23 白井 景 / 藤野 波美

草樹

 赤い部屋だった。


 私は赤い部屋で目をひらいた。


 しかしその眺めは、目を閉じる前とはまったく別のものだった。


 私たちのそばに花頭人はいなかった。赤い光を放つのは部屋の隅に置かれた照明であり、中央には丸テーブルと二脚の椅子、ドアの近くに置かれた三本脚の台と、その上で咲くスズラン。床には、ウサギのぬいぐるみがぽつんとひとりで転がっている。


 波美はまだ、眠るように横たわっていた。


「波美。起きれるか」


 そう呼びかけると、波美は気怠げに目をひらく。あくびをして、部屋を見回してすぐに気付いたようだった。


「帰ってきた……」


 波美は私の手を引き、窓辺へみちびいた。すると窓からは、大きな川と広々した河川敷、春の野と、そして私たちの暮らしたマンションが――七階の部屋には吊るしのランが――見えるのだった。


 どのようにここへたどり着いたのか覚えていないが、ともかく帰ってきたらしい。


 私たちは赤い部屋をあとにして、橋を渡り、河川敷を歩いて家まで帰ろうとした。


 その途中で、置き去りにされた測量用具を見つけた。


 思い返してみれば、いつか放り出してそのままだったのだ。


「ちょっと手伝ってくれよ」


 それでなんとなく興味が湧いた。


「え、あたしなんもわかんないですよ」

「知ってるよ。でも簡単なんだ。ほら、その棒を地面にまっすぐ立てて、こっちを向いててくれ」

「こうですか?」

「そう、ちょっとだけ右の、赤いリボンに重ねて……」


 トータルステーションをヨモギに結ばれた青いリボンの真上に立て、カメラを覗き込む。レンズ越しの波美は、どこか緊張したようすに見える。ほほえましい気持ちだった。私はすこしの間その表情を眺めてから、座標を観測した。


〈13-4-4-1-000290-1〉は、〈1021.310,118.681〉


 アップロードしたデータを、サーバーは正しく受理する。


「そのまま、待っててくれ」

 と、次の地点へ。


〈13-4-4-1-000290-2〉のオオバコは座標〈509.739,499.091〉

〈13-4-4-1-000290-3〉のスギナは……。


 結局、観測した基準点〈13-4-4-1-000290〉の座標を、サーバーはすべて正しく受け入れた。


「もういいですかー?」

 波美は不満っぽく言う。


 そうだ。


「うん。大丈夫だ。助かったよ」


 世界は正しく回っているのだ。


「波美。元気そうだね」


 そう呼びかけたのは、みどりだった。いつの間にそばに来ていたのだろう。


 みどりは晴れやかな笑顔をうかべ、波美を見つめている。


「みどねえ……!」


 波美は全身をさあっとふるわせたと思うと、仔犬のような勢いでみどりに飛びついた。バランスを崩しかけた体をみどりが支える。「おおげさ」とこぼしながら波美の頭を撫でたのは、たしかに睦まじい姉妹のふるまいだった。


「お父さんも来てるよ」


 みどりが視線をおくった先には、芝生にのんびりと腰を下ろした男性の姿がある。年の頃は五十代だろうか。うっすら白髪の交じった短髪を清潔にととのえた彼は、控えめながら娘たちに手を振っている。そのときうかべる白いイルカのようなやさしいほほえみは、疑いようもなく彼が二人の父なのだと感じさせた。


 ふと足になにかが当たった感触があり、見てみると、小さなボールが転がっていた。


「ごめんなさい」


 と駆けてくるのは小学生くらいの男の子だ。その後ろから、父親らしい男性も頭を下げながら近付いてきている。


 私は足もとに転がったボールを拾うと、「がんばって」と男の子へ投げ返す。山なりに飛んだボールがグローブに吸い込まれると、彼は勢いよく頭を下げてから父親のもとへ戻り、キャッチボールを再開した。


 行ったり来たりするボールの行方を、小さな女の子が二人、口を開けたまま眺めている。


 彼女たちの母親だろうか、親しげな二人の女性はピクニックシートにお茶を広げ、おしゃべりを楽しむことに余念がない。

 そのおしゃべりの向こうでは、昔ながらのカセットラジオから流れる音楽に合わせて、大勢の老人たちが軽快な体操を続けている。

 あるいは芝生に寝転び、汗をかいて飼い犬とフリスビーを追いかけ、ランニングコースをゆっくりと走り、仲間同士でボールを蹴って、トランペットの高音がうまく吹けず、積極的になにをするでもなくベンチに座っている。


 それは春の眺めだった。


 うつくしい日射しが、かれらの姿を明るく照らしていた。


「折戸くんだ」


 いつの間にか、隣に来ていた波美が言う。たしかに折戸だった。波美の呼びかけに気付くと、彼はこちらへやわらかく手を振る。心地よさげな表情だった。彼もまた、深く満たされているのだろう。


「戻らなくていいのか」

 私はたずねる。


「景さんといますよ」

 波美はこたえる。


「そうか、そうだな」

「嬉しいです?」

「まあ、時間はあるし」

「素直によろこんでくださいよ」

「うん。嬉しいよ」

「かわいく言えるじゃないですか、なんか」

「おまえさあ……」

「やめてーっ!」


 髪をぐしゃっともてあそぶと波美は大声をあげ、私もつられて声にして笑う。


 そう。

 時間があるのだ。


 私は澄んだ青空を見上げると、腕をいっぱいに広げる。


 私たちには、永い時間が。


 誰もいつかは、この場所にやってくるだろう。


 私は波美の手を握り、みなとともにゆっくりと目を閉じると、降り注ぐあたたかな日の光を受け入れることに決めた。

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汝、隣人を愛するように草樹を愛せ 西 聖 @Usick

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