白井 景②
マンションを出たすぐ外に、一本の人間樹が立っている。
昨日、病院から戻ったときにその姿はなかった。遅れて出てきたか、帰ってきたのだろう。建物を見上げてみると、ほとんどのベランダに人間樹が立っていた。駐車場や、向かいの公園にもぽつぽつと、さながら街路樹のように並び立つのは、やはり日当たりのいい場所を選んでいるのだろう。
『……おはようございます。青葉小学校では、子どもあいさつ運動をおこなっています……』
駅まで続く商店街には、自動放送のスピーカー音声が流れている。それは無人の――人間樹を除いて――商店街にしずけさを響かせるだけだった。前に通ったときには騒がしいほどだった喧噪はなく、人の姿を見ることもない。少なくとも歩くことのできる人間は、一人も。
だから時おり誰かが動いたような気がするのは、人間樹の葉が波打つだけなのだ。
当然電車は動いておらず、タクシーやバス、それどころか道路には一台の車も走っていなかった。少し遠いが、歩くしかない。コンビニへ立ち寄ると、冷蔵室の棚からペットボトルを取り出し、前例に倣って無人のレジカウンターに代金を置く。空の陳列棚も多くみられたが、パンや飲み物などはじゅうぶんに残っていた。製造日をたしかめると、近いものは四日前で止まっている。
想像していたのは災害や略奪の光景だったが、それを許さないほど破滅的な速度で拡大したのだろう。
一人として生きている人間を見ることなく、事務所にたどり着いた。
駐車場に停まっているのは私の車だけだった。正面ドアは閉じており、たった一日で誰も来られなくなったのかと思うが、ふと今日が土曜だったと気付き、ばかばかしい気持ちになる。
どうせ週明けにも誰も来ない。
なにしろ事務所の周囲に、人間樹は一つもないのだ。
建物裏手、通用口から事務所に入る。ドアを閉じると、換気用の窓から射し込む光帯がうす暗く廊下を照らした。照明をつけようとマスタースイッチに指をかけ、するとそれが点灯されていることに気付く。消し忘れだろうか。その考えがすぐに却下されるのは、緑のセキュリティランプが警報のオフを知らせるからだった。
誰かがいる。
もしかして、まだ生きている人間が。
(――なにかあったらいつでもここに来てほしい)
思い出すのは羽村さんのことだ。
果たして無人のオフィス、その奥に控えた管理室には明かりがともっている。
暗く静かな空間にあって、その明かりは安堵を与えるのではなく、あわれにも触れた羽虫を焼こうと望む誘蛾灯のように感じられる。
(――ぼくは待っているから)
足音をたてないよう管理室に近付き、中の様子をうかがう。すりガラスの向こうに人の気配はなく、耳をそばだてても物音は聞こえない。
結局は、試すよりほかないのだ。
ハンドルに手をかけ、ドアを押し開けていく。
羽村さんを信じるべきかはわからない。彼は、誰にも明かさない私の秘密を知っていたのだ。最後に交わした言葉は、すべてを知るかのような超越的な物言いは。そもそも、彼が私をあの場所へ導いたことが始まりではなかったのか。一度疑ってしまえば、どんな小さなことでさえ怪しく思われてくる。
しかし、だとしても。
あるいは彼が私たちの力に。
「……羽村さん」
ドアをひらくと、管理室に彼の姿はなかった。
そこではただ、他のものよりひとまわり以上も大きな――ちょうど羽村さんくらいの――人間樹が、ささやかな光を求めるようにして、窓辺にひとり佇んでいるのだった。
ドアを閉じてオフィスを離れた。ロッカーの荷物を回収し、まっすぐに事務所を出るとわき目も振らず車に乗り込み、ハンドルに体を預けてどうにか息をととのえる。まなうらを彼の姿が、ばらばらにされた星川や、轢き潰されたメイの花、そういうものが明滅しながら駆け巡った。
ほんとうは、私にできることなんてないのではないのだろうか。
私たちは、人間はもう終わっている。
「波美」
私は呼んだ。
波美……。
二度も天使になりそこねた私に残された、きっと、最後の……。
その名前をくり返し唱えていると、段々と心は落ち着いてくる。
やはりバッテリーの切れていたスマートフォンを車載の充電プラグにつなぐと、ほどなくして起動した画面に見慣れないトークの通知が届いていた。
『折戸円』
十数件と重なった通知には、くり返された着信と身を案じる文面、そして、波美を挟まずに話したいという言葉がある。
その意図を考えるより早く、私は発信をタップしている。
『白井さん。無事だったんですね』
数コールで彼は応じた。
「ああ、まだ無事だよ。そっちも元気そうでなによりだ」
『元気かは怪しいですけど、一人ですか?』
「車で一人だよ。で?」
『詳しくは……これから会えませんか?』
「いま話せばいいだろ」
『大事なことなんです。藤野さんに関わる』
「……それで」
『会ってから話します。場所を送るので三十分後に会いましょう』
「おい、急だって」
彼は反論を聞こうともせず、電話を切ってすぐに地図を送ってくる。指定をするのは河川敷だった。波美の家からさほど遠くない、私の担当区域。
「どういうことだよ」
折り返しを諦め、ドアポケットに入っていたたばこに火をつける。指定の場所には車で十分もかからない。考える時間はあった。しかし、やはり材料が足りていないのだ。波美に関すること。波美には聞かせたくないこと。折戸は窩ヶ森について調べていた。導き出される想像に、知りたいものは一つも見つからない。
だとしても、知らないわけにはいかないだろう。
迷っている間に、彼も羽村さんのようになるかもしれないのだ。
トーク画面から波美のアカウント、発信を続けてタップする。すぐに応じた波美は、電話越しで正確にはわからないが朝よりもよほど明るい声色をしていた。
『着きました?』
「うん。そっちもなにもないか」
『はい、平気です』
「よかった。それで、折戸から連絡があった。事情はわからないけど、車でこっちに来れないかって」
『折戸くん? 無事なんですか?』
「切羽詰まってるみたいでなんとも言えない。頼まれた場所に行ってみるから、帰りが遅くなる」
『あたしも手伝いますよ?』
「いや、そっちに寄ったら回り道になる。悪いけど時間が惜しい。さっさと連れて帰るよ」
『了解です。気をつけてくださいね』
「そっちも」
電話を切り、後部座席に手を伸ばす。そこには窩ヶ森で使わなかった七十センチ長のステンレスパイプと、灯油の詰まった燃料缶が一本だけ残っている。
パイプの握り具合や燃料缶の重みをたしかめ、私は車を走らせた。
バックミラーの事務所は見る間に遠ざかり、交差点を曲がるともう二度と見えることはなかった。
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