8 白井 景

白井 景①

「わかり合わなければならない」


 へし折られた指が叫んでいる。


「命の底深くから互いを受け入れましょう」


 この女は狂っている。


 なにか、人智を外れた……。


 畸形の白い人間たちが運んできた棺からは、強い死の臭いが噴き出している。


「……やめろ」

 私は続けた。一言ごと、指の骨を金槌で打たれるような苦痛が響く。


 しかし棺はひらかれる。

 惨殺された星川は弄ばれ、穢され、永遠の苦痛に置き去りにされたようだった。


 その肉を口にした私も……あるいは。


「わかってもらえた? わたしたちはあなたを憎んでいるんだよ……」


 いつきが朗々と語りかける、その最中になにかが脚にふれ、私は目線を下へ向ける。


 そこにメイがいた。

 メイはテーブルの下に姿を隠しながら、私の拘束を解きはじめる。


「新しい命を授けようとしたの……」


 固い結び目と苦闘しながら、なんとか手の縄をほどいた。


「脚を頼む、早く」


 私は自由になった手を車椅子に押しつける。気付かれてはならない。スリーカウントで折れた小指を元の向きへ戻し、光の明滅するような激痛を喉の黒い血でどうにか飲み下し、どうにか悲鳴だけは避けられた。


「これ以上、苦しめないであげましょう」


 呆然と、操られでもするように、波美は点火しないライターを取り落とす。

 それは心が、負荷に耐えられないのかもしれない。


「黙ってろ! 波美!」私は叫んだ。「なにも聞くな! 黙ってていい、なんとかしてやる……」


 指を折り曲げ、いつきが挑発する。


「何本でも折れよ」右脚がまだ自由になっていない。「どうせ殺すんだろ、来いよ! お前も殺してやる」


 自由になるのは両手と、左足。近付いてくれば引きずり倒す。あるいは胸を突き刺すこともこの指の痛みが――それと食卓のテーブルナイフが――許してくれるかもしれない。


 しかしいつきは私を無視し、折戸にナイフをつきつける。


「聞くな! 波美、聞かなくていい、騙されるな!」


 波美は一瞬だけ私を見たが、声を聞かなかった。悲壮な表情をうかべたままライターの石を擦り、何度もそうするが、ついに火は起きなかった。


 それをいつきがあざ笑う。


 私は激しい怒りに立ち上がりかけるが、まだ右足首の縄がほどけていない。メイの指には血が滲んでおり、無理をしているのは明らかだった。


「おまえが愛する人間の死を許容したことに変わりはないでしょう。殺してもいいと思った……」


「違う!」

 私は叫んだ。


 いつきが仕組んだことだった。波美は誘導された。意志を奪われていたのだ。

 しかしもう、私の声は届かないようだった。


「……波美。おまえは呪われている」


 蝋燭をテーブルにおりる。

 青い火が走り、波美と星川の絶叫が折り重なる。


「ひと殺し」


 足がふっと軽くなり、見れば縄がほどけていた。


 天井を嘗めるほどの巨大な炎に反射で身を引き、椅子ごと壁にぶつかると息が詰まるほどの痛みが走る。


「波美!」


 私は呼んだ。燃え上がる炎は、星川の心のように波美を求めていた。体ごと波美へ飛び込むと車椅子が転倒し、頭や腰をしたたかに打つが、さいわいにも指を痛めることだけは避けられた。視界の隅ではいつきの背中が扉の奥へ消えていった。


 熱風が押し寄せる。星川の体が崩れ落ちるのだ。黒い火炎を昇らせながら、脚、腕、そして頭が横倒れになり、そのうちいくつかが床を転がった。絶叫はいつか止んでいた。星川とともに波美の絶叫も消え、炎が部屋の空気を喰う轟音だけが響いていた。


