10 白井 景

白井 景①

 水溜まりを踏みつけ、すこしだけ足が濡れる。


 私はいったん車へ戻り、窓拭き用のタオルで足を拭う。ついてない。この日は一時間早く家を出ると、車通りのほとんどない早朝の国道を走り、自宅へ寄ってから事務所へ向かった。いつもより三十分早く到着しただけなのに職員用の駐車場はがら空きで、初めて入る奥まった場所のアスファルトが窪んでいるのに、私は気付かなかった。


 雨が上がり、空も明るい。

 濡れた服はすぐに乾くし、水溜まりも帰る頃には消えているだろう。


『まだぼけっとしてます』

『でも』

『ましになった』


 五分前、波美からのトークが届いていた。


 波美は朝から調子がすぐれなかった。熱や吐き気などはないようだったが倦怠感が強いらしく、横になったままぼんやりと過ごしていた。

 そもそも今週はほとんど眠れていなかったし、この数日は昼間でも夢を見ているような時間が多かった。


 あれだけのことがあったのだから、当然。


 無人の更衣室で返信を打っていると、不意にスマートフォンの電源が落ちる。再起動をかけても、くり返し。どうやらバッテリーが切れてしまったらしい。


 しばらく家にいたので意識をしていなかったが、充電をしたつもりでコードが抜けていたのだろう。さいわい仕事に必要なものでもないので、電源を落としたままロッカーへ放り込んだ。


 そうして作業着に着替えていると、更衣室に同僚が入ってくる。ひととおり挨拶と欠勤のお詫びを伝えるのだが、彼女もまたぼんやりと反応が薄かった。ひどく疲れているようにも見える。たずねてみると、欠勤が多く残った職員の負担が増えているのだそうだった。


「ぜんぶ病気のせいでしょ」彼女は言った。「いっそ私もかかっちゃったほうが楽かも」

 口ぶりは軽いが、表情には暗い恐れが覗いている。


「病気ですか」

 とくり返すと、彼女はもうその話を続けたくないというふうに早足で更衣室を出た。


 病気。


 果たして、朝礼を控えたオフィスはしずまり返っている。いつも朝から家族の愚痴が絶えない赤佐さんも、愉快げにしながら彼女の話を聞き流している内藤さんもいなかった。大勢の姿がなく、残った人を数えるほうが遥かに早い。あるいはいつもの私のように直前に駆け込んでくるのかとも思うが、結局、片手で足りるほどの人数を前に羽村さんが挨拶を始めた。


「……分担は昨日と同じで、手の届かない場所は明日に回してくれていいので、無理のない範囲で協力をお願いします」


 いつも通り短時間の朝礼が終わり、全員がオフィスを出ていくなかで羽村さんが私を呼ぶ。


「長く休んですみません」

「気にしないで。見た通りの状況だけど、午前だけでいいからね」

「大丈夫なんですか?」

「いいよべつに、怪我明けなんだから無理しないで」

「わかりました。今週ずっとこんなんですか?」

「ニュース見てない?」

「正直」

「週明けからだよ。来週には誰もいないかもね」

「まじですか」

「半分。白井さんも気をつけて」


 羽村さんはいかにも気軽い調子だった。


 ほんとうのところ、私はもう仕事がどうでもよくなっていた。波美の体調不良は。なんの病気かは知らないが、これほど流行しているのなら安心はできない。それにメイは。あの小さな集落を長く出ていなかったのだ。普通の子どもより遥かに免疫も弱いかもしれない。


「まあ、人と会う機会も少ないんで」


 私はこたえる。


「それもだけど」


 会話を切り上げる気配を察したのか、羽村さんは続けた。


「どっちかっていうと、持病のほう。病院は早く行っておいたほうがいいよ。つけ込まれるから」


 彼らしい、淡々とした口調だ。

 しかし、私は自分の病気を彼に、誰にも明かしていなかった。


「それは……」


 どうして羽村さんが知っているのか。

 知っていて、なぜいまそれを口にするのか。


「そうだね。疑問をもつのも当然だと思う」


 彼は柔和なほほえみを崩さなかった。

 平生と変わりのないその表情は、なぜかこのとき、人間を離れたもののように感じられた。


「でも、そんなことを気にかけてる状況じゃないんだ。これから先、信じられないことばかりが起きると思う。死にたくなるようなことや、死んだほうがましだと思うことがたくさん。だから、なにかあったらいつでもここに来てほしい。ぼくは待っているから」

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