白井 景②

「クソどもが! 燃えちまえ! 消えろ……」


 家守の木を焼き尽くす炎のように、景さんは叫んだ。

 それはすこしの恐怖を孕んだ、強烈な快楽だった。みどねえ、星川。あたしは成し遂げたのだ。すべての元凶たる家守を焼き払い、大切なひとたちの復讐を果たした。


 この炎で、やつらを地獄へおくったのだ。


 全身に満ちた歓喜に衝き動かされ、景さんへ駆け寄ろうとした、そのときだった。


「なみ」


 後ろから呼ぶ声がする。


「おかえりなさい」

 と、あたしを抱きしめる。


 それは間違えようもない、姉の、みどねえの声や感触だった。よろこびやとまどい、そして恐怖に叫び声をあげかけるが、声は出てこない。喉が痺れるようだった。またたく間に痺れは全身へ広がり、指の一本でさえ動かすことができなくなった。


「大丈夫だよ。わたしにだけ集中して」


 耳もとでそっとささやく、それはさながら毒だった。あたしは力を、抵抗しようという意志さえも溶かされ、目の前で焼け落ちていく人間樹たちのあわれな姿をぼんやりと眺めながら、みどねえの温かな体に沈んでいった。


「波美、行くぞ」


 景さんがそう言って掴んだのは、二頭をもった畸形の白い手だった。到底あたしに似た姿ではない。しかしそれは、たしかにあたしだった。あたしだと感じられた。理解の網をくぐって落ちるその確信は、二人の姿が炎の影に消えるまで残り続けた。


 それで、あたしにはわかった。


 支配されている。


 もてあそばれて。


 あたしたちはてのひらの上で、あわれな踊りを……。


「よくわかりました。いい子だね、なみ」


 ふっと抱擁を緩め、あたしを振り向かせる。目の前にいるのは、たしかにみどねえだった。いつきさんではない。他の誰でもない。やっぱりそうだった。最初からずっと、このひとはみどねえだったのだ。


「みどねえ……」

 感動が声をふるわせる。


「うん。ここまでよくがんばったね。えらいよ」

 みどねえは、あたしの髪を撫でてくれる。


「じゃあ、あとひとがんばりだね」

「……どうすればいいの?」

「できるよね。なみ」

「うん。あたしやるよ」

「いい子」


 そう言って、みどねえはほほえむ。うつくしい表情だった。口もとに浮かんだ弦月を、燃える炎が真っ赤に照らしていた。


「……永い時間だった」


 そのくちびるがひらかれると、舌の上には赤い実が乗っている。


「驚くかもしれない。ちょっとだけ、恐ろしいかも。でも大丈夫、わたしたちはあるべき場所へ向かっていく」


 みどねえはその、サクランボよりは小さく、サンザシよりも大きい、赤くつやつやした不明の果実を指でつまみ上げる。


 あたしは大きく口をひらき、その果実を迎える。

 みどねえが指で舌に置いた果実を、ゆっくりと飲み込む。

 純粋な球形をした弾力のある果実が、なめらかに体内を降りていく。


 そして、


(――草樹たち)


 あたしにはすべてが、


(――かれらは永くあたしたちを見ていた)


 有史以前より連綿と継承されたかれらの記憶や意識、心が、


(――個体や種を超えて連続するひとつの生命としてのかれらが)


 入ってきた。


 気がつくと、仰向けになって倒れていた。眼前では揺籃たる家守がまっ黒い炎を噴き上げている。それは解放だった。炎は終わらせるのでなく、解き放つのだ。タンポポの綿毛の舞うように、かれらは炎によってこの地を巣立ち、世界中を満たしていくのだ。


 成し遂げた。

 あたしは、かれらのために。


「大丈夫だよ」


 みどねえが、見下ろしている。

 燃え盛る炎の光陰が、その表情を覆い隠している。


「あなたは一度すべてを忘れる。でも、知ってるよね。そのときが来るまで、なみはなみの思うまま望むようにすればいいんだよ」


 そう言って、みどねえはあたしを離れていく。その後ろ姿は、偉大なる使命を帯びた聖女のように美しいものと感じられた。


「ラウラ」

 あたしは視線でみどねえを追いかける。


「ラウラ」

 みどねえはくり返す。


「ラウラ」ラウラ」「ラウラ」「ラウラ」


 そして、みずからの頭部を両手でしっかりと掴んだ。


「……ラウラ」


 あたしはこたえた。


 みどねえは頭を思いきりねじり、みずから首をへし折った。ごぐんっという厭な音が聞こえ、その首は折れた骨で気味の悪いかたちに膨らみ、仰向けに倒れ込んだ体はもう動かなかった。


 ひとすじの涙が、ほほを流れるのを感じる。


 それは悲しみや恐怖でなく、安寧の涙だった。


 だってみどねえはあたしの内にいた。その記憶、心は連続する草樹の生に保存され、その内部にいる、ゆえにいつもあたしとともにある。


 そうやって、草樹はあたしたちを見ていたのだ。見ていてくれた。人間の世界はかれらのてのひらの上、ゆりかごの中にあった。あたしたちはそこで、ほんの短いあいだだけかれらに庇護されながらおぼつかない踊りを踊っていたにすぎないのだ。


 だから、あたしたちは誰もみな、もう孤独になることはないのだった。


 あたしは目を閉じる。

 景さんの声が、近付いてくる。


「おい、波美! 聞こえるか」


 抱え起こされたあたしは、ゆっくりと目をひらく。


「……景さん。あたし、いきなり」


 とこたえる。

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