19 藤野 波美

藤野 波美①

 あたしは生きていた。


 かたちを保てないほどに破壊された意識が、激痛によってみずからの属する身体を思い出し、少しずつ、その形状を取り戻していく。


 七階から落とされたのだ。

 折れ曲がった腕がまっすぐに天を向き、流れた血はスイレンのような冠を地面に広げている。


 それでも生きていた。


 どろどろと濁った視界には足が見えている。青白い、はだかの両足。それがみどねえのものだと、あたしにはすぐにわかった。そばにいてくれるのだ。約束を、守ってくれて。


(――諦めないで)


 みどねえの声が聞こえてくる。


 思い出すとか幻聴するのではなく、声はたしかにこの体を響いていた。


「諦めないよ」


 あたしはこたえた。


 奥歯で袖を噛みしめながら、折れた両足でどうにか立ち上がる。死んだほうがましなほどの苦痛だった。フラッシュを焚かれたように目の前がかがやき、覚えず水っぽい嘔吐をする。しかし、それでも生きなければならなかった。


 最初の一歩にはやはり壮絶な苦痛が伴うが、それは立ち上がったときよりはましになっている。悲鳴をあげながら次の一歩、続けてもう一歩を、あたしはなんとか踏み出すことができた。


 脚を見てみると、裂けた肌の隙間から密生した蔓や根が覗いていた。首にさわってみると、かれらが寄り集まってかさぶたのように傷を塞いでいるのがわかる。そうやって、折れた骨も支えていてくれるのだろう。


 あたしにはわかった。

 かれらがあたしを生かしている。


 マンションの敷地を出て、遊歩道をひた走る。遠くへ行かなければならない。体はどうにか動いてくれるが、苦痛は続いている。それでも逃げなければ。できるだけ遠くへ。どうにも頭がうまくまわらない。あれだけ殴られたのだから、たぶん脳までこぼれたのだから。当然。なんだかおかしな気持ちになり、あたしはふふっと笑ってしまう。ほんとうに、おかしくなってしまったのかもしれなかった。


 だって、気付いてしまった。


 赤茶けた煉瓦敷きの遊歩道を、うつくしい千々の光が照らしている。堤防に沿って立つ街路樹が、陽光を切ってちりばめるのだ。白い花の畑がゆるやかに波打ってかぐわしい香りを届ける、それは歌のようだ。誰もが耳にしながら、決して知られることのなかった世界の秘密。すばらしい。あたしはそんな景色のただ中を駆け抜けながら、やまない涙を何度もぬぐわなければならないほどだった。


 ブウウン。


 背後で巨大な獣がうなる。


 涙を拭いて振り返ると、遠くに見えるのはハムラの姿だった。

 両手には、重く低くうなるチェーンソーを構えた。


「簡単じゃないよ」


 不思議なほどはっきりと響く声でそう言うと、彼もまた走り出す。その巨体を揺らしながら、美しい景色を切り裂いてあたしのもとへ向かってくる。


 追いかけっこは、すぐに終わった。


 ふらつきながら逃げていたあたしの脚を、ハムラはチェーンソーで深く切りつける。やはり痛みは激しかった。走ったてい勢いそのままに倒れ込み、するともう立ち上がれなかった。筋肉や神経を、切断されたのかもしれない。


「藤野波美さん。どうしたら、きみは死ぬんだろう」彼は続ける。「まあ、ひとつひとつ試していこう」


 そうして、チェーンソーを振り下ろした。


 頭を下げ、両手をかかげる。考えがあるわけもない、恐怖の反射だった。だからチェーンソーの刃は、あたしの両手を断ち割ってから首なり体なりを両断するはずだったのだ。


 しかし、その瞬間はいっこうにおとずれない。


 頭上ではチェーンソーがなにかを切断する轟音が聞こえるのだが、かかげた腕に痛みは感じられない。


 なにかべつの。


 恐怖を抑えつけ、ゆっくりと目をひらく。そこには青白い足があった。脚を伝った血を遡っていくと、全身はだかの頭部に白いユリを咲かせた花頭人が、胴体の半分ほどまでを刃に切り裂かれながら、あたしとハムラの間に立ち塞がっているのだった。


 守ってくれた。


 あたしを。


 涙が真っ赤になるほどの悲しみが押し寄せ、それでも逃げなければならなかった。あのひとがくれた時間だった。けれど右脚が動かない。深く切りつけられた大腿の、修繕が間に合っていないのだ。反対の脚と、両手をつかって体を後ろへ引きずった。それはあまりにみじめだったが、だとしても最期まで生きなければならなかった。


 やがて花頭人の上体が地面に落ちると、ハムラはあたしに向き直る。


 ブウン。

 ブウウン……。


 スターターを乱暴に引いてチェーンソーのエンジンをかけると、悠然とした足取りでこっちに向かってくる。


「……なんで! あたしを!」


 あたしは叫んだ。


「わからないか。そうだね、まあ仕方ない。なにもかも説明されて、納得できることなんてそうはない」

「知らないよ! なんにも知らない!」

「知ってからじゃ遅いんだ」


 ハムラは機械的な歩調を緩めない。叫んでも、石を投げつけようとためらう素振りもなく進み続ける。


 そうしてついに、あたしの右脚を踏みつける。


「首を落とすよ。早く楽にしてあげたいのも本心なんだ。首が落ちれば、少なくともそこから下のことは感じないから」


 そう言って、ハムラはチェーンソーを振りかざした。


 轟音が、ひときわ激しいエンジン音が響き、その刃が落ちる。


 ハムラの脚の上に。


 なにが起きたのかわからなかった。ただ、ハムラは突然どさっと膝をついたと思うと、チェーンソーを取り落とした。回転する刃が大腿を作業着ごと切り裂くと、彼は苦悶の声をあげて地面に転がる。滑稽な姿だ。それは魔法が解け、いままでふるっていた悪魔的な力をまるごとうしなった彼が、鈍重な巨体をもてあますだけの男に戻ってしまったみたいだった。


 その巨体の背後に、景さんが立っている。


 血のついたパイプを手に、肩で息をしながら、あたしを見つめている。

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