20 白井 景

白井 景①

 目の前で崩れ落ちたその体は、たしかに羽村さんのものらしく見えた。


 全身が激しくふるえはじめる。人を殴ること、死んでも構わないという意志をもって害することへの昂揚や悔念に襲われ、私は手にしたパイプを落とさないよう強く握り直さなければならなかった。


 まだ生きている。

 息をしているのだ。


 彼は仰向けに倒れていた。後頭部からの出血は地面に広がり、チェーンソーの刃で大腿は深く抉れている。立ち上がれそうには、少なくとも走れそうには見えなかったが、それでも彼は、その無関心な目で私をまなざすのをやめなかった。


「想像してなかった」


 その口調は穏やかだった。


「白井さん。きみはとても孤独だった。勤務態度には可も不可もなく、言われた仕事はそつなくこなすが主体的な行動は起こさず、なにより先行きも短かった。観測には最適な人材だ。とはいえ、もっと適当なところで諦めてくれると思っていたよ」


 だが、その声に心は感じられなかった。


「最後の選択だね」


 私はパイプを振りかぶる。


「いまやすべての元凶は藤野波美さんだ。彼女がいなくなれば、もしかして人類にも再興の道がひらかれるかもしれない。ぼくを選ぶか藤野波美さんを選ぶか、つまり人間と草樹そうじゅのどちらを選ぶかというはなしだ」


 殺さなければ、追ってくる。


「正しい道を選ぶといい」


 そう言って、彼は口を閉じた。

 それ以上の抵抗を、みずからの意志でなにかを果たそうとするつもりはないようだった。


(――始まりは藤野さんだ)


 私は。


(――なにかを、藤野さんは受け継いだ)


 正しい道を……。


「景さん」


 波美が、私を呼んだ。


 波美の体はぼろぼろだった。両手足は異常な方向に折れ曲がり、大腿の真新しい傷からはまだ出血が続いていた。全身真っ赤に塗れた服の左胸、心臓のあたりは刃物で刺されたように裂けており、その首にはいびつな形状の横線――切断したものを繋いだような――が走っている。


 それらの傷を、縫合糸のようにして蔓や根が結んでいる。


 数メートルの距離をおいても、その体の変容はわかった。


 波美の頭部は、ほんらい脳があるべき場所が欠損したらしく、それをあざやかな緑が埋めているのだった。


「波美」


 私は思う。

 なんて。


「おまえのためだよ」


 なんて、うつくしい姿だ。


「だから私をつれていって……」


 私は思いきり、パイプを振り下ろした。

 羽村さんは「そうか」とだけつぶやき、私の選択を受け入れた。最初の殴打で、ごうっという音とともに彼の額が深く窪む。次には骨が完全に砕け、脳を突き破る。一打、一打ごとにその脚はビクビクと痙攣を起こすが、やがてそれもなくなる頃には、破壊された脳が頭部から飛散し、彼は巨牛のような野太い息を体から吐き出すともう動かなかった。


 その体からは植物の蔓も根も、花もこぼれなかった。


 顔を上げる。波美を見つめようとしたそのとき、突然視界が真っ赤になり、それは返り血が目に流れ込むのだった。目が痛む。気持ちが悪い。私は顔をこすり、降りかかった血を袖でぬぐう。きれいになったかはわからないが、それで少なくとも目をひらくことはできた。


 すると、波美がそばにいる。


 傷ついた体で、這うようにして、ここまで来たのだ。


 私はかがみ込んでその体にふれた。波美の体は温かく、どこをとってもやわらかい。私は声をあげて泣きたいような気持ちになり、ほほえんだ。それはどちらも、よろこびがさせるのだった。


 波美は私のてのひらにそっとふれたと思うと、袖をまくった腕の肌の薄いところを撫でてくる。くすぐったい感触だ。けれど心地がいい。


 やがて波美の手が離れると、隠れていた新芽が姿をあらわす。


 あるいは若葉や、蔓。


 草樹たちは、私の腕のそこかしこから生えているようだった。


「かわいい」


 と、波美がほほえみ返した。


 私は返事のかわりに、波美のまるい目を見つめた。

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