16 白井 景

白井 景①

 長袖をまくって見せた折戸の腕を、数え切れないほどの若芽や蔓が蹂躙している。それらを愛おしいものにするように撫でてみせ、花壇の雑草にするようにたやすく引き抜き、そのときどき折戸は変化のないやわらかな微笑を浮かべている。


「きっと、白井さんの癌もすっかり治してしまったんでしょうね」

「おまえ、どうして」


 絶句する私を試すように一瞥すると、折戸の表情は明るさを増した。投げたボールが親まで届いた子どものような、はなやかな笑顔だった。


「当たってました? ほら、もらった薬がありましたよね? シートが残ってたので、調べたんですよ。まあ可能性はいくつかあったので、わかったのはいまなんですけど」

「……そりゃよかったな」

「どうも。まあ、いまさらどうでもいいことですけどね。白井さんはもう癌でもないわけですし」

「だったらどうなんだよ」

「どうとかでもないんですよ。聞きたいだけです。また痛みは感じますか? 内臓を侵される疼痛は? 焼かれるみたいな神経の苦痛は? 吐き気とか、体内を圧迫される感覚は? もう薬を飲む必要もないんじゃないですか。白井さん、ほんとうは自分でもわかっていたんじゃないんですか」


 折戸は淡々と続けながら、封筒から取り出した写真を手もとで繰りはじめる。写真にはこの街の家々や、都心へ出るときに通過するターミナル駅、スクランブル交差点、懐古的な風情を感じさせるどこかの商店街など、さまざまな風景がおさめられている。


「一人で来るように伝えたのは、ぼくが藤野さんを疑っていたからです」


 いまやそれらの風景の中心は人間ではなく、無数の人間樹だ。


「あれが蔓延したのは、ぼくらが窩ヶ森へ行ってからですよね。始まりは藤野さんだ。拓かれた未開の地から新種のウイルスが拡散するみたいに、藤野さんがキャリアになったんじゃないでしょうか。いえ、そもそも感染症のように考えるべきなんでしょうか。

 窩ヶ森に、根井の家にあったなにかを、藤野さんは受け継いだんじゃないでしょうか。怪異でも呪いでもウイルスでも、どんな性質のものであったとしても……ぼくたち、藤野さんから目を離した時間がありましたよね。そのときになにがおこなわれたとしてもおかしくない……」


 思い出す。人間樹の庭、炎の中で波美を見失ったことを。その手の代わりに握っていた畸形の体を。あるいは屋敷に連れ込まれ、意識をなくしていた時間。それ以前にも、星川が攫われた夜や、火葬を見届けるために波美が窩ヶ森に残っていた時間。


 そうでないと言い切ることが、果たして。


「でも、もうどうでもいい。いえ、かれらには最初からどうでもよかった」


 折戸は絶えず動かしていた手を止め、一枚の写真を差し出す。写真には東京駅の風景が、そこに並び立つ人間樹の群れが写っている。


 私は写真を受け取ると、ふたたび背後に気配を感じて振り返る。白い花々の風にたなびく景色は依然変わりなく――本当に? あの木はあんな場所にあっただろうか。両腕を広げるようにして枝を伸ばしたあの人間樹は、あれほど近くに立っていた?


「思考が、流れ込んでくるんです」


 折戸は構わず続けた。

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