白井 景③

「……折戸! 聞こえるか」


 きびすを返し、ふたたび人間樹の園をかき分ける。


「いけますよ、間に合います」

「悪い。すぐ戻れなくなった。近くまで車を運んどいてくれ」


 さらに密度を増した人間樹たちの間を、肩をねじ込ませるようにして進んでいく。木肌が熱を帯びていた。広がり続ける炎が、煙が視界を狭めていた。


「なにかありましたか」

「波美が消えた。連れ戻すまで待ってほしい」

「……わかりました。藤野さんをお願いします。メイさんは無事なので安心してください」

「ありがとう、折戸くん。こっちは足もとが悪い。気をつけて」


 波美はいつ消えただろうか。はっきりと覚えているのは燃料缶を投げつける姿だ。火をつけたときは? 目の端にとらえていたはずだった。


(――これでいいんですよね)


 だとしたら、あの声は。


「波美! どこだ、波美!」


 人間樹たちをくぐり抜け、大声で呼んだ。返事はない。家守の木を噴き上がる劫火は、地獄の炎のように激しく轟いている。


 その傘の下に、波美が倒れていた。


「おい、波美! 聞こえるか」

 体をかかえ起こすと、波美はゆっくりと目をひらく。


「……景さん。あたし、いきなり」

「うん。痛むところはないか」

「いきなり掴まれて、振りほどいたのは覚えてるんです……それで……」


 そうして、そばに横たわるいつきに気付いたようだった。


「みどねえ!」波美は呼んだ。「みどねえ! うそ、うそ!」


 波美は混乱しているようだった。

 しかし、目を閉じて横たわったいつきは、棺の中のみどりと同じ顔をうかべていた。


「息してない。あたし、みどねえを……」

「波美、こっちを見ろ」


 私は波美の肩を掴む。


「みどりじゃない。いいか、思い出せ。みどりの死体を確認した。覚えてるな?」

「でも、脅迫とか……されて……」

「考えろ。脅されても操られても別人にはならない。みどりは、おまえの知ってるみどりはあんなことができるやつだったか?」

「違います。みどねえは、そんな」


 波美の心が、こちらへ戻ってくる。


「みどりは自分で死を選んだ。波美、辛いと思うよ。でも、あとで考えよう。ゆっくりでいい、私も付き合う。だからいまはそいつを見るんだ。みどりじゃない、別の人間だ。そうだろ」


 波美はいつきを見やり、力強くうなずく。


「こわかったよな。もう大丈夫だ」


 引き寄せた私の腕を、波美は受け入れる。

 その体は、吐く息はちいさくふるえている。


「景さん。景さん……」


 私は波美を抱きしめながら、いつきを見下ろした。仰向けに横たわったいつきは炎の放射光に照らされ、ただ眠るかのように穏やかな表情を浮かべている。

 それはやはり、死の顔なのだった。


「動けるか」


 波美はゆっくりと立ち上がる。最初はどこか心もとなくも、地面を踏みしめるうち体は歩き方を思い出していくようだった。


「少し待ってろ。目を閉じて、こっちを見なくていい」


 私は燃料缶を拾い上げる。さいわい一つは火にまかれておらず、中身もまだ充分に残っていた。


「待ってください、それ」

「見なくていいんだ」


 できれば話したくはなかった。


「でも」

「死んでるかは確認する」

「……どうするんですか」

「燃やすんだ。なにを信じるのかは知らないが、こいつは本当になにかを受け継いだんだろ。なら終わらせてやる。確実に。もうなにも起こせないように」

「そんなのって! ……そんな」

「だからおまえは見なくていい。いつきのしたことを思い出せ。あとは目を閉じて、後ろを向いててくれ」


 まだ反論を考えるように波美は口もとをためらわせるが、最後には目をそらした。


「合図するまでこっちを見るなよ。いいな」

 波美は小さく、「はい」とささやいた。


 私はいつきのそばにかがみ込み、その体をあらためる。くちびるに耳を近付け、心臓のあたりに手でふれると、その死が確かだとわかった。首が異常な向きに曲がっている。振りほどかれた勢いだったのかもしれないが、事実は永久にわからない。


 いつきの背中のジッパーを下ろす。

 思い出すのは、波美の言葉だった。


(――痣があったんです。首と背中の間くらいに、二本並んだ)


 葬儀の前夜、波美はその痣でみどりの死体を確認していた。おそらく、一目で見てわかるようなものなのだろう。

 つまり、痣がないのであれば、波美は救われるのだ。


 ワンピースを肩からずり下げる。


 首と背中の間。


 隆起する脊椎の稜線上に、それはあった。


 覚えず振り返ると、波美は不安げにてのひらを重ねたまま、約束を守ってしずかに佇んでいる。


 もう一度死体をたしかめると、痣はやはりそこにあった。二本並んだみみず腫れのように、肌の色が変わっている。目立ちはしないが、見誤りようがない。


「……波美」


 さいわいにも、私の声は炎に呑まれ波美へ届かないようだった。


 燃料をばらまき、死体に火をつける。燃え上がった炎は家守の炎と混じり合い、夜空を昇っていく。それは樹木に呑まれた“いつき”のたましいが、闇のなかへ消えていくようだった。


 私たちは人間樹の園をあとにした。

 波美は振り向かず、足を止めず、なにかをたずねることもしなかった。


 車は後部座席に私たちを乗せてすぐに走り出す。

 人間樹が、根井の家が段々と遠ざかる。


 窩ヶ森を染める巨大な炎が、黒煙の柱が、そのなかに消えた生命のすべてがまっ暗な天へ溶けていく。


 それは、崩壊の眺めだった。


 やがて車が山道へ差しかかると、厚い樹冠が空を塞いだ。


「白井さん。ベルトしてもらえますか」運転席の折戸が言う。「捕まったら、ちょっと言い訳できないので」


 私は適当に返事をして助手席を覗いた。そこではメイが身を固くさせ、ヘッドライトの照らす山道を見つめている。ここを出たこともないのだろう。その髪を指で梳かした。メイはこちらを見なかったが、指を通すと髪はなめらかになっていった。


「運転、悪いね」


 私は言う。ひとまずは休みたかった。シートベルトを締めて窓をひらくと、気持ちのいい夜風が入り込む。

 視線を感じ、波美と目を合わせた。ゆっくりと手を伸ばし、汗に濡れた髪を耳にかけると、波美はすこしくすぐったそうに目を細めた。


「思い出したことがあって」波美は話しはじめる。「みどねえだったら痣があったはずなんです。あたし、混乱してて、たしかめてたらよかったって」


「なかったよ」


 土ぼこりや煤、星川の血で汚れた波美の頬を指で拭う。


「燃やす前に思い出したんだ。あいつの体に痣はなかった」


 しかしどれだけ拭おうと、私の指にべっとりついた汚れのために、その頬がきれいになることはなかった。


「そうですか」


 車は山道を下っていく。


「ありがとうございます」


 波美はほほえみをうかべ、しずかに言った。


 やがて樹冠が薄くなり、かすかな月の光が落ちてくる。

 もうすぐに森を抜ける。


 そうしたら、きっと海が見える。

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