藤野 波美⑥
そのとき火花は起きなかった。
ライターを擦った指先が、ひどくふるえているせいだった。
悲鳴をあげてライターを取り落とす。それをゆっくり拾いあげ、「大丈夫」といつきさんは続けた。
「波美ちゃんならできる。あの子を解放してあげよう」
「いやです」あたしは首を振る。「助けてください。なんでもします。お願いだから、助けてあげて……」
「黙ってろ、波美!」景さんが叫ぶ。「なにも聞くな! 黙ってていい、なんとかしてやる」
いつきさんは呆れたふうに首を振り、てのひらを広げると、薬指を手の甲側へぎりぎり曲げてみせる。
「何本でも折れよ」景さんは言う。「どうせ殺すんだろ、来いよ! お前も殺してやる」
「元気がいいのはけっこうだけど、あなたはちょっと面倒ね」いつきさんは、テーブルナイフを折戸くんの首につきつけた。「波美ちゃん。わかるよね」
「藤野さん、助けて」嘆願した折戸くんの首すじを、赤いしずくが垂れていく。「ごめん、星川さん。死にたくないんだ……」
その悲壮な声が、選択肢などないのだと伝えていた。
あたしはふるえの止まらない手でライターを握りしめ、石に指を置く。
死んでいる。
星川は死んでいる。
あたしは言い聞かせた。
全身をばらばらにされて、人間が生きているはずがない。いつきさんの言うことは、家守の人智を超えた力は真実なのだ。そんなものに星川が囚われ、苦しみに苛まれているのだとしたら、あたしは星川を救わなければならない。
なにより、折戸くんは生きているのだ。
死んだ姉に執着し、全員をこんな状況へ追いやった。
あたしは今度こそ、生きている人を思わなければ。
「聞くな! 波美、聞かなくていい……」
きっと、折戸くんの次は景さんだ。
星川。
「ごめんね。すぐ……楽にしてあげるからね」
あたしは星川を見ず、声も聞かず、指先に意識を集めた。
じじっ。
石を擦る。
火は起きない。
もう一度。
火花が起きない。
「なんで……」
しかしどれだけ石を擦ろうと、火が起きることはなかった。
大きな笑い声が響き、顔を上げる。
いつきさんが、あたしをあざ笑っていた。
「それね、壊れてるの」彼女は言った。「殺そうとしたのね」続けた。「恋人を、焼き殺そうとした」
「それは……」
ライターを取り落とす。
「それは? 正当な理由がある? どう言い訳してもおまえが愛する人間の死を許容したことに変わりはないでしょう。殺してもいいと思った。友人を理由にでもした?」
ちがう。
今度は声にならなかった。
それは事実だ。なにも違わなかった。
「やはりあいつの娘だ。あいつと同じ、わたしを棄てた。みどりと同じ、わたしのことも忘れて楽になった。呪われた血だ。本当は他人なんてどうだっていい。波美。おまえは呪われている」
彼女は燭台の蝋燭を取り上げ、テーブルへ傾ける。
その望みがわかり、あたしは絶叫した。
星川はあたしを見つめ、こう言った。
「ひと殺し」
その目はつめたく濡れていた。
そして巨大な熱と光が立ちのぼるとすべてがまっ白になると、いつまでも聞こえる絶叫があたしのものなのか星川のものなのかわからなくなり、そのときなにかがぶつかるような音とともに、目の前に黒い影が飛び込んでくる。
その人の名前を、あたしは呼ぶ。
景さん。
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