12 白井 景
白井 景①
レースカーテンを透かしてそそぐ薄日が、波美のほほえみを照らしている。
覚めたばかりの目をまたたかせながら、私はしずかに驚きを飲み込んだ。
「おはようございます」
波美はベッドのそばで勢いをつけて立ち上がる。その姿は、窓際にできた小さな日だまりを抜け出すと不意に影を帯びて見えた。
「……起こしてくれよ」
ベッドを離れ、まだ重い体をゆっくりと伸ばす。
「ごめんなさい。きれいに寝てるから気が引けちゃって」
「怖いって」
「癖で。姉にもよく言われました。でも、ベッドには入らなかったですよ?」
「自慢かそれ。で、眠れたか」
「二、三時間くらいです。たぶん」
それは嘘かもしれないが、見たところ波美の体調はかなり回復したらしい。しっかりとひらかれた目に、昨日までの気怠い様子は見られない。
初期の段階を、過ぎたということなのだろうか。
その首もとから、また新たな蔓が一本覗いている。
「なら、立派だな」
朝のコーヒーを淹れ、ベランダに出た。キャンプチェアに腰かけてたばこに火をつけると、全身の具合をたしかめていく。調子は悪くないらしい。せいぜい足に疲労や、にぶい筋肉痛があるくらいだ。さいわいにも、蔓や葉の発芽はみられない。
少なくとも、いまのところは。
たばこを深く吸い、思いきり煙を吐き出す。
やわらかい東風に運ばれた白い煙は、高く舞ってみせたと思えばすぐ青空に溶けてしまう。
やけに気分がすっきりとしているのは、長くひとりでかかえていた秘密を、ようやく誰かに明かせたからなのかもしれなかった。
右の卵巣に悪性腫瘍を宣告されたのは、まだ二十歳の頃だった。手術や抗癌剤治療、転移、再発。あと何年は生きられるだろうと未来を告げられ、ただひとり、秘密を打ち明けた友人もみずからこの世を去った。人生を諦めるにはじゅうぶんすぎる理由だと思った。
一度やめたたばこをまた吸いはじめ、すっと胸の軽くなった瞬間を覚えている。
病院へも通わなくなり、増していく苦痛の先にたしかな安らぎが見えかけていた。
果たして波美はなにを思ったのだろうか。
どんなおもいで、眠る私を見ていたのか。
視線だけをリビングへ送ると、吊るしのランの形作るいびつな枠の中で、波美は朝食の支度を進めていた。キッチンでの所作はゆったりとして見えるが、迷う様子はない。慣れているのだ。けれどみどりも星川も、料理のたび控えめにも目をかがやかせたメイも、いまはもういなくなった。
「おまえのためだ」
ベランダから見下ろした河川敷には、豊かな葉や明るい木肌を灰色の蔓でまだらに染めた木々――人間樹たちが散り散りと立ち並んでいる。
まだ、終わってなどいない。
窩ヶ森が、この景色には続いている。
いつきはやつらの中心ではなかった。家守の木もまたその首魁ではなく、それはどこかで生き残っているはずだ。でなければ、メイがあんな残酷な終わりを迎えることもなかった。もちろん、波美の体も。
探し出し、燃やすのではなく海に沈める。ばらばらにして、あるいは粉々にして、溶解して……けして生き延びないように。
種子や胞子、細菌の感染症。
私たちが触れたものが、そんな心のないものであるはずがない。
邪悪な意志。
星川を弄び、メイを死に至らしめた邪悪なたましいが、必ずそこには存在しているはずだ。
それを見つけ出し、滅ばさなければならない。
命を落とした星川、メイのために。
そして、波美のために。
「ごはん、そろそろですよー!」
と、明るい声が聞こえてくる。
私はたばこを潰し、部屋へ戻って朝の支度を済ませた。ダイニングテーブルには、スパイスの香った湯気をたてるポトフや、半熟の黄身が溶け出す目玉焼き、両面に芸術的な焦げ目のついたトーストなどが並んでおり、窓から射し込む朝日の影が、自然にも鮮やかな色合いでそれらを彩っている。
「いただきます」
「はい、いただきます。卵、これで終わりですよ」
「出かけたついでに手に入れとかないとな」
「まだ並んでるんですかね。まあ、卵だけじゃないですけど」
「たしかにな。軽く近くのスーパー回って調べとくか」
「じゃあ……帰るときで」
「帰りに、な」
そうやって、またひとつ予定が加わる。
この日はまず、職場に置き去りにした車を回収し、波美の父親に会いに行く予定だった。昨日から何度も連絡をするのだが、彼の入所する施設から応答はない。だったら、たしかめに行くしかない。最悪は覚悟している。私にも反対する理由は多くない。この事態は、窩ヶ森から発生したのだ。やはり、彼の持つかもしれない情報が必要になるだろう。
それでも、もしなにも得られなければ、ふたたび窩ヶ森へ向かう。
いま私たちにできることは、それくらいなのだ。
私たちはあまりに知らなかった。窩ヶ森の信仰や、その到達点。調べると言っていた折戸とは数日連絡がつかない。あるいはもう、彼も犠牲になっているのかもしれない。
「ごちそうさま。次は作るからな」
「了解です。片付けもしとくんで、出ちゃってください」
「うん。戸締まりして、私が戻るまで出るなよ」
「景さんも気をつけてくださいね」
「波美」
「なんです?」
「絶対、死なせないからな」
「景さんもですよ。絶対」
「ああ」
しかし、それでも私は諦めていなかった。
不思議な感覚だ。生きることは、なかなか燃えないたばこを選んで吸い続けるような時間でしかなかったのに、いまでははっきりと生きる決意をしている。
その理由は、きっと波美だ。
やつらを滅ぼし、波美を生かす。
そのために、私は今日まで生きてきたのかもしれない。
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