藤野 波美②
隔離待合は不気味なほどのしずけさで満ちていた。
家から十分ほどの距離にある総合病院は、多くの診療科や数百床のベッド、アトリウム様に設計されたレストランも併設されている大病院だった。しかしいま、『隔離待合』と掲示されたメインホールに診察を待つらしい患者は片手で数えるほどしかおらず、そのほとんどが横になったまま黙り込んでいる。時おり聞こえるのは付き添い人のかける不安げな声や、気怠げな短い返事くらいだ。
「ええ。見ての通り患者様も多くはないのですが、それ以上にスタッフの手が足りていません。長時間お待ちいただくかもしれませんが、ご了承ください」
広い待合にたった一人の男性の看護師からあたしたちと同じ説明を受け、新たな患者が入ってくる。どうやら親子らしい。にぶい足取りでベビーカーを押していた母親は、長椅子に腰を下ろすと暗いため息を吐くのだが、すぐにやさしい声を取り戻しベビーカーに手を伸ばした。
そこからは、植物のかたまりが出てくる。
あかちゃんなのだろう。おさない体を蔓や葉に覆われたその子が生きているかはわからない。返事もなく、泣きもしないのだ。それでも母親はやさしい声をかけ続け、腕を揺すった。悲しい眺めだった。植物に全身を覆われたあかちゃんは、よく見るとあの、集落にあった木の人形に似ていた。
暗澹とした気持ちで目を閉じる。体が疲弊しきっていた。景さんの車は職場に置き去りになっており、大きな道に出てもタクシーはつかまらず、それどころか、道を走る車さえ稀だった。病院の駐車場もほとんどがからっぽで、そうした眺めはどんな説明より雄弁に事態の深刻さを伝えていた。
「寒くないか」
と、景さんが上着をかけてくれる。
横になるのに腿を貸してくれて、さらに。
「大丈夫です」
あたしはそうこたえたが、景さんの上着は温かかった。
そうして一瞬うとうとしたと思うと、肩を揺すられる。順番が来たのだという。
「寝てました?」
「少しだけな」
メインホールのデジタル時計は、最後に見てからおよそ一時間を告げていた。そんなに経っていたのかと驚くが、実際、景さんの表情は少しだけ落ち着きをみせはじめていた。
「白井さん、お久しぶりですね」
しかし、その表情がふたたび曇る。
「私じゃなくて、こっちの子です」
すかさず景さんは強く拒むようにこたえた。
診察室に座っていたのは、〈外科医長 袴田〉というネームプレートを下げた男性の医師だった。どっしりと健康的な体格をしているが、ひどく疲れているのか挙動のひとつひとつがやけににぶい。マスクの隙間から覗くまるまるとした頬は黒っぽく落ち窪んでおり、それがかえって疲弊の深さを際立てていた。
彼はまだ景さんと話したがるようだったが、首に下げた携帯電話がそれを打ち切る。彼は電話の相手に淡々と指示を出すと、気持ちを切り替えたのかすぐに診察を始めた。
固いベッドに横たわり、上着を脱ぐ。袴田さんはそこかしこの芽や蔓を間近で見たり、強い光を当てたりするが、さほど時間はかけなかった。服を着てもいいというので、さっさと椅子へ移動する。クリーニングもできていないというベッドには、むっとするような甘いにおいがあった。
「SALSの、典型的な初期症状ですね」
と、その口からは耳慣れない言葉が飛び出してくる。エスエーエルエスですか、と問い直されることにも彼は慣れているようだった。
「報道はあまり見ていませんか?」
「ええと、最近はぜんぜん……」
「わかりました。では」
彼は記録を切り上げ、背中を伸ばしてあたしを見つめた。
「この病気は大部分がメディアで報道されています。ぼくの説明も、ほぼ誰もが知っていることだと言っていいでしょう。ですが、初めて聞くのであればショッキングな内容だと思います。そこを理解いただきたいのですが、よろしいですか」
白井さんも、と彼はつけ加えた。
そうして、彼が説明するのはこういうことだった。
「〈SALS〉、〈
感染は大気中の種子や胞子、もしくは細菌、ウイルスなどを吸い込んで起きると考えられていますが、特定はされていません。
感染後は体内で新種の植物が成長し、やがて全身から出芽します。併せて嘔吐、下痢などの胃腸炎に似た症状、体のだるさなどをうったえる方もいます。
それと特筆すべきは、感染者のもっていた病気、内臓疾患や腫瘍、外傷なども快復するという点です……失礼」
と、彼はふたたびの電話に応じる。
息をつき、隣の景さんに目線をおくる。不安だったのだ。しかし景さんは、あたしよりよほど深刻な表情をうかべていた。不安というより、驚愕するようだった。それで目が合うと、さっと視線をそらす。逃げるような仕草だった。
