白井 景②
屋敷を燃え広がった炎は、離れにつながる廊下を渡ろうとしていた。屋根を大きく越え、夜空へ真っ赤な光をのぼらせる、それは遠くないうちに外の人間を呼ぶのかもしれない。
そうなったとき、誰が私たちを信じるだろう。
「急ぐぞ」
波美は私と歩調を揃える。合わせて十キロの燃料缶も、いまは苦にならないようだった。
果たして裏庭では、人間樹の園が広がっている。
炎光を浴び、人間樹は一本一本が暗い影をあらわにしていた。
そしてその中心に、家守の木がそびえている。
聖なる、あるいは邪悪なるもののように、静謐に。
「これ、増えてませんか」
波美が言う。
「枝が伸びただけだ」
私はみずからに言い聞かせ、明らかに数を増していた人間樹たちの園へ踏み込んでいく。
そこはつめたい空気で満ちている。水気を含んだ地面はやわらかく、枝葉が肌にふれると木々の影に隠れた誰かが指が撫でるような、ぞっとする感覚が起きた。
視線すら感じられるのは、気のせいではないだろう。
人間樹の葉は炎光の反射にひらめき、あるいはうろ穴にぼうっと闇をたたえている。それらは数多の目であり、耳でありながら、湿った風の中をささやき交わすくちびるでもあった。
私たちは、かれらに取り囲まれている。
家守までたどり着くころ、その感覚は疑いえないほど確かなものとなっていた。
「いいんだな」
私は波美にたずね、燃料缶の蓋をひらく。
みどりの灰がどこに撒かれたのか、私にはわからない。
「いいんです。もう、いい」
波美の視線をどれほど追おうと、それは。
「でも、あたしがやります。景さんは休んでてください」
「やるなら時間が惜しい。さっさと終わらせるぞ」
「でも指が……」
「薬が効いてきた。もう楽になったよ」
嘘ではなかった。
少なくとも、灯油をばら撒けるくらいには。
それは折戸も同じらしく、イヤホンからは痛みを堪えるらしい声が聞こえてくる。
波美はまだ納得できない様子だったが、黙って灯油を撒きはじめた。それは根元から幹へ、すべてを跡形もなく消滅させるべく捧げられる祈りの所作のようだった。
神や仏に、それは届くだろうか。
あるいは他のなにかに。
星川の、うしなわれた心に。
友人に。
「景さん?」
覗き込んだ波美の不安げな表情で、自分がぼうっと立っていたのだと気付く。骨折や鎮痛剤のせいかもしれないし、そういえば顔も殴られていた。熱をもっている感覚はなかったが、さわってみると頬や目もとが腫れているのがわかった。
それよりも。
そうして黙っていると、聞こえてくる。
「やっぱり代わります! あたしにください」
「待て」
「待てじゃないですよ、早く……」
「いいから静かに」
まだなにか言いたげに口をつぐんだ波美も、その音に気付いたらしく耳を澄ませた。
なにかが割れる音だった。
固いものが、ゆっくりと。
あるいは木が、折れるような……。
「波美」
そして波美もまた、それを見たのだ。
「急げ」
私が言うより早く、波美は燃料缶を捨てて家守を離れる。
まだ中身の残った燃料缶が、人間樹を跳ね返って地面を転がった。
かれらはなにもなかったかのように、こちらを見つめている。
人間樹が。
“全員”が私たちを見ていた。
古い皮を破って生物が生まれ直すように、その幹を内から引き裂いて、白い畸形のやつらが姿をあらわそうとしていた。
(――新しい命を授けようとしたの。家守に願ってね)
いつきはそう言った。
根や蔓が、星川の体を結ぼうとしていた。
つまり、これが命だというのか。
家守に命を授けられたものは人間樹として、やつらとして生まれ直す。
こんな穢れた存在を、守ろうとしていたのだ。
こんな、生命の冒涜を……。
裂けた幹から垂れさがった細枝が――友人の首とドアノブを繋いだすずらんテープの断端のように――ゆらゆらと揺れていた。
首すじがぞっと冷たく、それなのに頭は熱くなり、全身の痛みが消えるとともに体が動き出すのを感じた。強烈な怒りだった。ライターで足もとに火をつける。火は地面を這って家守へとりつくと、またたく間にその全身を覆った。
燃え上がる炎は、私たちの怒りだった。
あるいは、家守を覆っていく炎は、これまで贄となった人々すべての怒りなのだった。
「クソが!」私は叫んでいた。「クソどもが! 燃えちまえ! 消えろ、もうなにもできねえぞ! 地獄で後悔しろよ、クソやろうども……」
焼かれていく家守へ、そして人間樹へ叫んだ。人間樹たちは、白い蛹を内包したまま息絶えようとしていた。あるものは白煙を吐き出し、あるものは葉を撒き散らし、内から火を噴くものもいた。ある種の植物や菌類のように、その命はつながっていたのだ。与えられた生命は、家守とともにその最期を迎えるのだった。
「波美、行くぞ」
波美の手をとり、私は密集する人間樹をかき分けて走った。やつらはまだわずかに身をうねらせているものもいたが、死から逃げることはできないようだった。
「折戸くん、いけそうか」
「もうすぐです」
「一分で戻る。なんとかしてくれ」
「わかりました、やりますよ」
波美が手を、力強く握り返す。
「景さん。やりましたよね、これでいいんですよね」
私は大声でこたえる。
「終わったよ。もう大丈夫だ」
森の切れ間が見えてくる。
「帰ろう」
そうして、私たちは人間樹の園を出た。
燃える炎が無人の草叢を赤く染めていた。山を降りてきたそよ風に頬をくすぐられ、目のまわりに張りついた髪をととのえると、長い息をついて私は振り返る。
「波美」
そこに波美の姿はない。
まっ白な体。
胎児のような未熟の顔。
そのあたたかい手を握り、私はここまで駆けてきたのだった。
絶叫し、畸形の体を思いきり蹴り飛ばす。
抵抗せず、そいつは炎に消えた。声もあげなかった。
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