21 藤野 波美

藤野 波美①

 この日、あたしはゆっくりと目を覚ますところから一日を始めた。


 もっとも、この体はもう眠りを必要としていなかったので、それは儀礼みたいなものだ。遅めに鳴らしたアラームを止め、むくっと体を起こす。寝ぼけた髪を手ぐしでととのえてからベッドを離れ、カーテンをひらくと、やわらかい朝日の影が体を暖めてくれる。


 うららかな春の日だった。


 リビングのドアをひらくと、景さんの姿はベランダにあった。


 たばこを吸っているのだ。窓をしっかりと閉じているので、煙は部屋まで入ってこない。あたしはひらひらと手を振りながら、窓の外に顔を出す。アメリカンスピリット・ゴールド。景さんのにおいだった。


「おはようございます」


 あたしは言った。


「おはよう」


 景さんはキャンプチェアに膝をまるめたまま、ゆっくりとカップをかたむける。煙まじりの蒸気が、その表情をほっと白く染めた。


 かわいいひと。


 カップ一杯のお湯を飲み、ほとんどブランチになった作り置きの食事を軽めにとって、出かける準備を進めていく。


「ちょっとのんびりしすぎましたかね?」


 腕や脚にちょこんと顔を出した蔓を抜きながら、あたしはこぼす。


「べつにいいだろ。暗くなるなら途中でどっか泊まれば」


 景さんは自分のほうをさっさと切り上げ、あたしを手伝ってくれる。


 ところでそれはいい考えだった。

 さっそくスマホを取り上げ、目的地に近い宿について調べようとするのだが、通信はつながらなかった。景さんのもそう。ついに電波やネット、つまり文明の大きな部分が終わったのかもしれなかった。


「見つけたとこに入ればいいだろ」


 景さんは適当っぽく言うが、あたしはとても賛同できない。大切な夜なのだ。せっかくだから気持ちよく過ごしたい。そう力説すると、景さんはうなずいてくれる。頬をゆるめて苦笑した、その表情があたしは好きだった。


 やさしいひと。


 行く先々でよさそうな宿を探しましょう、というところで会話を落ち着かせ、あたしたちは家を出た。


 戸締まりや元栓をたしかめ、ブレーカーを落とし、しっかりと扉に鍵をかける。

 建物の外に移した鉢植えたちに、最後の水やりをする。


 そうして、景さんの車で出発をして一分も経つと、あたしたちの暮らした家は見えなくなった。


 この日はまず、父に会いに行く予定だった。

 けれど、宿に泊まると決めると途端に急ぐ気持ちがなくなり、寄り道をしようという話になる。


 そこで道すがら立ち寄るのは、東京駅だった。


 駅の眺めは折戸くんの写真そのままだったが、実際に立ってみるとやはり迫力が違って感じられる。木々のひとりひとりが生きている、ささやかな風にその葉を波打たせているという実感は、調和的な美しさに混沌とした生命の感覚を与えていた。それは完璧の、わずかに崩れる瞬間を一瞬ごとに味わうような、まさしく生のよろこびというよりほかない美しさなのだった。


「やっぱり、写真よりずっといいですね」


 景さんはうなずく。


「あっち、見てみろ」


 と言って指で示すのは周囲を囲む高層ビル群だ。数十階建てのビル、そのすべてのガラスの窓際には、人間樹が立っていた。厚い窓を破れなかったのだろう。それはなにか、決して手の届かないあこがれを眺めるような、美しくももの寂しい光景だった。


 駅をあとにすると、父のもとへ向かう。


 父のグループホームは車で数十分の距離にあったが、なにしろ駅となく道となく、どこにでも人間樹はいるのだ。対向車も信号も関係のない道路は快適だったが、不意に車道のまんなかに立っているかれらに驚かされることも少なくなかった。


 みんな、日当たりのいい場所をさがしているのだ。


 よほど見通しの効くところでなければ速度は出せなかったが、むしろそれを受け入れる気持ちでのんびりと進んでいくと、結局、いつもの倍ほどの時間をかけることとなった。


 グループホームは、甘い香りに包まれている。


 玄関口に立った人間樹に挨拶をして、建物に入った。うす明るい廊下から、大きな窓で日光を取り込むリビングスペースまで、かれらはホームのどこにでもいたが、なかでも人数が多いのはやはり中庭だ。日本庭園ふうの中庭に住人やスタッフであっただろうかれらが並び立つ、そのなかの一人として、父はお気に入りの庇の下で穏やかな時間を過ごしている。


 そして驚くことには、父の住まう日だまりを色とりどりの花が囲んでいるのだ。


 ホウセンカにハス、リンドウ、カスミソウ、キク。

 ヒマワリや、あたしの名前の知らない花……。


 数十人もの花頭人が寄り集まり、父の樹木をあざやかにいろどっていた。


 まるで。


「ねぎらってくれるみたいだな」


 景さんが言った。


 あたしも同じことを考えていた。そう伝えたいが、言葉がうまく出てこない。あたしはしゃくり上げながら、なんとかうなずいてそれにこたえた。父は、そうだ、慈しまれているのだ。かれらは父を見守っていた。生まれてから、いや、彼の生まれる遥か以前から、そしてこれからも、永く。


 それはすばらしいことだと、あたしは思った。

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