失礼しました、と彼はあたしに向き直る。
「感染者の快復は、種子が人体を発育に適した状態にするためのはたらきだという説もありますが、詳しくはわかっていません。
体内の植物は発症後二日から六日をかけて成長していきます。治療方法は、いまのところ存在しません。目に見える植物を取り除くことはできますが、体内のすべてを除去することは不可能です。MRIなどを使って進行の確認はできますが、あまり意味はないと考えられます。
全身が植物に覆われれば、最終ステージです。感染者はぼくたちの考えるところの死を迎えることになります。このように」
と、彼は診察室のカーテンをひらいた。
蛍光灯から自然光へ、目の中の光が置き換わってようやくその景色は見えてくる。
人間樹。
それはあの、人間樹の庭の光景だった。
「ほとんど、当院に入院していた患者様です」
病院の中庭に、無数の人間樹が立ち並んでいる。枝を宙へ掲げ、あるいは横へ伸ばし、頭部は人間を擬態するようにこんもりとまるくなっている。数百はいるだろうか。かれらはさほど広くない中庭に密集し、それはさながら小さな森の眺めだった。
「みな、こうなってしまいましたよ。なかには寝たきり状態の方もいたのですが、最後には自分の足で外へ出ていきました。光を求めるのでしょう。なにしろ木なのですから。あちらに、見えますか? 七階の病室です」
彼の示すほうを見上げると、いくつかの窓から人間樹が伸びているのが見えた。窓をひらくか破るかして、最後を迎えたのだ。思い思いに広げた葉でさんさんと降る天の日を浴びる、その姿はいっそ爽やかに見えるほどだった。
「受診された方には、よほどの事情がなければ帰宅を勧めています。ご希望でしたら処置の方法を、ご自身や付き添いの方でもできる手順をお伝えしますが、どうしますか?」
彼は返事を知っていたみたいだった。
左腕を差し出すと、彼は細長いピンセットを――家庭にある小さなものでもいいのだという――取り上げる。その先端で、肌から生えた蔓のもっとも太いものをつまみ、ひと息に引き抜く。痛みはなかった。生えかけの毛を抜くときのような、それを何十回ぶんも凝縮したようなずずずっという気色の悪い感触と、それ以上の、不可解な気持ちよさがあった。数ミリはあるかという肌の穴からは血も出ず、すぐに塞がると痕も残らなかった。
「さいわい、この病気には苦痛がありません。不安が強いようでしたら、気持ちを落ち着かせる薬やよく眠れる薬をお渡ししますが、どうですか?」
その提案をことわり、感謝を告げて診察室を出ようとすると、彼が景さんを引き止めた。話があるのだという。信頼できると、景さんの教えてくれた病院だった。
いやがる景さんを椅子に座らせ、あたしはひとりで診察室を出た。気分はすぐれなかったが、体に起きていることを理解したからだろうか、自分の足で歩くことくらいはできた。
もうすぐ会える。
恐れないで。
待合のベンチで目を閉じると、姉の声が聞こえてくる。
それは死のことを言うのだろうか。
あるいは、かれらの世界。
姉はそこで。
あたしを。
さほど待たず景さんは診察室から出てくるが、院内の薬局に用事があるからとあたしを置いていく。すぐに戻るというので座って待つことにすると、袴田さんが診察室からあたしに呼びかけた。
「もし、いまの時間を一人で過ごすのがおそろしいという方がいれば、この病院を教えてあげてください。少なくともここでは、孤独ではありませんから」
それだけを言って、彼は次の患者を呼ぶ。後に来たあの親子だった。母親がベビーカーを押して、診察室へ入っていく。あかちゃんの体が、ほんの少し動いたような気がする。
ふたりは孤独ではないのだろうか。
ほどなくして戻ってきた景さんは、手にした袋について話すでもなく帰りをうながした。
ベンチを立ち上がると、まだふらつきは残っているものの、家まで歩くくらいはできそうだった。
待合の看護師にたずねてみると、会計は不要なのだという。あたしたちは彼にお礼をして、病院を後にした。もうここに来ることはないし、彼に会うこともないだろう。あたしも景さんも、おそらく彼もわかっていた。
彼は柔和な表情を崩さずに、落ち着いた口調で話し、ふくよかな体つきは誰にでも安心を与えてくれるようで、その、くたびれた服の袖口からは灰色の蔓を覗かせていた。
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