17 藤野 波美

藤野 波美①

 藤野波美さん。


「ご在宅ですよね。ドアを開けてください。開けてください」


 景さんの同僚を自称した、ハムラという巨漢の男はドアモニター越しの呼びかけをくり返している。抑揚のない声だ。にこやかな表情にも変化はない。あたしは黙ったまま、彼が諦めるのを待った。玄関の鍵は閉まっているし、ドアガードもかけてある。だから物音をたててはいけない。気付かれてはならない。


 恐怖は長く続いた。


「藤野波美さん」


 彼は天に定められた使命を果たそうとするかのように、ほほえみをうかべたままあたしの名前を呼び続けたが、数分してモニターの映像が消えると悪い夢のようなその声も去った。


 高鳴って止まない胸を押さえつけながら、深い呼吸をくり返す。静かだった。耳が痺れるほどのしずけさだ。彼はどうしてここへ来たのか。景さんの同僚だというのは本当なのか。そうだとして、なぜあたしに。


 コールをするが、景さんはこたえてくれない。

 モニターは依然まっ暗なままだ。


 彼の背後に映っていたのは、エントランスでなく玄関扉の前だった。オートロックをくぐり抜けてきたのだろうか。どうやって。他の住人が出入りすることもないのに、いや、だからこそ別の経路から侵入したのかもしれない。一階の部屋から、たとえば窓を破って……。


 がんっ。


 突然、重たい音が玄関から聞こえてくる。


 がんっ。

 それはくり返した。


 がんっ。がんっ。がんっ。がんっ。


 何度も、何度も何度もくり返す激しい衝突音は、きっと鈍器かなにかで扉を殴っているのだ。考えるまでもないことだった。エントランスを破ってここへ来たのだ。


 なんのために。


「景さん」

 コールはつながらない。


 やがて衝突音が鳴り止んだと思うと、すぐに荒々しいエンジンのうなりが、死の間際に聞かれる金切り声のような金属の摩擦音がけたたましく響きはじめる。


 薄いドアではなかった。鍵回りも重厚な構造をしている。簡単に壊れるほど弱い造りではないだろう。


 でも、いつかは破られるかもしれない。


 あるいは次の一秒で。


「みどねえ、どこ……」


 気がつけば、姉の姿は消え失せている。


「景さん。助けて」


 景さんは、いっこうにこたえてくれない。


 窓に背中を押しつけ、できる限り恐怖から遠ざかろうとした。玄関の激しい金属音は止んでいたが、起動したままのエンジンがいまにも飛びかかろうと身構える獣のような低いうなり声をあげている。あたしは扉から意識を剥がせなかったが、どうにか視野の隅に壁掛けの時計をとらえることはできた。折戸くんを迎えに行くという連絡から、一時間が経とうとしている。もう、いつ帰ってきてもおかしくない頃だ。


 帰ってきた景さんが、玄関先で。


 あの狂人に。


 全身がざあっと冷たくなり、途端に指先がふるえはじめる。「だめだ」あたしは奥歯を噛みしめ、「泣くな。泣くな」どうにか景さんにトークを送った。『襲われてる』『家で』『玄関がこわされる』『ハムラ』


 これで少なくとも、無警戒の景さんが彼と出くわすことはないはずだ。大丈夫。あたしの心に勇気が戻ってくる。逃げ道は? 玄関が塞がれているのなら、ベランダ。いちかばちか飛び降りる、のではなく隣の部屋。部屋を出たところで見つかってしまう。ではなく、はしごが。避難用のはしごがベランダにはあるはずだ。下の階から、それで。


 はしごの所在をたしかめようと振り返った、その瞬間、ベランダにかかる手を見た。


 手は安全柵の向こう側を、下の階からせり上がってきて、腕が、顔や体、すぐに全身が見えてくる。ハムラ。景さんと同じ作業着姿の彼は、その巨体で、この部屋までよじ登ってきたのだ。


