白井 景②
昨夜の雨の残したしずくが、はなやかな日射しをひらめかせながら、基準点〈13-4-4-1-000290〉のシロツメクサをしたたろうとしている。
私はなかば機械的に体を動かし、測量用ポールを地面につきたてた。基準茎には朱色のリボン。ポールは。腰の高さ。
(――指、また痛めないようにね)
羽村さんの声を思い出す。
彼は一方的に会話を終えて、管理室のドアを閉じた。追いかけようとは思わなかった。
副基準点〈13-4-4-1-000290-1〉の青いリボンが結ばれたヨモギにトータルステーションを設置すると、レンズを覗き込み、観測した座標をサーバーへアップロードした。
エラー。
端末が、つめたく三十二センチの座標ずれを知らせる。
同じ作業をくり返し、ふたたび同じエラーを確認する。副基準点〈13-4-4-1-000290-2〉は一メートル強、副基準点〈13-4-4-1-000290-3〉は十センチ、副基準点〈13-4-4-1-000290-4〉は……。
観測地点を変えても連続するのだから、ずれは操作ミスによるものではないようだったが、それらの数値に法則は見つけられず、どのようにしてずれが起きているのか私には見当もつかなかった。
いったんレンズから目を外し、ふうっと息をつく。
やけにしずかだ。
それで河川敷に、見渡す限りの景色に人の姿がないことに気付く。ランナーも家族連れも、かしましい老人たちも、晴れた日になればいつも河川敷を賑わせていたかれらの姿はどこにもなく、美しい春の野はしんと穏やかにしずまり返っている。
プロトコル。
羽村さんへ報告をしようと作業着のポケットを探り、スマートフォンを事務所に置いてきていたことを思い出す。馬鹿げている。動転しているのだ。一度しっかりと吸い込んだ空気を、肺の奥まで行き渡らせる。どう考えても報告を優先するべきだろう。往復三十分もかからないのだから。
なにが起きているのか、いま知る必要はない。
考えるのは報告を終えた後だ。
私は機材をまとめると、顔を上げる。
幸せを運ぶような東からの暖かい風が、どこかではしゃぎ回る子どもたちの声を幻聴させるが、河川敷にはその影さえもない。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
少女は切り揃えられた髪を風に揺らしている。
そのくちびるは、左のきわが茶色がかってひきつれている。
そして、少しも似ていないはずなのに、死んだ友人のおもかげを私に感覚させた。
「メイ」
その名前を呼び、一歩踏み出す。どうしてここを知っていたのか。いつの間にやってきたのか。どうしてひとりで来てしまったのか。波美は一緒ではないのか、どうして。
どうして、そんなに怯えているのか。
「メイ。こんなところで……」
恐怖に手を差し伸べるように歩を進めるが、距離が縮まらない。メイは私の歩みに合わせ、ゆっくりと後ずさりをしているようだった。
私は天使にならなければならないというのに。
「怖がらなくていい……」
メイの顔はみるみる青ざめてゆき、表情は絶望をするようだった。首を激しく横に振り、全身を小刻みにふるわせながら、やがて涙を流しはじめた。メイの涙は美しかった。それを拭うことができたとき、私はほんとうに――今度こそ――彼女の天使になれるのかもしれなかった。
「メイ。大丈夫だから」
私は言った。
すると、メイはこうこたえた。
「おまえのためだ」
と。
そして私に背中を向け、飛ぶように駆け出した。
「メイ!」
私はメイを追いかけた。信じられない速さだった。メイは子どもではありえない速さで土手を駆け上がり、ランニングコースを駆け抜けながら、時おりこちらを振り向いては叫び声をあげるのだった。
「助けて!」
メイは救いを乞い続けた。
「助けて! 助けて! 助けて……」
しかし脚を止めることはない。私が全力で走ろうと、その距離はなかなか縮まらない。息が続かない。肺が焼けるように熱い。
ランニングコースはやがてサクラの並木道に差しかかり、足もとは散ってしまった花びらで真っ赤になる。ぐらぐらと揺れる視界のなか、メイの背中は血の川を下っていくように見えた。
ごうごうと風を切る耳に、緊急車両らしいサイレンが聞こえてくる。
きっと、それほど遠くない場所から。
「助けて……」
並木道を過ぎると、ランニングコースは橋の袂で車道と交差する。広い道だ。普段は途切れなく車両が行き来しているが、この日は一、二台ががらがらの橋を越えていくばかりだった。
まっすぐに行けば、あるいは橋側へ折れてくれれば見通しの効く道になっているが、住宅街の小径へ入られてしまうと追いかけるのはむずかしい。
段々と、距離は近付きつつあった。
メイの体は限界を迎えたらしく、脚がもつれいまにも転んでしまいそうだ。高い喘鳴音も聞こえてくる。それは悲鳴のようでさえある。私はその体を抱きしめてあげたかった。もう怯えることはなく、逃げる必要もないのだと伝え、私たちの家へ連れて帰りたかった。
メイはもう、すぐそこにいる。
救い出せる。
私は
ついにその体を抱きとめようと腕を伸ばしたとき、視界が横へ吹き飛んだ。全身がアスファルトに打ちつけられ、息が詰まる。とっさに体が反応したのか、さいわいにも指に痛みを感じることはなかった。
「……離せ」
メイの声が遠ざかっていく。
私を取り押さえたスーツ姿の男はけして力を弱めず、さらに近付いてきたランニングウェアの女に、誘拐だとか虐待だとか、泣いて逃げる子どもを追い回していたのだとか大声でうったえていた。
「離せ! 離せよ! メイが……」
私は叫んだ。乾ききった喉が裂けるようだった。めちゃめちゃに暴れるが男の拘束は緩まず、女は判断に迷うのか私たちの争いを黙って見つめている、そのあいだにもメイの姿はどんどん遠くなっていく。
メイはほとんど足を引きずってサクラの並木を抜けると、突然立ち止まった。ランニングコースの先は、交差点になっていた。メイはこちらを振り向いて、おおきな恐怖に顔を歪めながら涙を流していた。「たすけ」
その言葉を終わりまで言えないのは、交差点に突っ込んだ救急車がメイに衝突するからだった。
救急車は衝突のショックで向きを変え、ガードレールへ突っ込んで動きを止める。
そうして、車体の下からふたたび姿をあらわすと、メイの体はもう動かなかった。
(――死にたくなるようなことや、死んだほうがましだと思うこと)
ふっと拘束が弱まると、私は駆け出した。絶叫し、メイの名前をくり返した。メイ。私は天使になりたかった。今度こそ、あなたのすべてを救済する偉大な天使に。
果たしてメイは道路に散乱している。
メイは下半身こそ無傷だったが、腰は真ん中から背中側に折れ曲がっており、その皮膚を破って体内から突き出すのは、血をしたたらせる一本の幹だった。厚いタイヤに轢かれたせいか半分の厚みになった腕からは折れた細枝や蔓がだらっと伸び、轢き潰されて破裂した頭部――さいわいにもこちらを向いていない――からは大量の小ぶりな白い花が飛び散って、満開の時節を終えたかのように、数メートルつづく血の川を流れていた。
振り向くと、私を取り押さえていた男はさきほどまでの弾圧的な態度が嘘のように、つめたくこちらを眺めていた。遅れて駆けつけた女もまた同様に、地上への興味をすっかりなくしたようにサクラの青い枝々をぼんやりと見上げていた。
そしてかれらの袖口から覗く体は、奇妙にもまっ白な色をしていた。
まるで、やつらのような。
「メイ」
私は、間違えたのかもしれなかった。
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