18 白井 景

白井 景①

「いや、思考ではなくて……でも思考というよりほかない、巨大な、大きすぎて全体の見えないイメージみたいなものが……あるいは流れそのもの……」


 やまない陶酔に浸るように、折戸は続けた。


「ただ、ぼくに流れ込むのは断片でしかないんです。きっと、そこではすべてがわかるはずなのに、ぼくにはまだ」


 折戸の渡した写真には東京駅と、そこに集う人間樹の群れが写っている。


 赤茶けた煉瓦造の駅舎、その周囲に人間の姿はない。行き惑う人混みをなくして晴れやかに澄み渡った風景は、朝鳥のさえずりや、青葉のひらく音さえ響くようだ。そんな整然とした空間に、人間樹は立っていた。自然と人間と、その両者をとりなすような姿だ。神に配置されたかのような均等な間隔をひらいて並び立つかれらの群れは、瀟洒な建築と空白をもつゆえに豊かな空間にあって、奇怪にも人為と自然に完璧な調和を与える存在であるように感じられた。


「なぜ……藤野さんのお父さんは、みどりさんだけを連れて逃げたのでしょう。なぜ根井の家は、奪われていった娘を連れ戻さなかったのでしょう。役目があるというのに、そもそも役目とはどんなものだったんでしょうか。藤野さんは、それを授けられたのでしょうか。だとしたら、彼女はなにを成し遂げるのでしょう。ぼくは、ぼくや白井さん、星川さんはどんな役割を果たして、その先になにがあって……あの木は、信仰はほんとうにあったんでしょうか……」


 延々と語り続ける折戸から、私は目線を外す。視界の端でなにかが動いたような気がした――いや、動いていた。


 動いているのだ。


 なにかでなく、人間樹が。


「でも、そんなことを考えるのがそもそも間違っていた。かれらにはたいした意味なんてなかったんです。ちょっとした遊びだ。なにもかも、藤野さんのために与えられたおもちゃみたいなものだった……」


 人間樹の動作は、目で捉えるにはあまりに緩慢だった。だから私が振り返り、向き直る、そのたびに残像のかれらと現実の位置とのずれが動きの実体を伝えた。


 樹上まで伸ばした枝を、ゆっくりとではあるが、右に左に。


 かれらは大きく手を振っているのだ。


 私か、折戸。あるいはその両方に。


「かれらは知っている。人間の歴史、思考、いえ、人間以前からあまりにも多くを見てきた。かれらにしてみれば人間なんて……見下すまでもない、好きにするだけだ。これまでは見逃されていただけだった。だから……人間の時代は、終わりなんです……」


 折戸は涙を流しはじめる。声をあげたり喉を詰まらせるのではない、偉大なものに触れて胸を震わせるような、しずかな涙だった。


「でも、これは良い」


 みずから撮っただろう写真の風景を眺めながら、折戸は続けた。


「こんな造形は、人間がなければ生まれなかった。ぼくも人間でなければ見ることはできなかった。だから、人間はすばらしかった」


 そうして黙り込む。


 話すべきことを終えたのだろう。


 私は折戸に背を向ける。写真を返すべきかは迷うが、結局はポケットにしまい込んだ。折戸はそれをとがめないし、追いかけてくることもない。その脚から、ズボンの裾から伸びた逞しい根が、彼と大地とをしっかりと繋いでいた。


「ぼくは、藤野さんを助けたかった。苦しんでいるのを見過ごせなかった」


 彼の声は、次第に遠ざかっていく。


「最初は、友情だったんです」


 やがて聞こえなくなる。


「ラウラ」


 最後に、それだけを残して。


 しばらく離れて振り返ると、河川敷にはまた一体の人間樹が増えていた。


 私は車に乗り込むと、ハンドルにもたれかかり大きく息をついた。

 助けられなかった。いったい、あとどれだけの人間がこの世界に残っているのだろう。あるいは誰も。もう、私と波美だけが。


 波美。


 ひとまずは帰りの連絡を、もうすぐに帰ると伝えるためにスマートフォンを手に取ると、くり返された着信に気付く。数分前まで続いていた波美からの着信には、短いトークが続いている。


『襲われてる』

『家で』

『玄関がこわされる』

『ハムラ』


 ハムラ?

 すぐに折り返しを入れるが、波美はこたえない。


 羽村。


 エンジンをかけようとして、手を止める。波美の家だ。河川敷の道を車で大回りするより、まっすぐに走ったほうが早いだろう。


 車を降りて駆け出そうとしたそのとき、マンションの方角からブウウンというエンジン音が聞こえてくる。

 残酷な獣の、うなるような。


 私は後部座席からステンレスパイプを取り上げると、河川敷の坂道を、白い花の畑を踏み越えて波美のもとへ走る。


 エンジン音が、近付いてくる。

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