 きびすを返して玄関へ走った。脚がもつれ、喉からは無意識の悲鳴があがる。背後でガラスの割れる音がする。ぶつかるように扉までたどり着くと、ドアガードを外す。固い靴音が近付いてくる。ドアロックは二つ、ボタンを押しながらサムターンをひねる。「隣の部屋は閉まっててね。ベランダで木化したのかもしれないね。ともかく、間に合ってよかったよ」


 ハムラの声が聞こえてくる。


 ロックは、あと一つ。


「藤野波美さん。こんなことになって残念だ」


 彼の声が。


「でも仕方がない」


 耳もとで。


「あっ」


 腰を鋭い熱感が襲い、覚えず声をあげた。腕ほども太さのある杭を体に打ち込まれ、そして引き抜かれたような感覚だった。


 視界がひとりでに下がっていく。どうしても、脚に力が入らない。せめて倒れ込まないよう扉にもたれかかるが、体はくずおれていく。まだ熱を保ったままの腰に手をあててみると、どろっとした鮮血が指を汚した。


 どうして。


 あたしは逃げなければならなかった。


 鍵を外して。

 この場所から……。


 景色が突然ぐるりと回った。ハムラが髪をひっぱるのだ。激しい痛みとともに顔が無理矢理に天井へ向けられ、ハムラのたぷたぷした下顎や、血で濡れたナイフが見えた。ハムラは髪にしっかり指を絡めて頭部を固定すると、あえて恐怖を与えるでもなく、反り返った首に厚いナイフを走らせた。


 鋭い痛みだった。


 声にならない苦痛が首の裂け目から、大量の血液に混じって流れ出していく。拍動に合わせて服がなまぬるく、びしょびしょに濡れては一瞬で冷めていった。ハムラはたてつづけ胸と頭に、心臓と脳にナイフを突き入れた。それはどちらも、信じられないほどの痛みだった。あたしはひとりでに、つま先がぴんっと攣るのを感じた。筋肉が緊張と弛緩とをものすごい速度でくり返し、全身が激しく痙攣する。かかとが玄関の床にごつごつと打ちつけられ、それは南洋の音楽のような快活な響きをもっていた。


 しかし。


「わかってるよ。楽な仕事じゃない」


 ハムラはナイフを投げ捨てると同時に髪の拘束をほどき、だらしなく横たわったあたしの体に、握り拳ほどもある金槌を打ち下ろしてくる。両手足。そして頭。四肢の骨が砕かれ、頭からはべとっとした、血ではないらしいなにかがこぼれ落ちる。何度も何度も、くり返しくり返し、ハムラの息があがってもまだ。


 しかし、生きていた。


 それでもあたしは生きているのだ。


 身体を破壊されていく、気が狂うほどの痛みと恐怖に襲われながら、意識は消えなかった。いっそ死んだほうが。あたしは一瞬ごとに思った。しかし死ねなかった。地獄の門前に置き棄てられた罪人のように、精神がかたちを保てなくなるほどの苦痛をいつまでも与えられ続けた。


 どうして。


 あたしはなぜ、こんなになっても生きているのか。


「……疲れたな」


 ハムラは乱れた呼吸の合間にそうこぼし、あたしの腕を掴んだ。肘のあたり、骨の砕かれた場所を掴まないのは偶然か、あるいは情けなのだろうか。全身真っ赤になった自分の体と、引きずられたあとに残される血の川を眺めていた。その先には、ぼんやりと誰かの足が見えている。はだかの足首まで。それが奇妙なほど青白く見えるのは、あたしの目がおかしくなっているせいなのかもしれなかった。


「景さん」


 あたしは呼ぶ。


「……みどねえ」


 ハムラはあたしをベランダまで運んだようだった。割れたガラスがちりちりと耳障りな音をたて、ふっと感じる春の香りが心地良い。


「お姉さんには会わせられないんだよ」


 ハムラはそれだけつぶやくと、あたしの体を持ち上げる。ものすごい力だった。あるいはあたしが軽くなったのかも。目に見える景色はベランダの雨よけと、青い空、対岸のマンション、赤い部屋。地面が近付いてくる。みどねえを喰った地獄の穴が、すぐに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る