を落とすしかなかった。足そうとした用を忘れるとは、と宗一自身も呆れ返ってしまったからである。


「だけど色々あったんだよ。あっちの丘でヴィルナに会ってなーー」


 宗一はヴィルナから聞いた話をセーニャに話した。するとセーニャは「成る程な……実は」と話を始めた。


「私が目を覚ましたのは周りで何かが動く気配を感じたからなんだ。耳を澄まし、目を凝らして様子を見てみると……それは虚ろげな瞳でよたよたと森へ入っていくオークだったよ」

「……そうか、やっぱりヴィルナの言っていた事は本当だったんだな」

「あぁ、そうなるな。それでどうする、今のうちに逃げるという手もあるが……」


 セーニャは鋭い視線で宗一を見た。


「いや、勿論行くさ。セーニャこそいいのか? 洞窟に神殿、虚ろなオーク……本当に危ないかもしれないぞ」

「ならばこそだ、この森には私が住むエルフの里があるのだぞ? そんな事を聞いたら尚更放ってはおけない」


 宗一とセーニャがお互いに頷き合う。宗一はこの異世界で目覚めてから初めて己の意思で覚悟を決めた、その目に力強く光が宿る。後は日が昇るのを待つだけである。


「…………それにしても」


 セーニャが隣で寝息を立てているリーナ頬を指でぷにぷにと突いた。リーナの口から「ふみゅ、ふみゅ」と息が漏れる。


「何度も言うが、こいつ本当に……本っ当っに騎士なのか? いくらなんでも警戒心が無さすぎるだろ、ほれっほれっ」


 何度もぷにぷにと頬をつつかれたからか、リーナはごろんと寝返りをうつとまた「うぴゅぅ……」と静かに寝息をたてはじめた。


「止めてやれよ。今日は走りっぱなしだったからきっとリーナも疲れているんだろ……っと、ごめん、ちょっと出てくるよ」


 宗一はぶるっと身震いさせるとそそくさと立ち上がった。


「今度は用を忘れるなよ、あと余りここから離れるな。正気を失ったオークに会ったら襲われるかもしれないからな」

「忘れないから大丈夫だよ、わかってる……」

「あと……今夜は月が大きくて明るいけど、足を踏み外したりするなよ」

「……月明かりは向こうにもあったから慣れてるよ」

「む、そうか……宗一の世界にも月はあるのか……そうすると、もしかして同じ世界なんていう事も……」


 セーニャがぶつぶつと言い始めたので宗一はリーナを起こさないようにまた忍び足で集落の外れに足を進める。集落を灯す篝火を縫うように闇から闇へと身を移し、どうせなら見晴らしのいい丘陵へと足早に進んでいく。


 宗一が辿り着いた開けた丘を落ちてきそうな程の見事な満月が存分に照らしている。


(……セーニャ、これは確かに俺にも見慣れた月明かりだよ。俺の居た世界も月に何日かはこうやって満月になるもんさ)


 宗一はいそいそと忘れぬうちにと用を足す。


(でもな、ここが俺の居た世界かと言われれば、それは絶対に有り得ないんだよ)


 宗一が見上げるのは満月。また、宗一を照らすのも満月である。


(……俺の世界に月は二個も無いんだよ……)


 二つの満月が宗一を見詰める。それが夜空にくり貫かれた瞳のようで、夜空に浮かぶその強烈な違和感が宗一をこれまでにないくらいに不安にさせている……。

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