9 藤野 波美

藤野 波美①

 河川敷を隔てたマンションに、赤い部屋があった。


 赤い部屋には昼夜の区別なく赤色のライトがともっており、それは高校にあった暗室を思い出させた。部屋のまんなかには丸テーブルと二脚の椅子が並べてあり、すぐにでも誰かが戻ってきそうにも見えるが、ここ数日変化はない。床に何体か転がったウサギのぬいぐるみも、三本脚のテーブルに咲いたスズランも、そう。


「……なみ」


 霧がかった雨が、しずかにその景色を滲ませ、遠くからゆっくりと夜が近付いてきている。


「おい、波美」


 あたしは振り返り、景さんの姿をたしかめて息をついた。

 景さんはベランダに出てくると、キャンプチェアに腰をおろした。グレーのスウェット、髪を適当にくくっている。そういういかにも休日的な姿でたばこに火をつけた。なめらかで、無駄のない所作だった。


「メイちゃんだけ寝ちゃいました?」

「ああ。私も寝るかと思ったけど目が冴えた」

「横になってたら眠れたかもですよ」

「この時間やらかしたら明日やばいんだって」

「社会、戻れなそうです?」

「戻れないよなあ……」


 と、しみじみたばこを持ち上げる景さんの左小指は、白いシーネで固定されている。完全脱臼および骨折。強い力で折り曲げられた指は、おそらく完全には元に戻らないということだった。


「まあぼちぼちやってくよ」


 白い煙が、やわらかい声そのもののように雨の中を昇っていく。


 窩ヶ森での夜から、一週間が過ぎようとしていた。


 あたしたちは家にたどり着くと、一度きりの外出を除いては一歩も家を出なかった。景さんは怪我の痛みや発熱に苦しみ、あたしもほとんど眠れない日々を過ごし、それに、ことばの話せないメイちゃんとの意思疎通は簡単ではなく、外へ出ようという余裕がなかったのだ。


 とじこもって最初のうちこそニュースやSNSを見ることもあったが、あの大きな火災は報じられず、警察がマンションを訪れることもなかった。星川の遺体は? いつきさんや、窩ヶ森で生きていたはずのかれらは? 折戸くんが言うには、どこもニュースにはしていないのだそうだ。彼は窩ヶ森やその信仰について調べると言っていたが、連絡がないということは成果はまだ出ていないのだろう。


「おまえも、ぼちぼちいいかんじにやってけばいいよ」


 景さんは言う。

 あたしには、その意味がよくわかる。


 熱が引き、痛みがコントロールできる程度におさまると、景さんは料理を始めた。ここ何年かほとんどしていなかったというが、数日をかけて体の動かし方を思い出したらしく、今日の朝にはお味噌汁や焼き鮭、白菜の浅漬けなどを手際よく用意してくれた。


 明日には仕事にも復帰する。ひとまず午前だけ、通常の業務が無理そうならいったんは内勤に切り替えつつ、早めのフルタイム勤務を目標にする。


 つまり、そういうことなのだ。


 テーブル越しに手を伸ばし、景さんの後ろ髪にふれてみる。適当にくくったその髪には、みどねえのものとも星川のものとも違う、少しごわごわした感触がある。


「やっぱ、においも変わりましたよね」

「なんだよそれ、こわ」

「え、や、違くて。シャンプーとかうちの使ってるから、そうなるよなあって」

「違わねえだろ」

「や、そうじゃなくて……そうかもですけど、怖くはなくないですか?」

「あー、たしかに。怖くはないかもな」

「やった」


 やった、じゃないんだよ。景さんがちいさく笑い、あたしも思わず笑ったというふうに目を閉じてみる。


 アメリカンスピリット・ゴールド。

 ボディソープとか、ねまき。


 このまま目をひらかなければ、ずっと夢は続くだろうか。


 じじじっ、と景さんがたばこを灰皿で潰す音が聞こえる。目をひらくと、煙は段々暗くなる空に溶けてゆき、みどねえも、星川ももう隣にいない。いずれは星川について家族に伝えなければならないし、するとあたし自身のおこないを黙っているのもむずかしいだろう。警察はどう受け止めるだろうか。大学にはまた通えるだろうか。メイちゃんも、やっぱり景さんとは引き離されてしまうかもしれない。


 明日には、次の瞬間には。


 あたしはほんとうに、ひとりきりになってしまうのかもしれない。


「……なみ」


 それでも。


「波美。聞いてるか」


 あたしは、たしかに幸せだった。


「はい、はい。聞こえてますけど?」

「嘘つけ。ぼけてないで、ちゃんと飯食って寝るぞ」


 景さんが、ゆっくりと立ち上がる。


「体は大事にな」


 と、肩をたたいてくる。

 そんな景さんと、メイちゃんと過ごしたのは、夜の荒野にたき火を熾すような日々だったのだ。


「景さんに言われたくないですけど」


 あたしはそうこたえ、明るい部屋へ戻っていくその背中を追いかけた。

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