「メイ! 折戸を、そっちの男を頼む」


 メイはうなずき、折戸の縄をほどはじめる。


「波美。わかるか」


 返事はない。呆然とひらかれた波美の目は私を追っている。少なくとも、生きていることだけがたしかだ。


 またたく間に燃え広がった炎が奥側の扉を塞いでいる。波美の肩を支えながら、もうひとつの扉から廊下を進むと玄関が見えてきた。


 倒れ込むように飛び出した体を、芝生の庭が受け止める。


 外はもう、夜になっていた。


 息をととのえながら周囲を見回すと、庭に人影はない。

 そこは燃える炎でほの暗く、かすかに見える立ち木の光暗を、いまにもやつらが飛び出してくるような不安で満ちている。


 車は乗り捨てた場所に放置されており、エンジンも無事らしく力強い音をたてた。しかし車体の下からは灰色の蔓が覗いており、見てみると、地面から伸びた無数の蔓がフレームに巻きついているようだった。


「動かないわけですね」折戸が言う。「どういう力なんだろう……」

「ほどけると思うか?」

「やってみないと。でも、これが使えるかもしれません」


 そう言って、折戸はテーブルナイフをひらめかせる。蔓を剥がすくらいはできそうだったが、先に痛みをどうにかしなければならないだろう。


「聞こえるか」


 波美はおし黙ったまま、じっと炎を見つめている。


 鞄から鎮痛剤を取り出し、二錠分シートをちぎる。「折戸くん。これ、口で溶かしてから飲みな」内出血を起こすらしい彼の小指は黒っぽく変色し、とてもすぐには動かせそうにない。「骨折に効くからは知らないけど、強いからたぶん大丈夫。吐き気とか、眠気に気をつけて」


「助かります。ハンカチ持ってるので、固定しましょうか」

「自分のでやるよ。でも手伝ってくれると助かる」

「もちろんです。ところで、その子は……ここの住人ですか」


 彼は痛みに顔をしかめながらたずねた。

 やはり怯えるのだろう、黙っていたメイが身をこわばらせる。


「名前は、メイ。集落の子どもだけど、協力してくれる。それにここを出たい。合ってるか?」


 メイはおずおずと、しかしたしかにうなずく。背後でガラスの割れる音が響くと、また大きくなった炎にまつげがひらめき、その瞳をかがやかせた。


「よし。このまま逃げよう。いまなら邪魔も入らない」


 そのかがやきを曇らせるあらゆるものを打ち払う、偉大な天使でなければならない。


 メイを見つめていると、そういうおもいが輪郭をもった。


「了解です。じゃあ車を……」

「待ってください」


 その声に、私たちは視線を重ねる。


「このまま帰れない」


 声をあげるなり波美はバックドアを開く。荷室には毛布がかけてある。ホームセンターやガソリンスタンドで、行きがけに用意したものだった。


「ぜんぶ燃やさないと」


 波美は毛布を剥がし、燃料缶を片端から取り出していく。


「あいつらを、滅ぼさないと」


 灯油のたっぷり入った四本の、赤い。


「おまえ……」


 それは波美の提案だった。

 星川が攫われた。錯乱した波美から連絡が入ったのは、昨夜遅くのことだった。駆けつけると波美はすぐに追うと言って聞かず、時間をかけて落ち着いてからも一睡もしなかった。恋人が連れ去らされたのだ。朝が来ても黙り込んだまま、思い詰めた表情を浮かべていた。


 その様子はグループホームを出るとさらに深まり、父親となにを話したのか、そもそも話すことができたのかも波美は言わなかった。それでホームセンターで身を守る道具を選んでいた私たちを置き去りに燃料缶をかかえてきて、ガソリンスタンドでは灯油を買い込んだ。決めていたのだろう。あるいは父親が、伝えたのかもしれない。


「聞きましたよね。家守だった。あの木が元凶なんです。あれがぜんぶを引き起こした。星川を、みどねえを……景さん」


 それでもまだ、心の底では信じようとしていたのだ。


(――もう一度いつきさんと話したい)


 そして裏切られた。

 私は、どうして波美を拒めるだろう。


「波美……それは」

「白井さん。こっちはぼくがやります。藤野さんと行ってください。星川さんのこと、ぼくも許したくありません」


 時間がない。

 迷っているあいだにも、やつらが襲ってくるかもしれないのだ。


「……わかった。波美。片手が死んでるから灯油は一本置いてくぞ。離れるなよ」私は続けた。「折戸くん。イヤホンで通話をつないでてくれ。車は動かせるんだよな。移動するようなら指示を頼む。メイ。なにがあっても外に出たらだめだ。いいな」


 そうして、私は波美とともに屋敷の裏へ向かった。

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